廻り始める狂気
春の頃、呪術高専は慌ただしかった。
元より、全国的な呪いの発生率からもこの時期から忙しくなっていく傾向が多いので例年に比べて不思議ではないが、明らかに異常と言える事態は起きている。
その件について特級呪術師――五条悟は一件の報告書を読んでいた。
記録――2016年11月東京。
同級生による執拗な嫌がらせが誘因となり、首謀者含む四名の男子生徒が重傷を負う。
特級過呪怨霊『折本里香』による物と特定。
五条悟は報告書を机の上に放る。
多忙さが人殺しに域に及んでいる特級呪術師の階級に回る仕事がどんな物かなんて本人が最も理解しているが、ここ近年で最悪と言っても過言ではない内容が持ち込まれていた。
特定の誰かに対する強い攻撃性を有する呪霊――過呪怨霊。
被呪者の少年に危害を加える人間はおろか、少年に歩み寄ろうとする人物……特に異性に過剰反応し、被害を出し続ける。少年はその所為で家族とも離れて生活し、引っ越し先ですら人付き合いがままならない状況だ。
ただ、過呪怨霊自体は珍しくもない。
呪霊『折本里香』の何を以てして厄介と宣うのか、偏に呪いの強さである。
等級にして特級。
分類としては最悪の呪霊ではあるが、他の特級呪霊が生易しいと呪術界の総監部が断言する威力だ。
実際、派遣された術師が何人も返り討ちに遭っている。
だからこそ、五条悟に巡ってきたのだ。
仮に呪いが暴走すれば、被害規模は同じく特級呪霊『茈苑』の再来とさえ言わしめる。ここ数年は目立った行動は無いが、最優先で祓うべき存在なのは『折本里香』同様に十年前から変わらない脅威である。
久しく聞くとびきり厄介な呪い。
ただ、『茈苑』の時とは異なり、今回の件について五条悟は光明を見出していた。
「オマエみたいにはさせないよ、茈苑」
五条悟はそのまま立ち上がり、部屋を出る。
扉の横では、教え子の一人――紫月が待機していた。
険しい顔で迎えた彼女の反応にくつくつと笑いながら、長い茶髪を後ろで一つに束ねた頭を乱暴に一撫でして通路を歩く。
これから向かうのは、秘匿死刑が執行される空間。
気配遮断や空間の強度上昇、呪いを封じ込める呪符が貼り巡らされた悍ましい場所には現在一人拘束されている。
例の被呪者の少年――乙骨憂太だ。
「悪いね、紫月。休日も働かせて」
「ホントに嫌になる」
「まあ、僕の方がヨユーで忙しいんだけどねっ」
「口を開くだけ好感度下げるなら黙ってればいいのに」
「紫月は僕の見た目が好みだもんね」
顔を赤くした紫月の振り上げた足を片足で五条は口笛を拭きながら受け止める。
今回、紫月を同行させたのは安全の為である。
呪術高専が危険だと『折本里香』がいつどのタイミングで発動するかも予測できなかったので、乙骨憂太の連行時から紫月はずっと掛かり切りなのだ。
「紫月が『視て』どう思う?」
「……直視するのが怖いくらい強い」
「僕くらい?」
「毛色が違う。アレは本物の呪い……悟は見るに堪えない、物理的に」
「汚物かよ」
今度親子で一緒に眼科行く?と調子に乗る五条に舌打ちする紫月と険悪な会話を続けていると、目的地に辿り着いた。
重い観音開きの扉を開けて中へ入る。
空間の中央には、乙骨憂太が椅子の上で蹲っていた。
本来なら呪的処理のされた太い綱で縛り、呪いを封じ込めた上で拘束している筈なのだが、いつの間にか解かれている。よくよく周囲を見渡せば、ズタズタに引き裂かれたそれらが散乱していた。
五条が目配せすると、紫月は数歩離れた距離で待機した。
準備も整ったと見て、五条は改めて乙骨憂太を確認する。
生気のない瞳と体を抱く細い手足。
想像はしていたが、かなり呪いに怯えている。
ふと五条は足元に落ちたナイフ……とも言い難いほどに刀身を面白おかしく捻られた物が落ちているのを発見した。
拾い上げて、矯めつ眇めつする。
「これは何かな?――乙骨憂太くん」
五条が尋ねると、掠れた声が返ってきた。
「ナイフ、だった物です。……死のうとしました。でも、里香ちゃんに邪魔されました」
「……暗いね」
初っ端から返事の重さに辟易しつつ、五条はナイフを後ろへと放る。
「今日から新しい学校だよ?」
「行きません」
「……」
「もう誰も傷つけたくありません。だから、外には出ません」
余計に縮こまる少年に、五条は一瞬既視感を覚える。
昔、人質として隔離され、生きていると信じていた矢先に実はずっと昔から死んでいたと報告された時の同級生と同じだ。
これ以上、何も要らない。
ただ孤独に沈んでいくだけ、死んでいくだけ……誰かが手を差し伸べない限り。
「でも、一人は寂しいよ?」
「…………」
「君にかかった呪いは、使い方次第で人を助けることもできる。力の使い方を学びなさい――すべてを投げ出すのは、それからでも遅くはないだろう」
そう説いた五条の声に、唇を噛んだ乙骨がわずかに顔を上げる。
まだまだ活力は無い……が、瞳に光は宿っていた。
五条が手を差し出すと、躊躇いがちに少しだけ手を伸ばして、しかし直ぐに引っ込んでしまう。
やはり、似ている。
そう思いながら、五条が強引に手を取って引いた。
椅子から引きずり降ろされそうになって、慌てて床に足をつけた乙骨と、やっと視線が合った。
「ようこそ、呪術高専へ」
乙骨の解放とその為の手続きを終えた五条と紫月は、二人でまた通路を歩いていた。
五条としては期待を大きく膨らませている。
乙骨に憑いた力は莫大で、六眼で視ても未だ全容は把握できていない。災いとなるか救いとなるかは今後賭けの要素も強いが、仮にもし後者となった時は自身の目指す未来の大きな一助となり得る。
ニコニコと、笑みが止まらない。
対して、隣の紫月は未だに険相のままだ。
「悟」
「んー?」
「また思い出してたでしょ、あの人のこと」
「どうかなー」
「私とあの人、何が違う?」
「ん?」
「……いや、もういい」
走り去っていく紫月を五条は見送る。
邪魔だからと黒い髪を伸ばさなかった茈苑、自分を殺せる実力があった茈苑、自分を選ばなかった茈苑。
紫月は十分に五条の中で彼女と印象がかけ離れている。
本人に伝わらずコンプレックスを肥大化させる原因になっているが、いくら違うと言ってもひとたび懐古の念で紫月を見る瞬間があれば無駄になる。
だからもう諦めていた。
『オマエの姉って、どんな感じ?』
『え?』
『やっぱ双子だから似てんの?』
『……姉さんの目は綺麗だった』
『いやそういうんじゃなくて』
いつの会話だったか。
茈苑に対し、姉について尋ねた時がある。
人質だったり、術式の為の贄だったり、故人だったりと状況や立場ばかり耳にしてはいたが、本人の詳しい情報――趣向や外見等については知らなかった。
無論、当時の五条悟は他人に対してさほど興味を抱かず、身近にいた夏油傑や家入硝子の好物や趣味についての認識も浅い。
それでも姉について不要なのに詳しく聞くのは、単に茈苑との会話の話題を捻出した結果だ。
特に五条と普段から話したい事も無いと本気で言う茈苑相手には、正直これしか踏み込んだ内容が無い。
『明るくて、悟よりは節度を弁えたやんちゃ』
『へー、イラッとする』
『でも、ボクは大好きだった』
『……』
『悟もきっと好きになる』
『無い無い』
だって、きっと同じように執着する事は無い。
この目、この声、この温もりだから乱したくなるし、手に入れたいし、殺したくなる。
そんな本音を口に出さず、姉について嬉々として語る茈苑の声にただ耳を傾ける。半分は聞き流して。
茈苑は自身の腹部を撫でる。
『姉さんに似た子だといいな』
『……第二子は俺に似るんじゃね?』
『今世紀最大の悪い冗談』
『あ゛!?』
『――でもいいよ。無事にこの子が産まれたら、後はもう体は硝子に、人生は悟に、死んだ後は……先約があるけど、うん、兎に角みんなにあげる』
『…………時雨って男はいいわけ?』
『ううん。会いたいよ……でもボクはもう、
だから、全部あげる。
そう約束した茈苑と、紫月は明確に違う。
だから、紫月のコンプレックスは杞憂でしかないのだが、これが一向に伝わる気配が無い。
「アイツを祓うか、いっそ帰って来るなりすれば違うって見せられるのかな」
ただ、後者については危険な予感がある。
仮に茈苑が帰って来れば、それ以外眼中に入らなくなる。
五条は高専にある自身の部屋へと戻る。
正直、部屋の調度品すら皆が目を剥く桁の品々が揃った室内で唯一異彩を放つ物が椅子の上に鎮座している。
それは、精巧に人を象った人形。
あとは、魂を迎えるだけのまだ空っぽな体だ。
六眼と呪術的知識を総動員し、人体や呪骸の事に精通する夜蛾学長と硝子の協力も得て作った傑作に、五条はため息をついた。
抱え上げて膝の上に乗せ、窓の外を見る。
ここに入れれば分かる、何もかも。
生徒として、娘として紫月は理解してくれないが……この気持ちを乙骨、いや呪う側としては『折本里香』が共感してくれるかもしれない。
尤も、乙骨しか眼中にない呪いに共感など求めてもどうしようもないが……と五条は失笑した。
「違うんだけどなー……何もかも」
× × × ×
10年前設立された宗教団体の施設にて、座敷に招かれた二人の男性を前に
いつだって表面上は誰にでも鷹揚に対応する仏のような男を演じるが、この時ばかりは溢れんばかりの不快感を全面に出している。
相手はどちらも非術師。
呪霊すら見えず、呪術の『じ』の字も無い存在。いわば猿と蔑称を付けて塵芥同然に扱う下等種。
にも関わらず、殺さず、帰さずにいる。
その理由は、隣にいる呪霊が原因だ。
少女の姿をした呪霊――『茈苑』。
彼女は胸前で掌印を組む。
見えない彼らは、この沈黙の時間が何かと戸惑っている。
「茈苑、彼らは本当に?」
『うん。術師に成れる』
「……あまり君を働かせたくないんだけど」
『非術師が嫌いなら、少しでも減るように……この人たちは呪力があるけど、脳の
私がため息を付くと、茈苑が片目を見開く。
『領域展開――「
座敷の中に流れる緊張した空気を、異界の景色が圧倒していく。
途端、男たちの体がびくりと跳ねた。
体の奥底、感覚的にさらに奥に宿る形而上の部分にまで及ぶ視線に晒された。
男たちの中で何かが組み変わる。
視線に晒された部分を自覚し、そこに巡る力を知覚する――ソレができる脳が『完成』する。
やがて領域が崩壊し、生まれ変わったような感覚に溺れる男二人組と、私と茈苑が再び現実に帰って来た。
深く息を吐いて消耗に蹌踉めく茈苑を私は抱き上げて自身の隣に座らせる。
「ようこそ、呪いの世界へ」
私が微笑みかけると、彼らの視線は私と――先程まで視えなかった茈苑を交互に行き来している。
新しい術師。
元猿というのもあってやや不思議な心境だが、目覚めたのならば歓迎する。茈苑のお蔭で世の中が如何に玉石混淆としているかが分かった。侮蔑した非術師の中にも、原石と呼べる物があるのだから。
『ごめん』
申し訳無さそうに謝罪する茈苑に私は閉口する。
こんな事は度々あり、その都度怒っても意味がないと諦めの境地に達していたからだ。
非術師を嫌う私が最低限不快にならないようと始まったこの儀式のお蔭で、今や夏油傘下の術師は二百人近くいる。
高専が最近急増する呪詛師の対応に追われているのも、この茈苑による施術があったが故だ。その呪詛師による呪殺も多くなり、それに対する恐怖がじわじわと例年以上の呪霊の発生を促してしまっているが。
戦力増強、理想の世界の実現には是が非でも必要なのは理解できる。
ただ、その為に茈苑を『使う』というのが気に食わなかった。
「茈苑。こっちこそ、いつもすまない」
『ボクは傑の物だから。気にしない』
「……殺し文句だね」
『……?』
「今全力で呪術高専と戦っても、勝率としては三割くらいだろうね。悟を上手く封じ込めれば、十年前からコツコツ集めた呪霊と、集めて育成した『家族』たちの練度から五分五分……」
『悟はボクが戦えば――』
「駄目だよ、絶対に。私を置いて逝くのは許さない」
『…………』
悟に勝つには条件が幾つも必要となる。
中でも絶対条件なのは、一対一である事だ。
余計な横槍があれば隙が生じ、悟の猛威に間違いなく飲み込まれて逆転の目処も立てられずに敗ける。正直、悟一人で我々を殲滅できるからこそ、仮に本気で悟が臨戦態勢になった場合は『茈苑』に手を伸ばす他ない。
夢の実現に悟との激突は不可避だ。
しかし、それを理解していても嫌なものは嫌だ。
悟や硝子、彼らを差し置いて『茈苑』を独占できている自分は愚かにも、人目に触れさせる事自体が恐ろしい。
さっきの新しく術師となった男二人の視線が彼女に向いた瞬間だって殺意を禁じ得なかった。
一瞬だけ理想を忘れさせる激情を抑えるのに精一杯だった自分の情けなさを痛感した。
「何としても『折本里香』を手に入れよう」
『必要?』
「あれがあれば、勝率もかなり上がるからね」
実際、『折本里香』がいれば『茈苑』を出す必要が無くなる。
自分の理想を叶えつつ、最低限欲する心の平穏が保たれるのだから是非もない。
私自体も十年前とは違う。
己の呪霊操術への理解も深めつつ、茈苑からの手解きも得て対五条悟用の戦法は幾つか編み出してはいる……決定打となる物は少ないが。
「絶対に渡しはしないよ、君を」
『……』
「君だけだからね。私に残された物は」
誰のルートが見たい?
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夢を叶えた夏油
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計画を完遂した五条
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傷を刻んだ家入