会社から近くにあるパン屋へ足を運ぶ。
疲労で重たい目元を揉む。
務めている証券会社での労働はクソだ。
数字だけで物を見る日々が続くと、人間性が薄弱になっていく事が分かるのに、それを忌まわしく思わないで生きていける不思議な感覚を味わう。
上司もクソだった。
所詮は私たちも数字の一部でしかない。
感謝されるワケでもなし、ただ働くのが当たり前。
そんな扱いは就職前からも経験があったから幾らか耐性があったが、私と同期だった連中は幾人か心を病んで辞めて行く者もいれば、上司と同調して自身を見失う事で苦痛を忘れるなど行く末は散々だ。
環境は、逃げても変わらない。
私――七海建人は一般の出の呪術師だった。
呪術高専に所属していた時も散々だ。
仲の良かった同期は、私の手の届く距離で死んだ。
最強だと自負していた先輩の一人もまた、そんな過酷な環境に揉まれて精神を病み、命や人権という概念そのものもカスみたいに無い罪や罰を超越した呪術界の中でも犯罪者扱いである。
残った先輩も軽薄で尊敬に値しない。
そうだ、そうだ。
先輩もロクでもないのばかりだったな。
特に一つ上は、羨むのも疲れるような天才たちばかりだ。
慇懃無礼な最悪の呪詛師。
生意気な現代最強術師。
未成年喫煙の反転術式使い。
私が強くなれた一因でもあったが、やはり尊敬とは程遠い。
私もたった一人の同期も苦労させられたし。
普通は歳下を支えてやるのが先輩ではないだろうか。
「……――カスクート」
パン屋の棚に陳列する鮮やかなパンたち。
疲労で霞む視界でさえ、唯一彩りを持って食欲を誘うのはカスクートだった。
この店の物は味が好きでよく買っている。
それ以外にも、理由があるのだが。
「伏倉先輩」
その名を口にしたのも随分と久しい。
伏倉茈苑。
先述したロクでもない一つ上の先輩たちの同級生で、唯一だが私が手放しで尊敬できる人だった。――今は故人、しかも呪詛師に堕ちた先輩と契約した呪霊になっている。
あの人は、私だけでなく同期にも好かれていた。
強さだって、規格外と評される特級術師の二人にも真正面から勝てるだけの実力を有した数少ない人間で、なぜ特級でないのか不思議でならない。
もし、彼女が生きていれば何か違っただろうか。
実際、私の同期の友人が死んだ任務はその彼女――伏倉先輩が請け負う予定だった任務だったらしい。
もし、彼女が生きていたら……。
いや、タラレバはよそう。
どうせ、何したって今は変わらないのだから。
それでも、本当に尊敬できる人なのは変わらない。
2006年の夏。
高専のグラウンドで私と同級生――
最初は数の利なんて設けてどうするのかと伏倉先輩に意図を尋ねたかったが、説明よりも先に攻撃を仕掛けろと指示されて仕方なく私たちは戦った。
私と灰原は得物有り。
対する伏倉先輩は徒手空拳。
条件下からして、あまりにも我々が有利すぎる。――が、結果は酷かった。
「七海くん、脇が甘い」
「うおおおおお!!」
鉈を振りかぶろうとした私の腕の肘に掌底が叩き込まれ、鈍い痺れに行動が停止する。
直後、瞬きの間にがら空きな脇に鋭い拳が四発。
しかも、私への攻撃で生まれた背後の死角で灰原が踏み込んで右ストレートを放とうとするのを予知していたかのように、私の脇を壁のように扱って跳躍し、灰原の胸郭を抉るような肘打ちを突き刺す。
慮外の一撃に灰原が苦しげな呼気を漏らす。
肺の奥の空気をすべて絞り出されたような苦しげな顔だった。
それを見ても、伏倉先輩は止まらない。
灰原の片膝の膝窩を蹴り抜いて体勢を崩すや顎を掌底でまた打ち、続けざまに側頭部へと左右からほぼ同時かと見紛う拳打を見舞う。
「っ、んの……!?」
「ワンテンポ遅い」
その時には復帰し、後ろから取り押さえようとする私の前で彼女はとん、と軽く跳んだ。
中空でひらりと身を翻し、遠心力を乗せた踵で私の顎を強かに撃ち抜く。
軽い衝撃だったが、脳に対しては致命的だった。
私と灰原は呆気なく、先輩に許しを乞うように頭を垂れてくずおれる。
伏倉先輩は、汗一つ滲んでいない。
しかも……終始瞼を閉じている。
「二人とも、前よりは良いね」
褒められたけど、痛い、苦しい……!
だが、やられたのに感服してしまうし悔しくない。
華麗すぎる体捌きだった。
観戦者だったら見惚れていただろう。
先輩たちの体術訓練を見学した事はあるが、他の先輩たちはパワフルに感じるのに対し、伏倉先輩のそれは芸術そのもの。
相手の芯を突く事に特化していた。
しかも、呪力有りの体術だと確実にダメージが入るように洗練された攻撃はさらに凶悪化する。
いくら呪力を束ねた腕で防御しても、大した強さでもないのに受けた部分の感覚がトんで数秒は戻らない上に完全に回復しない謎の攻撃だ。
私の術式は、対象の長さを線分した際に七対三の比率の部分を強制的に弱点にするのだが、彼女はそれを素で行うような人間だった。
言うなれば、我々が苦労して出すクリティカルを呼吸感覚で繰り出してくる。
「伏倉先輩……強すぎです」
「七海くん、狙いが読みやすい」
「っ……」
「術式の所為もあるけど、視線が露骨。サングラスとかかけて誤魔化すの良いかも……ついでにボクは、カッコいいし似合うと思う」
「前半においては参考にします……!」
伏倉先輩は、うつ伏せの私達を優しく仰向けの状態に変えてくれた。
二人で深呼吸しながら、空と先輩を仰ぎ見る。
「その点では、先輩は凄いですね!」
「何で?」
「目を瞑ってるから分かりませんし!」
「ん、そうだね」
灰原の称賛に伏倉先輩は嬉しそうだった。
表情が動かない分、声でよく分かる。
最初は不気味だったが、他の先輩に比べて熱心に呪術的知識を教授してくれる姿勢から、自然と私達は彼女を慕うようになった。
特に灰原は懐いていたな。
「あと、灰原くん」
「はい!」
「……静かに攻撃しようね」
「はいッッ!!」
攻撃前の声で読まれていたのか。
いや、それがなくても伏倉先輩なら予測出来ていただろうな。
とはいえ、彼女のアドバイスは為になる。
主に、術師相手の戦闘においては。
伏倉先輩自体が呪詛師対象の任務が多い事もあって、対人戦だとおそらく右に出る者はいない。この前だって最強だと己を評価していた五条悟という先輩ですら、呪力有りの戦闘で白目を剥いて倒された。
「二人の成長が感じられて嬉しい」
「ありがとうございます!」
「二人とも、次昇格任務なんだよね?」
「はい」
「無事に帰って来たらお祝い。ボク奢るね」
「やったーーーー!!!」
「灰原、落ち着け」
子供のように燥ぐ灰原の頭を伏倉先輩が撫でる。
すると、わたし達の間に腰を下ろして同じように空を見上げ始めた。
「無事に帰って来てね」
伏倉先輩は言い聞かせるようにその台詞を何度も繰り返した。
後日、無事任務を終えて戻ってきた私達を約束通りどころか想像していた以上に奮発して高い店に連れて行ってくれた伏倉先輩には面映ゆい気分にさせられた。
それからも先輩とは、任務でも同じになる事が増えた。
呪霊の腕を蹴りで刃物みたいに切り落としたのを見た時は、流石に私も灰原も体術訓練で途轍もなく手加減されていたのだと痛感させられる。
先輩の打撃は、殺傷力高すぎる……。
そして、やはりというべきか呪詛師相手だともはや鬼神もかくやという戦いぶりだった。
呪詛師集団を十人相手取って十数秒で全員撃破し、後に控えていた二十人を領域展開で掃討する様にはもう先輩に追いつこうと考えるのをやめた程でもある。
戦えば静かな修羅のような人だが、任務が終わればやはり私たちを気遣う優しい先輩だった。
「結界術のコツ?」
「はい。私は結界術が苦手なので」
「…………」
先輩と任務の帰路の最中の会話だった。
私の質問――五条さんや夏油さんならば確実に頼った時点でバカにされると思っていた内容を聞いて、伏倉先輩は黙って考え始める。
補助監督やその他術師が当たり前の如く修得する『帳』だってやっとこの前使えるようになったくらいだ。
まあ、それで充分と考えた時期もある。
伏倉先輩との任務で、領域を使う呪詛師が多くてその度に助けられていたので、領域対策をしようと考えたのだが、相手が結界術なだけあって対抗するには私にも同じ技術が求められる。
何とも歯痒い気持ちだった。
「七海くん、あのパン屋に入ろ」
「え、はあ?」
伏倉先輩から返って来たのは質問に関係無いことだった。
道の途中にあるパン屋。
私と先輩は入って、トレイとトングを手に商品の前に立つ。
これでも、パンには拘りがあるぐらいだ。
「七海くんはパン好き?」
「え、はい……物に選りますが」
「これは?」
「カレーパン……よりは、隣のカスクートの方が」
「じゃあ、今から七海くんの領域はここね」
「…………??」
珍しく何を言ってるか分からない。
困惑する私に、伏倉先輩がカスクートを一つ取って私のトレイに乗せた。
「結界術は世界」
「世界?」
「想像して。自分の好きな物でずらっと囲まれた場所」
「……はい」
「呪詛師はその中のカレーパン」
「カレーパンも嫌いというワケではないのですが……」
「ボクの場合は、相手が自分の体の中にいるって感覚をイメージしながら呪力で外側に
「…………」
「七海くんの領域はパン屋。相手を好きなパンだと思って逃がしたくないってイメージしてみたら良いと思う。壁と床と、それから天井、正確な間取りは後にしても大体それをイメージして呪力を張り巡らせる……体の中でやってる事みたいに」
「なる、ほど」
「結界なんて、大抵イメージが大切だから。後は意識の問題だと思う」
その助言に、私は考えさせられた。
一考の余地はある。
物の例えが予想外過ぎたが、好きな物を逃がしたくないイメージ……たしかに閉じ込めるという概念である『結界』には丁度いい意識の仕方かもしれない。
パンが逃げる……か。
ふふ、何だそれ。
そんな話をしていたら、伏倉先輩の腹の虫が鳴った。
本人が恥ずかしげに顔を俯かせる。
まさかとは思うが。
「パンの話してたらお腹が空きました?」
「……ごめん。真面目な話してたのに」
「ふは、真面目な話でしたか?」
彼女なりに真剣なのだと思ったら、余計に可笑しかった。
その後、しばらくして結界術が上達した。
アドバイスのお蔭だと私が感謝を伝えたら、また灰原を巻き込んでご馳走を振る舞ってくれたりして、本当に我が事のように喜んでくれるのだなと私も幸せな気分になった。
こんな人がいてくれるなら大丈夫。
私や灰原は、この世界でも上手くやっていける。
誰にも歪められないほど強くて、呪詛師を蹂躙していたとは思えないくらい時には無垢で、私たちを優しく導く頼れる人。
尊敬していた、敬愛していた。
そんな彼女に笑えなくなったのは、ある日の事だった。
私は早朝に登校し、見てしまったのだ。
空き教室で、五条さんに組み伏せられた伏倉先輩を。
あれだけ強くて誰にも歪められないと思っていたあの人が、被捕食者として哭いていた。無垢だった彼女は、すんなりと五条さんを受け容れていた。
見た瞬間に、全て瓦解した。
先輩は、私が見ていた事に気付いたらしい。
廊下ですれ違った時、思わず顔を強張らせ立ち止まってしまった私に彼女は初めて笑顔を見せた――苦笑、という笑顔とも呼び難い顔を。
「ごめんね」
何に対しての謝罪か。
ただ、私は何も言えず去っていく姿に何も返せなかった。
それから、伏倉先輩と上手く話せなかった。
彼女を目にするとあの日の光景が思い浮かぶ。
私の中の伏倉先輩の姿が消え去って、真っ暗闇に落とされた気分だった。しかも、その翌年には先輩が死に、しかも呪霊として誰かに使役される身となって帰って来た。
私もそうだが、灰原もかなり落ち込んでいたと思う。
伏倉先輩が死んだと聞いてから、彼の象徴ともいえる明るさや笑顔を一月ほど全く見せなかった。
呪霊として帰って来た彼女に泣きながら抱き着いていたのも、それだけ慕っていた証拠である。
だが、彼女が帰って来ても私は喜べない。
誰かに支配された彼女なんて見たくなかった。
いっそ、そのまま死んでたらいいのに……なんてあまりにも不謹慎な感想すら抱いたくらいに。
そして、灰原が呪霊の手で死んでからは益々伏倉先輩を直視できなくなった。
殺したのは伏倉先輩じゃない。
なのに、謂れの無い怒りを彼女にぶつけてしまいそうになる。
そして――夏油さんの離反。
とうとう手の届かない位置に行ってしまって、私は呪術高専で希望を見失った。
同期も死んで、先輩方……五条さんはどんどん遠くへ行き、家入さんもずっと伏倉先輩に囚われ、墓石にずっと語りかける夜蛾先生等の姿、そして戦うほどに自分の力が伏倉先輩から授かった物で溢れている自覚…………自分を囲う呪いたちに心が保ちそうにないと悟った。
だから、辞めた。
何もかも諦めて、放り出した。
「はあ……」
パンが好きだからパン屋に来る。
それでも、その度に彼女とのあの日の会話を思い出した。いや、思い出したくて無意識に足を運んでいるのかもしれない。
嫌な気分になりながら、それでもコンビニじゃなくてパン屋に来るなんて自傷行為以外に何だというのだろうか。
『七海くんの領域はパン屋』
そんな声が脳内に響く。
再び、灰原や彼女との記憶が呼び覚まされる。
ああ、折角高専を出ても、呪術師を辞めても、呪術を使わなくなっても、伏倉先輩の声は追ってくる。
抗えない、耳を塞いでも聞こえてしまう。
まるで、逃げられない呪いだ。
「いい加減、忘れさせてください……先輩」
誰のルートが見たい?
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夢を叶えた夏油
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計画を完遂した五条
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傷を刻んだ家入