魔王討伐に貢献したオークの英雄、数百年後の世界で人間の女戦士を嫁にする   作:京谷ぜんきまる

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第96話 帰路

 ルサイド宮殿の奥、私室の重い扉をそっと押し開けたゼフラは、息を殺した。

 ラケーシ・ルサイドは、豪奢な椅子に深く沈み込んでいた。

 紅い瞳は虚ろで、厚めの唇は血の気なく震え、いつも左眼を覆っている長い黒髪が乱れて顔全体にかかっている。

 彼女は、決闘が終わってから、ほとんど言葉を発していなかった。

 ……バルカがモーベイにやって来て、まだ三日目だった。

 ゼフラは胸の奥が締め付けられるのを感じた。

 ラケーシはバルカを一目見た瞬間から、彼に惹かれていた。

 二日目にギルベーダを倒したバルカを見て、彼女の瞳は熱を帯びた。

 その夜、ギルベーダを密かに始末し、次の日の朝にはそれをバルカ達に明かし、メトーリアに決闘を申し込み、バルカを強引に手に入れようとした。

 三日目という、短すぎる時間で。

 もっと時間をかければ……。

 ゆっくりと淫気を染み込ませ、霊体を絡め取り、心を溶かしていく。

 ルサイドの血が教えてくれた、確実で、誰にも奪われない方法があったはずだ。

 なのに、ラケーシ・ルサイドは焦ってしまった。

 バルカの圧倒的な力と、地上の呪いをものともせず呪染源すら破壊できる強さ。

 そして、何よりその人柄——強者でありながら、他者を道具のように見下さず、誠実で、純粋で、まさに語り継がれる伝説の英雄のそのもののような在り方。

 ゼフラも、地底界でバルカと遭遇してから、ことあるごとにバルカに触れ、淫気を当てて誘惑を試みた。

 しかし、全く通用しなかった。

 バルカは気づきもしなかった。

 だが、ルサイド氏族長ラケーシの淫気は強大だ。

 彼女は長年、氏族の長として、オークの都モーベイの統治者として男を魅了し、操ることを統治の手段にしてきた。

 ギルベーダのような下衆な雄を、吐き気を堪えながら誘惑し、魅了し、思考を誘導してきた。

 それがルサイドの女達の役割であり、モーベイを守るための唯一の手段だった。

 だがバルカは違った。

 ラケーシが「手に入れたい。愛されたい」と本気で思った雄だった。

 だからこそ、焦ってしまった。

 三日目という短い時間で、強引に決着をつけようとした。

 メトーリアという人間の女が常にバルカの傍らにいることで、彼女の胸に黒い焦燥が広がり続け、冷静さを失わせた。

 その結果——。

 バルカははっきりと言った。

 「俺はこの女の方がいい」

 その言葉が、ラケーシの心を粉々に砕いた。

 ゼフラは静かに扉を閉めた。

 室内から、かすかな震える息遣いが聞こえてきた。

 ラケーシ・ルサイドは、ただ椅子に沈み、虚空を見つめていた。

 その瞳には、焦りと怒りと、そして、冷たい執着だけが残っていた。

    ×   ×   ×

 

 修練場から出ていくバルカ達を止めるハイオークはいなかった。

 

「いよっと」

 

 レバームスがルサイド宮殿の重い扉を開ける。

 バルカはメトーリアを抱き上げたまま、外に出た。

 メトーリアはまだ決闘の疲労が色濃いが自分の足で歩きたがった。

 

「バルカ、もういい。降ろしてくれ 」

「わかった」

 

 モーベイ城の敷地内は静まり返っていた。

 ハイオークたちの喧噪は遠く、代わりに石畳に響くのはバルカの重い足音だけだ。

 

「まだ痛むか?」

 

 心配げにバルカはラケーシに切り裂かれたメトーリアの左腕を見た。

 治癒スキルの効果とメトーリアの回復力で傷はふさがり、傷痕もほぼ消えかけていたが、闘気や淫気といった『気』でうけたダメージというものは肉体にも霊体にも長らくその余韻を残すものなのだ。

「……少しだけ。でも、大丈夫」

 

 メトーリアはそう言って、静かに息を吐いた。

 三人は、中庭の地下通廊へ入った。

 ワールドノードの光の渦に近づくとレバームスが思い出したように言った。

 

「そうだ。ギデオンを呼び出してくれ。四基のプローブ・アイの通信接続状況も知りたいしな」

 メトーリアは頷き、意識を集中させた。

「ギデオン」

 淡い光がメトーリアの肩の上に集まり、小さな少女の姿をした器械精霊が現れた。

 ギデオンはいつものように元気よく飛び回りながら、すぐに状況を察した。

「はーい! 呼び出されました~……それにしても、衝撃の展開でしたネ~、いきなりの決闘! 私、休眠状態じゃなかったからリアルタイムで状況を観測してましたけど、まさかバルカの専用武器を鮮やかに使いこなして逆転勝利するなんて……メトーリア、やるジャン!」

 メトーリアの頰が、わずかに赤らんだ。

 レバームスは苦笑しながら本題を切り出した。

「ギデオン、プローブ・アイの通信接続状況はどうだ? 一基はモーベイにいるんだろ? ラケーシ側が俺たちを監視したり追跡してくる可能性はあるか?」

 ギデオンはくるりと空中で回転し、目を細めて情報を読み取るような仕草をした。

「う~ん……とくにそういった命令をしている様子はないですネ。修練場の決闘の観戦者の中にはオーク国の有力者が集まってましたからネ。そこで堂々と『地上の根の谷に帰る』ってバルカが宣言してますから、それを止めようとする者もいないでしょ。ラケーシは私室に引きこもってるみたいですね。プローブ・アイはかなり遠くから観察してるんですが……なんか、すごく暗い気の流れを感知できますよ? 怒りと、執着と……ちょっとヤバいレベルの未練です。『俺は、この女の方がいい』って台詞がかなり効いちゃってマスネ!」

 

 バルカが咳払いをする中、レバームスが眉を寄せた。

 

「予想通りか。ラケーシはまだ諦めていないな。しかし、すぐに行動を起こすつもりもないってとこか」

「じゃあ私たちが地上に戻る道中も、尾行されるということもなさそうか……」

 

 そう言うメトーリアにバルカは静かに頷く。

 レバームスはギデオンに指示を出した。

 

「ギデオン、モーベイからはプローブ・アイも撤収だ。地底界のバサルデ城のワールドノードに出て、城から脱出したらウォルシュ達とすぐに通信したい。準備しておいてくれ」

「了解デス!」

「……アルパイス様にも連絡を入れなければ」

「どう報告するんだ?」

「あったことをそのまま話すよ」

 

 三人はワールドノードの光の渦に足を踏み入れた。

 

    ×   ×   ×

 

 ワールドノードの光が弾け、三人はバサルデ城の地下へと転移した。

 薄暗い石の通路は静かだった。

 ジオルミ照明灯の淡い光が等間隔に灯る中、バルカ達は先を進む。

 レバームスが少し後ろを歩きながら、警戒を緩めずに周囲を見回した。

 地下通廊を抜け、修練場に続く階段を上りきったところで——

 酒の匂いと低い笑い声が聞こえてきた。

 修練場の隅で、数人のハイオークが酒盛りをしていた。

 中心にいるのは警備隊長代理のスタッブスと、その取り巻きたちだ。

 彼らはすでにかなり酔っており、床に転がった空の酒瓶と、モップや雑巾が無造作に置かれている。

 バルカ達が姿を現した瞬間、スタッブスが酒杯を持ったまま顔を上げた。

 

「お? 誰だ……あ~? 知らねえ顔だな。それから人間と、青い肌の……エルフ?」

 

 一瞬、緊張が走ったが、ハイオークたちはすぐに興味を失った様子だった。

 彼らはモーベイで起きた決闘やギルベーダの死、ラケーシとメトーリアの決着など、一切知らない。

 ただの「見慣れない顔の三人組」としてしか認識していないようだ。

 レバームスが軽く手を上げ、にやりと笑った。

 

「通り道を借りるだけだ。邪魔はしないよ」

 

 スタッブス達は酒臭い息を吐きながら、面倒くさそうに手を振った。

 

「んああ、好きにしろ……今夜はギルベーダ様もラケーシ様もいないし、のんびりしてるんだ」

 

 バルカは無言で頷き、メトーリアを抱えるようにして彼らの横を通り過ぎた。

 ハイオークたちは再び酒盛りに戻り、笑い声を上げ始めた。

 誰も追ってこない。誰も疑問を抱かない。

 難なくバサルデ城の地下出口へと到達し、そのままバサルデの城下町を走り抜けて、来たときと同じように街壁を飛び越えて脱出した。

 

 地底界のバサルデ・レルム(圏域)は夜の時間帯だった。

 少し冷たい風が三人を包んだ。

 レバームスが足を止め、バルカとメトーリアの方を振り返った。

 

「ここらでいいだろう」

 

 彼はメトーリアの肩の上にいるギデオンに呼びかけた。

 

「ギデオン、ウォルシュと通信するから俺に取り付いてくれ」

「え? あ、フーン、了解です~」

 

 淡い光がメトーリアの肩から浮かび上がり、レバームスの掌の上に移動した。

 ギデオンは小さく手を振って、

 

「じゃあ二人きりでゆっくりね~♪ 私とレバームスは一足先にウォルシュさんたちのところに行ってます!」

 

 と、からかうように言った。

 レバームスは腕を上げて背の高いバルカの首に回した。

 そして、身を屈めたバルカの耳元に顔を寄せ、低い声で耳打ちした。

 

「ここで決めろ。メトーリアと()()

 

 どぎまぎしたバルカの目がわずかに見開かれた。

 

「……でも、メトーリアはまだダメージを負ってるし」

「ンモ~~~ッ、まだそんなこと言うってヨ」と、横やりを入れるギデオン。

「癒やしてやりゃあいいだろうが。これ、傷薬もやる。『塗るタイプ』だ」

 

 レバームスは懐から小さな革袋を取り出し、バルカの手に押しつけた。

 中には軟膏状の薬と、簡単な包帯が入っている。

 

「こういうシチュエーションがまた盛り上がるんだよッ。少し、根の谷に戻るのが遅くなっても構わんぞ。俺の隠れ家の洞窟をうまく使え」

 

 レバームスはにやりと笑い、バルカの肩を軽く叩いてから離れた。

 

「俺は先行してウォルシュやネイルと合流して根の谷に帰っておくわ……じゃあな」

 

 そう言って、レバームスはギデオンを連れて夜の闇に溶けるように去っていった。

 残されたのは、バルカとメトーリアだけ。

 静かな夜の風が、二人の間を優しく通り抜ける。

 バルカは振り返った。

 メトーリアは少し離れた場所に佇んでいた。

 

「……レバームスは、なんて?」

「その……さきにウォルシュ達を連れて根の谷に帰ると」

「そうか。ならもう少しバサルデから離れてから、先にアルパイス様に連絡させてくれ」

「うむ」

 

 メトーリアの方を見ずにバルカはぶっきらぼうにそう返事した。

 

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