「おはようございます、○○」
「あ、あぁ……おはようございます、咲夜さん」
紅魔館、霧の湖の近くに立つ西洋風の屋敷。
恐ろしい吸血鬼の屋敷として知られる紅魔館のある一室で、○○は目覚める。
幻想郷と呼ばれるこの世界に突然やって来た時は、一体これからどうなるかと思ったが……。
運良くこの紅魔館を見つけた俺は、ここの主人であるレミリア・スカーレットさんにここで住み込みで働かせてくれと頼み込んだ。
案外すんなりと俺が働く事はレミリアさんに認められ、それから数週間の間俺はこの紅魔館で、目の前にいる十六夜咲夜さんと一緒に働いている。
仕事は主に雑用や掃除などだが、咲夜さんの教え方が上手く、この数週間でレミリアさんに怒鳴られまくった紅茶の淹れ方も、大分マシになったと言われた。
そんなこんなで俺はここで今日も働いている訳だが……最近咲夜さんやレミリアさんの様子がおかしい。
「咲夜でいいと言ってるのに……」
「いやいやそんな訳にいかないよ、咲夜さんは俺の恩人ですし」
「はぁ、まったく……○○、お嬢様がお休みになられるからご挨拶して来なさい」
「分かりました、じゃあ行って来ますね」
寝ていた寝巻きから紳士服に着替えた○○は、眠そうな目を擦りながら咲夜に一言挨拶すると、扉から出て行った。
咲夜は○○が扉から出て行ったのを確認した後、さっきまで○○が寝ていたベッドの上に座り込み、顔を赤らめながら体をベッドに倒した。
「レミリアさん、○○です。おやすみの挨拶をしに来ました」
「入っていいわよ、鍵は開いてるから」
「じゃあ……失礼します」
レミリアは分厚いカーテンで窓を閉め切った部屋の中で、眠そうに目を擦りながら紅茶を片手に本を読んでいた。
○○が部屋に入ると、レミリアは本を読む手を止め○○を見つめると、隣の椅子に座るよう指を指した。
「えっと、何か僕に用事ですか? レミリアさん」
「そうね……用事という用事でもないけど、貴方に少し話があるのよ」
レミリアはそう言うと、少しだけ喉を潤すように紅茶を口に運ぶと、赤い瞳で○○をじっと見つめ、やがて口を開いた。
「……実はね、この紅魔館には地下深くに部屋があるの……普段は咲夜に管理を任してるのだけど、あの子も最近忙しそうじゃない? だから……明日は貴方がやってくれないかしら」
レミリアは不敵に笑みを浮かべながらそう言った。
「管理……ですか、そんな部屋がある事自体初耳ですけど……」
「えぇ、そうね……まさか断る気かしら?」
仄暗い部屋の中で目の前のレミリアの目が赤く光る。
それと同時に重く苦しい有無を言わせぬ圧が、○○に重くのしかかる。
まるで選択する権利すらない事を知らせるように。
「ま、まさか違いますよ……ただ俺からは咲夜さんがそんな管理をしている風には見えなかったので」
「……それはどういう意味かしら?」
「そのままの意味ですよ、朝から晩まで一緒に働いてる咲夜さんにそんな暇あったんだな……って」
「もう一度聞くわ……何が言いたいのかしら?」
レミリアの目はより赤く染まり、○○を睨み付ける。
まるで子供が嘘をバレないように隠し通そうとするように、しかし○○にとっては、それは寧ろ逆効果だった。
○○はレミリアがここまで敵意を露わにするのが理解できずにいた。
ただただ少し不思議に思った事を何気なく質問した、それだけの事で目の前のレミリアは今まで見た事ない程に感情を表に出し、今この瞬間に殺されてもおかしく無いと思えるほど殺気を撒き散らしていた。
「ちょ、ちょっと落ち着いて下さいレミリアさん! ……お、俺はただ……不思議に思ったから聞いただけであって、何もそんなに怒らなくても」
「……話は以上よ、明日の夜にまたここに来なさい、それと……咲夜にこの話はしないようになさい、いいわね?」
「? わ、分かりました……失礼します」
レミリアさんの寝室から戻る廊下で、俺はさっきの話を思い出していた。
咲夜さんに伝えなくていいという事は、咲夜さんはこの事をもう知ってるって事なのか? でもそれなら咲夜さんから何か話があってもおかしくない。
……レミリアさんを疑ってる訳じゃ無いが、本当に咲夜さんは地下室の管理なんてしてるのか……? それにレミリアさんがあそこまで怒ったのも気になる……。
「そもそもこの紅魔館に地下室の入り口らしき場所なんてあったか……?」
「何をぶつぶつと一人で言ってるの?」
「うわぁ!? さ、咲夜さん……驚かさないで下さいよ……」
「? 目の前から歩いて来て気付かない貴方が悪いんじゃない、いいから早く仕事に取り掛かるわよ」
「イ、イエッサー……」
そうして○○と咲夜は紅魔館全体の掃除に始まり昼食作りを終え、花壇の手入れや人里への買い出しを済ませた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
仕事を終え夕食を済ました○○は、自分の部屋で読書をしながらレミリアが起きるまでの時間を過ごしていると、ふと扉からノックの音が聞こえた。
「○○、私よ、今いい?」
「咲夜さん? はい、大丈夫ですけど……」
「そう、じゃあ入るわね」
扉を開け、部屋に入って来た咲夜の格好はいつものメイド服ではなく、男の部屋に入るには少し無防備過ぎる程着崩したパジャマ姿だった。
ボタンを二つほど外した上着からは胸の谷間が意識せざるを得ないほど露出し、薄いズボンからは女性的な身体つきが嫌でも理解できる。
そんな咲夜の姿に○○は酷く動揺し、読んでいた本で咲夜の姿が見えないように自分の顔を隠した。
「さ、咲夜さん……? そ……その格好は?」
「隣、座るわよ」
「え? あ、はい……どうぞ……」
○○の動揺も意に返さず、咲夜は○○の隣に座る。
その瞬間、甘い女性特有の匂いが○○の鼻を刺激した。
お風呂上がりだろうか、それともこれが咲夜さん本来の……いやいや、俺は一体何を考えてるんだ!
咲夜さんは仕事仲間であり上司、頑張れ俺……この幻想郷に来る前の会社で働いていた頃のクソ上司を思い出せ……!
「……今日は冷えるわね」
「え……あの……ちょっと」
いや無理!! こんな咲夜さんみたいな美人メイドに寒いからって言って寄りかかられたら、もう何も考えられねぇ!
大体冷えるって何!? 今日クソ暑いだろぉ!?
「あの……咲夜さん……?」
「……何かしら?」
「その……どうかしたんですか? 今日の咲夜さんは何だか……おわっ!?」
○○が言い終わる前に咲夜は寄り掛かっている○○の体をそのまま押し倒した。
「……女がここまでアピールしてるのに、今更何か言わす気かしら?」
「……っ! え、えっと……マジ、ですか?」
○○の問いに咲夜は頷いた。
咲夜にとって○○は特別だった。
普段関わる事のない異性、そして彼は能力も持たない一般人だった。
か弱く脆い彼は、紅魔館の外に一歩でも出ればその瞬間妖怪に食い殺されてもおかしくはない。
そうして咲夜はレミリアからの命令で、片時も離れる事なく○○の側に出会った時から付き添う事になった。
それが咲夜の心を刺激したのだろう。
最初は何故自分がお嬢様ではなく、こんな男と一緒にいないといけないのか納得が行かなかった。
しかし……貴方の隣はいつの間にか、私にとってかけがえのない物になった。
いつから……なんて覚えてない、もしかしたら最初からだったかもしれないけど……私は貴方が好きよ、○○。
「……ごめんなさい、咲夜さん」
静かに○○はそう言った。
「……っ、どう言う意味かしら?」
「実は俺、レミリアさんに呼ばれているんです、もうそろそろ約束の時間でして」
○○は自分に絡み付いている咲夜の腕を優しく解いていく。
「……そう」
咲夜は○○の背中を見つめる。
男にしては少し小さい背中、でも……だからこそ愛おしいのかしらね。
「だからその……用事が終わった後なら」
「え……それって」
身支度を整え、扉に手をかけながら○○は咲夜の方に振り向く。
その顔は林檎のように真っ赤に染まっていたが、どうやらそれは咲夜も同じなようで、目と目が合った瞬間恥ずかしそうに二人は目線を逸らした。
「じゃ、じゃあ……行って来ますね」
「……えぇ、待ってるわ」
「……く……やさん……さく……や……さん」
「んぅ……○○?」
気怠い体を揺する感覚で目が覚める。
どうやら私は○○の部屋のベットで寝てしまったらしい、紅魔館のメイド長とあろう者が、なんてお嬢様に見つかったら言われてしまうわね。
「咲夜さん」
「……美鈴? ここで何をしてるの?」
私の予想と違い、目を開けたそこに居たのは美鈴だった。
……何か嫌な予感がする、そもそもここに美鈴がいる事自体おかしい、紅魔館の門番である彼女は私かお嬢様の指示がない限りは、門から動かない筈。
……お嬢様? 一体何故美鈴を○○の部屋に……?
「咲夜さん……お嬢様がお呼びです」
「美鈴、○○は何処? さっきから姿が見えないけれど……」
「……お嬢様がご説明されると思います」
「……もう一度聞くわ、○○は……何処?」
美鈴は私の問いに顔を下げたまま答えなかった。
それが私の心を酷く不安にさせ、同時に昨日の夜○○が言っていた事を思い出させた。
「っ! 咲夜さん……」
俯く美鈴を手で乱暴に押し退けると、私は駆け足でお嬢様の部屋へと向かった。
そんな筈はない……だってお嬢様は……そんな事したり……しない。
仕事も不器用ながら○○はこなせていた、だからそんな事は有り得ない……有り得ないわ……。
「……お嬢様……咲夜です」
「入りなさい」
一瞬でも早くお嬢様から言葉が聞きたかった。
普段は丁寧に開くドアを、乱暴に叩くように開け中に入ると、お嬢様はいつものように紅茶を嗜んでいた。
……目を疑った。
何故ならお嬢様の飲むその紅茶からは……まるで血のように鉄臭い匂いがして、私が紅茶だと思っていたその飲み物は、まるで血のように赤く染まっていたのだから。
「お……嬢……さ……ま? ……それ、は……」
「そんな顔もするのね、貴方」
目の前の光景の理解を激しく頭が拒む。
「まぁいいわ、咲夜。今日少し外に用事が出来たわ、支度なさい」
……嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……嘘よ……。
だって昨日……戻って来たらって……○○は、そう言って……お嬢様の所……へ……。
「……○○は、何処に居るんですか……?」
「? さっきからずっと見ているじゃない」
不思議そうにお嬢様は私を見つめる。
その先を聞きたくない筈なのに、私はそれに縋った。
きっと違う、私の勘違い、そんな糸のように細く脆い言葉でも、頼らざるを得なかった。
しかし……私の願いは叶わなかった。
「このカップの中よ」
……その時、私の中の何かが壊れた音がした。
……その日十六夜咲夜は死んだ……
……笑いもしない泣きもしない……
……まるで人形のようにただ生きる彼女を人はこう呼んだ……
……まさに完璧で瀟洒なメイド長と……
偶にはこういう曇らせも…良いですよね?