I will always love you! 作:リアム
デイヴィッドと呼ばれたサラブレッドがゆっくりと放牧地を歩き始め、人が触れる事にも怖がらなくなってから暫く、デイヴィッドは左右に首を振り、小さく嘶いては歩くという挙動を始めた。
「まるで、誰かを探している様でした」
牧場に勤める人間は、懐かしむ様に思い出話に花を咲かせた。
真っ暗な世界で目が覚める。中途半端な時間に目が覚めてしまったと暗闇に慣れた視界で時計を捉えて時間を確認してみれば朝の4時。
明るくなり始めた空を見て、寝直すにもどうせもう直ぐでアラームが鳴る時間という微妙な時間で、溜息が漏れる。
取り敢えず水でも飲んで、アラームが鳴るまでは布団の中で身体を休めていようと考えながら、食道の流れを感じる冷たさを楽しみながら窓の外から海を眺める。
いつもの癖で地面の調子を確認しながら目線を動かしていれば、遠くに一人の人間、違う、ウマ娘の後ろ姿が小さく見える。
もう朝練を始めるのかと感心の気持ちと、負けてられないという対抗心が湧き上がってくるのに反比例して、身体から急に温度が無くなる。手に持っている水と同じ様に身体が冷える。
「た、たいへんだ……っ!」
後ろ姿が見えたウマ娘は前触れも無くしゃがみ込んでしまった。手荷物を砂浜に置いた訳では無く、耳を押さえてまるで怯えているかの様な姿。
ペットボトルを冷蔵庫に戻す時間すら惜しいとキャップを回す回数も最低限に、休んでいる他の皆を起こすかもなんて心配も考えず全てを乱雑に扱い走る。
必死に走ってもあの背中にはまだ遠くて、ウマ娘の身体能力が、この時ばかりは羨ましくなった。
殆ど脱げかけた靴を引き摺って、足にまとわり付く砂も気にせずウマ娘の元へと漸く辿り着く。
大丈夫かと手を伸ばしかけたと同時に掠れた声が漏れる。
ウマ娘、は、自分のよく知った。専属契約を結んだウマ娘と同じ容姿を持つウマ娘だった。
少し大きめの耳、黒髪のショートカットから覗くアクセントの栗色。
分かり易く身体を震わせて、ずっと何かに怯えている。
人間の俺にすら聞こえる声で「御免なさい」「御免なさい」と懺悔している。「痛い」「やめて」「御免なさい」と泣いている。
周りには何も無い。彼女を害するナニカも、凶器になり得る不審物だって何一つ見当たらない。
海風に長年晒されてボロボロになった倉庫にだって危険物は入っていない。空っぽの建物の筈だ。
「で、デイヴィッド……」
落ち着かせようと声を掛けても、震えは止まらない。
釣られて声が震える。
情けない。と、自分が嫌いになる。
「大丈夫、大丈夫、だから」
緊急時、どういった行動をするべきなのか頭に入っている筈なのに、いざ必要な場面に直面したら頭は何も働かない。知識の一つも取り出せない。
急病の人を取り囲む野次ウマと変わらない。
「……デイヴィッド、デイヴ。落ち着いて、だいじょうぶ。だから、ね。まずは、ゆっくり呼吸をして」
真っ白になった頭で必死に言葉を絞り出して背中をさする。
人を呼ばなきゃ。でも、この子を一人になんて。
誰か助けて。違う、俺が助けなきゃいけないのに。
「大丈夫、大丈夫、だから。痛く無いよ、ここには俺以外誰も、いないから」
「大丈夫だよ。謝らないで、デイヴ」
大柄とは言えない俺ですら包み込める程小さな身体。
夏なのに、雪の中で眠っていたかの様な冷たさを必死に抱き止める。
「…………た……す……け、て」
「うん。君を、俺に助けさせて」
俺のシャツを握った小さく細い手を優しく包む。
この子は何に怯えているのだろう。
この子は何を心に背負っているのだろう。
どうして俺は、この子の事を知らないのだろう。
Don't worry, I'm not afraid.
目が覚める。真っ暗闇の中、月の光だけが照らす部屋の中で目を凝らし時計を確認すれば、前回目を閉じた時より2時間分針が動いていた。
久し振りによく眠れた事に、珍しく悪夢を見なかった事に安堵する。
だけど今度は眠れなくなってしまった。
目を閉じても頭に浮かぶのは「次の夢が悪夢になったらどうしよう」という小さな不安。それが集まって、もう眠る事は出来なくなってしまって気分を変える為に散歩でもしようと眠る皆を起こさない様に、慎重に歩いて部屋を出る。
トレーニングの時とは違って、ゆっくりと砂浜の感触を確かめながら歩く。地面に残る足跡を見ながらゆっくりと漂う海風に、髪の毛がさらわれる。
静かな世界。波の動く音しか聞こえない、たった1人の世界。
白んだ水平線を見ながら暫く歩いて、頭の中にあった小さな不安の塊が海に流れていくのを感じてそろそろ部屋に戻ろうと身体の向きを変えた瞬間に、揺れる髪の隙間から目の端に映る。
小さくてボロボロの建物。
それだけだった。
それだけの筈だった。
言ってしまえばどこにでもある様な建物、取り壊しが決まっていないだけの残された物。なのに、フラッシュバックする映像。
眠っている時に見なかった代わりに、現実に侵食した悪夢。
怖い大人がいる。
僕を、蹴る人間がいる。
頭の中で日本語では無い言語で罵るニンゲンの言葉が溢れてくる。
分からないのに、分かりたく無いのに、何故かその言語は勝手に翻訳にかけられて直接頭に響く。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だっ!!!
聞きたく無いから耳を塞ぐ。
痛く無い様に身体を小さくする。
こうしてずっと、耐えてきた。
こうしないと何かが壊れそうだった。
耳を塞ぐ、それでも溢れる言葉は止まらない。
身体を小さくする、それでも幻覚の痛みが襲ってくる。
嫌だ。
怖い。
助けて。
誰か。
誰でも良い。
僕の側にいて。
孤独にしないで。
それだけで、僕は、頑張れるから。
大丈夫、大丈夫、だから。痛く無いよ、ここには俺以外誰も、いないから。
—大丈夫だ。もう怖がるな、ここには俺とお前だけしかいない。
真っ暗な世界。ただ、怖いだけの孤独な世界。
そんな世界の中で、突然一つの光が見えた気がした。
淡くて、小さくて、何の力も無さそうな光。
冷たくて暗い世界の中に一つの温もりが生まれる。
それはまるでお釈迦様から垂らされた蜘蛛の糸の様で、細くて弱いそれに必死にしがみ付いて助けてと叫ぶ。
「助けさせて」
僕は、その一言で救われるのです。
この手を握ってくれる。それだけで僕はこの苦しみも耐えられる。
記憶の奥底にある声で“デイヴ”と呼んでくれるだけで僕はこの冷たさも我慢できる。