I will always love you! 作:リアム
6月という季節柄、わたしが眠った後から雨が降っていたらしい。台風の様な騒ぎは無いけれど、ゆっくりと着実に地面を濡らし続けた水はお昼を過ぎて漸く止まった。
いくら水捌けが良いとされている京都の地面でも乾き切る事はなくて、少し湿っている。
レース前、張り詰めた空気の中、勝負服に着替える前にいつも以上に入念なストレッチをして、蹄鉄のチェックをする。
トレーナーとはレースの事で話す事はもう無い。昨日しっかりしっかり決めたから。
わたしが集中出来る様にって控え室の外で待つトレーナーは、最後に見た時少し手が震えていた。わたしだって、この指先は同じだ。
目の前の鏡に映るわたしの顔に手を置く。
「走ろう、ぼく達の、勝利の為に」
勝負服に腕を通す。
お父さんとお母さんは観客席で見ていてくれる。
トレーナーはゴールの前で待っていてくれる。
おじさんは来れない代わりにわざわざ手紙をくれた。
親分はわたしを抱き締めてエールをくれた。
わたしに、怖いものなんて無い。
「Have a Blast.トレーナー」
「あぁ!!Have a Blastだ。デイヴィッド!!!」
Aiming for GLORY.
青空が雲に覆われた京都の街。
3の上を時計の針が通過してからレース場の緊張感が一気に増す。一人、また一人ターフの上へ姿を現す色とりどりの衣装を見に纏ったウマ娘達の表情はバラバラで、得意げなウマ娘、緊張しているウマ娘、不安げなウマ娘。その誰もにファンがいて、自分の後ろへ何百、何千ものウマ娘達の気持ちを背負っている。
「……出てきた!」
必死に目を凝らす男が一人、小さく言葉を漏らす。
視界の中には男が担当するウマ娘の姿。一度だけ見た、勝負服に身を包んでいる。
「あれ?」
気付いてしまった違和感。本来ならば、件のウマ娘が履くのはシンプルな革靴風のブーツだった。でも、今は、ウマ娘がトレーニング時にも履いている見慣れたシューズだった。
事前確認ではしっかりと一式揃って届けられていた勝負服を男は確認していた。だから、あの姿は緊張からきたウマ娘側のうっかりか、突然の不備か。
男は、ウマ娘を呼び止めて焦り顔を晒しながら心配する。
しかし、ウマ娘は落ち着いて、普段の様子のまま首を振る。
「これで、わたしの勝負服が、完成、するの。アナタのくれた
ぎこちなさも何も無い純粋無垢な笑顔を一瞬見せて走って行く。
ファンファーレが鳴り響く。
宝塚記念が、始まろうとしていた。
さぁ!貴方の夢が栄光を手にするその瞬間を見届けよう!第××回宝塚記念、今スタートですッ!
熱狂に包まれながら一斉に開くゲート、綺麗に走り出す17人。
目を凝らしていた男が目を開く。男の隣にいた2人の男女が小さく声を漏らした。
14番ゲートのデイヴィッドが出遅れました!足を滑らせてしまったか!
手を置いていた柵に力を込める。指の先が白くなって、一瞬で手に滲んだ汗で指が滑る。
男はウマ娘へ、デイヴィッドへ沢山の「想定」を話していた。その中の一つに、出遅れた時の対処法だってあった。
しかし、それは、ぶっつけ本番で起こるのは最悪のストーリーだった。
デイヴィッドが一番後ろのウマ娘から更に少し離れて、18番目に電光掲示板の前を走って行く。
本番、突然起こったアクシデントにより初めての「追込」をする事になった。
「大丈夫だぞーッ!デイヴィッド!落ち着いて走れー!!!!!」
男が出来る事は馬鹿みたいな大声で、大丈夫を伝える事だけだった。
さぁ!先頭は既に第一コーナーへ入る所!17人を引き連れて逃げるのは既にG1を2勝している新進気鋭の逃げウマ娘!2200メートルという距離をまたしても逃げ切ってしまうのか!3バ身程開いて2番手にいるのは、これまでにG1に出走し好成績を収めているウマ娘、今日こそはG1タイトルの戴冠となるか!ほぼならんだ3番手には-
アナウンサーが先頭を走るウマ娘、有力バ達を紹介していく。その中に、デイヴィッドの名前は無い。隊列をおさらいする為に番号で呼ばれる程度。
逃げウマ娘が2コーナーへと入っていく。ウマ娘達の足音が遠くなり、掲示板の画面の方が姿を見易くなる。
「焦るな。落ち着いて、最後の為に体力を使い過ぎない様に」
デイヴィッドは未だ後方。だが、伺える分の表情では焦ったり、パニックに陥ったりといった様子は無い。元々、顔に感情が出辛いウマ娘だから、大丈夫なのだと信じるしかない。
3コーナーに差し掛かり、4メートルという高低差を越える。ここからが正念場。坂を下り、平坦になった瞬間からレースが動き始める。
「……デイヴィッドは小さな身体に沢山のスタミナとスピードを持っている。臨機応変に考えられる賢さも、ラストスパートを支えるパワーも、根性だって持ってる天性のウマ娘だ。だから、大丈夫」
限界を超えて、打って変わり冷静になった頭で男は考える。坂を越えて、ジワリとスピードを上げ3人抜いたデイヴィッドを見ながら手を組む。
走れ、デイヴィッド。
目の前を閉じていたゲートが開き、一歩を踏み出した瞬間。地面が少し歪んでワンテンポ、何かが遅れた。
普段生活する中では、気にならない、気にする事も無い「ズレ」はこの世界において致命傷だった。
初めて一番後ろから走る感覚。焦る心を抑えて、不安で泣きそうになる気持ちを体力の消耗に繋がるからと、平常を装う。
騒がしい世界で奇跡的に届いた「大丈夫だ」の聞き慣れた声を頼りに持っていた知識を引っ張り出す。
トレーナーと一緒に練習していた“もし、出遅れて最後方になってしまった時の対処法講座”を思い出す。
まずは落ち着いて、自分の走りに集中する。
坂を上り、1000メートルを周りより遅れて通過して、下り坂。
道が平坦になった瞬間から少し速度を上げる。溜めていた体力を徐々に使い始める。4コーナーの手前で、本来ならばスタートをしてから直ぐにいる筈だった先頭集団に追い付く。
バチバチと世界が揺れて、踏み込む脚に沢山の力を込める。
蹄鉄を地面に突き刺して地面を抉る。
G1という舞台で逃げ切るなんて格好良い事だ。自分の走りで勝利するなんて格好良い事だ。
でも、それだけじゃない。
最後方からのスタートだったウマ娘が、最後に全員を追い抜いて勝利するのだって、格好良いだろッ!
走れ、走れ、走れ、走れ、走れ!
今のぼくにはそれができる!
しっかりとトレーニングを積んだ身体で、怪我一つ無い健康な状態で、皆から応援されながら走る事ができる!!!
最後方からのスタートだった14番のデイヴィッド!凄い脚だ!先頭のウマ娘は200を切っている!このまま逃げ切れるのか!まだ先頭へは5バ身程の距離がある!
熱狂。
最後方から1人、大外、先頭へ噛み付こうとするウマ娘がいる。
必死の形相で、黒い髪と尻尾を激しく揺らして、小さな身体を誰よりも沢山動かすウマ娘。
「デイヴィッドーっ!頑張れ、頑張れ!」
「デイヴーーーッッ!!!」
「勝てるよ!!!!デイヴ!!!!」
ゴールの前、柵から飛び出そうな勢いで3人の男女が声を上げる。
直ぐそこにまで来たウマ娘の集団は変わらず最初から逃げ続けていたウマ娘と、半バ身後ろにもう1人のウマ娘と続き、デイヴィッドはその喉元まで来ていた。
残り50メートル。
デイヴィッドは届くか!その脚はG1バの脚すらも差し切ってしまうのか!
レースが終わった瞬間に息を吐く。自然と力が抜けて、しゃがみ込む。
最後は人の目では捉えられないコンマの世界。
電光掲示板に下から数字が表示されるのを誰もが息を飲み込みながら見守る。
5着に5という数字が表示される。
4着に10と、クビの文字が表示される。
3着に1と、2の数字が表示される。
祈る。
1着争いは、20万人に迫るファンから夢を託されたウマ娘と、4万人に届かないファンから夢を託されたウマ娘。
しかし、数字に差はあっても、向ける気持ちは同じ。それはどのウマ娘にも違いは無い。
ヤケに静かな世界、特に盛り上げる事も無く無機質に数字の光が灯る。
I 14
II 2
確定。その差は「ハナ」。
公開された決勝写真には、一本の線から人間の目では到底捉えられない数ミリの隙間がある。
勝負の世界において、その数ミリは勝敗へと繋がる。
優勝は14番のデイヴィッド!!!出遅れという不運に巻き込まれながらも、見事G1の栄光へその脚を届かせました!!!
会場が揺れる。
惜しみない拍手と、祝福の声。
何十万の視線を向けられた2人は、握手をして、逃げ続けたウマ娘が腕を引いて小さな身体を抱き締めた。
「悔しい」と、「やられた!」と満点の笑顔で笑いながら叫ぶ。
デイヴィッドは、指示待ちウマ娘から、G1ウマ娘になったのだった。
その光景を見ていた男女が笑いながら静かに目尻を拭う。
その横で、誰よりも、走ったウマ娘よりも何故だか目立つ形で一人の男が泣いていた。
Q.スタート時アクシデントがあった様に見えましたが、レースが終わった今、率直な感想をお願いします!
最初は、凄く……焦り、ました。
でも、トレーナー……が、もしもを、教えてくれてた、から、大丈夫、でした。
後は、僕の実力、を、ちゃんと発揮できた、結果。
勝てて、とても嬉しい。です。