有馬の湯治の歴史は存外古く、どこまで遡れるかと言えば『日本書紀』の時代まで追うことができる。
とはいえ、その時代から現代までおおよそ1500年もの間、常に趨勢を極めていたわけではない。盛者必衰、栄枯盛衰というのは常のものであり、現代の有馬温泉が繁栄しているのも、我々がたまたまかの地が観光地として賑わっている時分に生まれ落ちたからに他ならない。
どこか知らない別の世界にて『競馬』というコンテンツを、『上流階級の余技』と捉えるか、あるいは『ただのギャンブル』とみるか、はたまた『感動的な物語』として認識するかは、文字通りそのコンテンツへの触れ方・捉え方によって大きく変わる。あるいはそうした単一のコンテンツの側面にどう向き合うかということを含めて『時代』という言葉に集約されるのかもしれないが。
ともかく、有馬温泉もまた時代によって大きくその盛衰が変化するコンテンツであった。『日本書紀』の代には一時盛り上がった有馬はその後すぐに最初の衰退期へと向かう。それを立て直したのが、奈良時代の公共事業土木業者であり社会活動家系僧侶であった行基だ。
……まあ、実際のところ行基や空海といった高名な僧侶による開湯の伝承は全国にありふれていて、彼等がどこまでその温泉事業に携わっていたかという真偽性は微妙なところがあるが、とはいえインフルエンサー僧侶によって開かれた湯というライト層人気をガッツリ掴み取る文言は、当時も相当おバズりになられたようであり、その人気は奈良時代を超え平安に入っても、ちょくちょくプチバズを起こす旋風となったとのことである。
それは時代変わった新たなインフルエンサー・清少納言のマクラノバクシン……いや、枕草子にて『マジ、バイプス上がる湯』といった趣旨で挙げられた温泉地の1つであった。が、平安末期には洪水が発生してそのまま復興がなされず1世紀近く放棄される。
しかし、そこから有馬は奇跡の復活を成し遂げる舞台となる。鎌倉幕府の開府前後に再興を遂げた有馬温泉は以後、元寇や応仁の乱といった全国規模の社会騒乱とは無縁なまま繁栄していくことになったのであった……で、終わらない。
当代のマックイーンが降り立ったこの時代の30年程前には火災で焼け落ちたり、10年ちょっと前にも他ならぬ三好家の城に反三好の軍勢が攻め入ったことでその戦災の余波を受けたりとちょくちょく再起不能かに思えるほどの『重傷』を負いながらも幾度となく復活を遂げていた。
……ある意味では。『有馬』そのものがまるで不死鳥のようである。これに類する話を楓林や側仕えの者から聞いたメジロマックイーンは内心、
――まるで、どこかの『帝王様』を想起させるかのようなお話ですわね……。
と、有馬と不死鳥の関連に頭を抱える場面もあったり。
そうした因縁浅からぬ『有馬』という名を冠する温泉への湯治、それにメジロマックイーンが同行することについての可否、これはマックイーンが想定していたよりも遥かに議論が紛糾しているようだ。
三好家上層部たる一門衆の面々は『当主・長慶様の弟君の言うことだし……』みたいな消極的な追認を挙げ、十河一存に憧れる武官の家臣は表立って賛同し、それに対して奉行衆らが真っ向から対立するという有様。そしてこの飯盛山にて最終決定権を有する三好家当主・三好長慶はどちらに肩入れもせずにその議論に注視していたのである。
奉行らが反対する理由は実に単純だ。病身である十河一存と、彼らから見れば脚だけ早いことが発覚した部外者のメジロマックイーン。メジロマックイーンについて信用と能力の双方の側面にて護衛する側ではなく、護衛される側であり同時に監視対象でもある。
だからこそメジロマックイーンを連れて行くという行動そのものが費用対効果の面で極めて悪いのである。如何に三好家が大きな大名家であり、東瀬戸内や大阪湾の物流を掌握する経済大国であるとはいえ、明らかな無駄金を使うくらいなら、雀の涙ほどではあっても兵糧や武器防具の備蓄を増やす方が先決なのではないか、という理でもって反対していた。
メジロマックイーンは、そこまでの内情を伝えられては居なかったものの、大筋のことは漠然と把握していた。そして分かっていたからこそ彼女からは特にアクションを取ることなく事態を静観する判断を取った。
当事者ではあれど、捕虜という側面もあるマックイーンの行動決定権を有するのは確かに庇護をする三好家であることは事実。そしてその三好家の意志決定において、メジロマックイーンはまさしく部外者であることには違いないのだから。
とはいえ、先の3000mレースを十河一存に見られたことで、メジロマックイーンの三好家中での立ち位置は確定した。
それは――指南役である。未だ監視対象であれど、彼女の有する競走ウマ娘としての走行フォームなどの『走り』が評価された結実であった。
この時代、割と何でも『秘技』や『秘伝』として秘匿される傾向にあった。剣術や弓術、あるいは忍術といったものならば想像がつきやすいかもしれないが、それ以外にも『泳ぎ方』『絵の描き方』『投げ方』といった技能もまた先祖代々継承されている秘術としての価値を有していたのである。
そしてそうした技術を持つ者を指南役として招聘して教えを乞うということも珍しいことではなかった。
三好家中の客分に小笠原長時という者が居る。彼は小笠原流弓術の宗家であると同時に信濃の領主であったが、そこが武田と上杉とかいう竜虎相搏の草刈り場と化したこともあり本拠を失い流浪する最中、畿内にて食い扶持を得ることとなる。弓術を修めた家系でウマ娘に師事することも多かったことから、畿内において著名人に『ウマ娘のトレーニング手法』を指南したりもしていた。
あるいは、足利将軍家の兵法指南役として仕えた剣術流派として吉岡流剣術というものがある。ここの当主は代々『吉岡憲法』を名乗る掟となっていて、将軍に剣や兵法を教えるという名誉ある職であった一方で、実家の家伝として『染物』も兼業していて、京における著名な剣術流派でありながら同時に染物屋としての側面も有していた。
また近江の六角家には日置流弓術を相伝する吉田重政が居る。日置流では『唯授一人』の掟が定められていたために、主君より弓術伝授を請われるもこれを断り一時は関係が悪化して逐電するに至った。結局、最終的には主家に縁組する形で変則的に掟を守りつつ主君への伝授を実現させる。時として一子相伝の技術とは、そうした一門との縁組などすら絡まる程には大きなものなのだ。
だからこそ、メジロマックイーンの有する走法。これを楓林に伝えるという行為ただそれだけでも、当代の価値観で鑑みればマックイーンの滞在費程度は破格に安いと思えるくらいには『技術』というものに価値がある時代である。
だからこそ『メジロ流走術』指南としての価値をメジロマックイーンは見出された。だが、それはつまり……
「……この『指南役』とは即ちトレーナーのことですわよね……」
もしかしたら引退後はそういう道も1つとしてはあるかもしれない、と可能性の1つとして漠然と考えていたことが、まさか現役期間中に舞い降りるという事態にメジロマックイーンは内心苦笑する。
そして彼女は与えられた役割に対してそれを十全にこなすだけの『名優』としての側面もあった。だからこそメジロマックイーンはトレーナーとしてではなく同輩の『ウマ娘』として楓林の指南にあたることとなる。
*
三好家の評定が密かに紛糾しているのを尻目に。
メジロマックイーンは十河一存が話していた内容を正しく理解していた。それは自身の走りが有する特性と、楓林が欲する走り方の適性の違いである。
元より『競走ウマ娘』としての走りは、この時代には求められていない。それは既に分かっていた。
メジロマックイーンはステイヤーのウマ娘であり、長距離レースを最も得意とする。その当然である事実に今まで考えもしなかったが、『長距離レース』が得意なことと『長距離を走る』ということは似て非なるほどの大きな隔たりがあることに彼女は気付かされた。
レースの枠組みとして長距離と言えば2500mや3000m、3200mなどといった距離、そしてその距離に応じた様々なレースが頭をよぎることだろう。
しかし楓林が走る長距離とは、城と城、陣と陣、あるいは陣と城といった拠点間を指し、それらの距離は命令と行軍によって流動的に変化する。
それはスピードよりもスタミナが要求されるということ。そして距離適性などという概念の介在がない。自身のスタミナで何m走ることが出来るかを規定することが許されず、命令された距離を確実に走破し、そして同時に次に与えられた命令を連続で淡々とこなせるだけの永続性が要求されている。
だからこそ楓林はラップ走法に近い走りを見せていたし『スパート』という概念すら存在しない走り方を確立していたのである。
そしてそれは確かに一考すれば、もしメジロマックイーンがこの戦国の世と同じような『レース体系』を求められれば、確かに楓林と似たような走行理念を抱くだろうとは思っていた。
そしてメジロマックイーンは気付く。
楓林から見たときにマックイーンに抱く『想い』は。
――『メジロ家』から見た昨今のレース事情に近しいということに。
フジキセキから始まったかのように見えるレースの高速化。そして春の天皇賞、菊花賞に代表されるような3000m超級のステイヤー路線の権威あるレースを無理して狙わない陣営も増えてきた。総合力よりもスピードを重視をするウマ娘が増えてきた昨今。そして伝統と格式よりも中距離路線とローテーション管理に傾く陣営が増えつつある中で、メジロ家はその時代の濁流に飲まれながらも、本質を決して見失って居なかった。
何もかも変わっていく世界の中で、『変わらないことの難しさ』をメジロマックイーンは知っている。そして『変わらない』メジロ家のあるがままで実績を残した彼女だからこそ、楓林の走りを最初から劇的に変えるつもりは無かった。
例えば多くのウマ娘に共通する前傾姿勢による走法。加速局面における前傾姿勢の保持が重要であることはデータとして示されている。空気抵抗や、あるいはそれ以外の『運命的な要因』も重なっているかもしれないが、一方でバイオメカニズム分野から見たときに極端な前傾姿勢は重心を脚から遠いところに持って来ているので、不利な姿勢であるという研究報告もあり、一概に『走る』という行為に対して有益で『正解』な走り方だと断言することは出来ない。
とはいえレース中での加減速を伴う駆け引きであったり、ウマ娘としての本能・闘争精神といった部分における作戦的・心理的な領域に関する研究というのは途上である以上、確実な正答というものが用意されていない領域ではある。
だからこそ。1日の始まりに山を下り街道に出でて湖を眺めながらトレーニングをするようになったメジロマックイーンは、
「楓林さん。これは
「……ええ、マックイーンさん」
教える側、教えられる側と関係性が変化しても『競走ウマ娘』として指南することを決めたマックイーンは、楓林に対して呼び方の変更を認めなかった。
走りを指導するのではなく、共に走ることにマックイーンは重きを置いたのである。
そしてマックイーンが魅せた走り方は、自分が確立してきたフォームではない別のもの。背筋を伸ばし、地面に対して垂直になるようにして脚を前に繰り出しやすく走り方――メジロパーマーの基本フォームである。
「……これは」
「……まあ私の走り方ではありませんけれども、同じ『メジロ』を冠する私の大切な家族が使っているものになりますわ。
楓林さんの元の走法が、あまり細かな加速を多用するようには見えませんでしたので、恐らく均一に走ることを重視するのであればこちらの方が向いているかと。
……それに、背に重い荷物を運ぶときなどに腰を曲げていては負荷が高くかかりますしね」
メジロマックイーンは、自身の、メジロの強みを、『総合力』であると理解している。だからこそ目先の『速さ』に捉われることなく、総合的な速力についての回答を持ち合わせている。
そして楓林への指導は、メジロ家の総合重視ですらも『スピード偏重』となってしまうような、似通っているようで全く別分野のセンスが求められていた。メジロの総合力とはレースにおける総合力である。そしてレースという行為そのものに走り以外の無駄が排されている以上は、どうしても楓林との走りの間にズレがある。
なので、背筋を上げるように教えはした。
「あの、マックイーンさん。貴方は腕と脚を交互に出しておりますが、それは私もやった方が……」
「――いえ。おそらくこういうところが十河一存様がおっしゃっていた『模倣』になるかと。
何も持たずに走るならそれでもいいでしょう。……ですが」
メジロマックイーンは楓林が帯刀している刀を指差す。
「そこまで私と同じにしますと、多分その刀に手がぶつかりますわね。
それに……手脚の動きを反対にするということは少なからず身体を捻るということにも繋がりますわ。……それはきっと、服装的にも不向きです」
「あっ……、刀と帯……。確かにそうかもしれません」
和装の勝負服というのは存在する。懐刀くらいのサイズとはいえ短刀を装飾具として身に着けて走るウマ娘も居る。
けれども、そうした勝負服の服飾技術には走る際の障害に極力ならないように、最先端のテクノロジーが常に介在していた。だからこそ下駄でもブーツでも走れたし着物の帯も崩れることは無かったが……その前提技術が無い以上は、現代では常識的な腕の出し方すらも不正解になり得る。
それは、当然服と装備を変えれば何とかなる話。速く走ることが主目的であればマックイーンだってそれを薦めたが……、楓林とは有力家臣の側近である。そのような立場ある者の周囲に侍る人間が、自己都合で生半可なドレスコードをすることが許されないことは『競走者』ではなく『メジロのウマ娘』として知っていた。
だからこそ。メジロマックイーンの指南は、自らの走法の理屈を教え、そこに至るまでの経緯を論じ、それが楓林の生きるこの時代の社会通念にそぐうものがどうかを重要視していた。
*
「以前、マックイーンさんがお求めになられておりました蹄鉄とは、そういった役割のものでしたか……」
「確かに、あの時は私も説明不足でしたわ」
「いえ、ですが……敷物の底部強化。それは足袋でも同じことが確かにありますし、消耗が激しいからこそ金物にするというのも理にかなっていますね……」
この時代では、足袋と言えば『革足袋』であり、それは草鞋などよりも耐久性に優れるものであった。
しかし楓林はその一歩先の技術である木綿や絹で作られた足袋、全く主流ではないもののそれらについての知見を持ち合わせており、それらが革と比較して耐久力に難があるからこそ底の部分だけに革を当てたりするということを知っていた。楓林の凄さであるとともに、こうした珍しいアイテムに考えを巡らせることが出来るのは三好家が海上交通路を掌握しているからこそ。自治を認めているものの領内に堺という貿易都市を擁し、東瀬戸内交易路は西瀬戸内を経由して九州と接続し、九州の湊は諸外国に通じていた。堺の商家の支店が博多に出されるケースもそれなりにあり、それだけ堺や三好領内には極東の辺境とは思えないくらいの情報が集積されていたのである。
――だからこそ。
「……我が三好の祐筆であらせられ、京の大樹様には御供衆として認められております奉行らの取り仕切りを任せられた御仁より、ご一報がありました。
曰く――『南蛮寺の宣教師が蹄鉄を知っているが故、我とともに受け取りにくるが良い』とのことです」
未だ奉行衆は、メジロマックイーンの有馬温泉同行を決めかねていたが、どうやらその上の人物からお声掛けを頂いた、ということになる。
マックイーンとしては『あまりにもタイミングが怪しすぎる』とは思いつつも、それはそれとして蹄鉄は喉から手が出る程に欲しかった品ではあるので、断る選択肢は無かった。
「……承りましたわ。して、その御方の名を伺ってもよろしいですか?」
「ええ、勿論です――大和国の差配を実質的に任されております『松永久秀』様ですね」
「あら……松永様と言いますのね。分かりました楓林さん――」
メジロマックイーンは教養は申し分ないほどの域に達しているから、著名な茶人としてその名をどこかで聞いたことはあったかもしれない。けれども楓林からは武将や文官としての側面で語られた以上は、その記憶と結びつくことは無かった。
ただ……メジロマックイーンは同時に中等部の学生でもあった。彼女は別に歴女でも戦国オタクという訳でも無い。だからこそ、教養から外れた一般的な『日本史』としての知見で言うのであれば極めて優秀な社会科の成績を収めてはいるものの、あくまで中学生としてである。
なので戦国時代を少し齧ったことのある人物なら、知っているであろう奸臣・松永久秀という一般的な後世イメージをメジロマックイーンは共有していない。
だからこそ。
南蛮寺に赴く前に、飯盛山の松永屋敷にて面会した松永久秀から、次のようなことを言われることを、メジロマックイーンは全く予想だにしていなかった。
「メジロマックイーンですわ。此度はよろしくお願いいたします」
「……うむ。蹄鉄の一件は楓林と十河様より伺っている。儂も朝廷と幕府から切支丹の差配を任された身ではあるから任せておきなされ」
「それは心強いですわ」
「ははは、この老い
――して、1つだけ貴殿に申さねばならぬことがあっての……」
「……? ええ、なんでしょうか……?」
そこで言葉を一旦区切った松永久秀は。
メジロマックイーンの容貌を改めて一瞥してから次のように語った。
「――有馬権現は葦毛を好まぬ。
貴殿が彼の地に同行することは、止した方がよかろうて――」