ダンジョンに英雄を、伴侶を、名声を、正義を、混沌を。果ては出会いなどを求めるのは間違っている 作:七海香波
第239層直下、満ち満ちる
揺蕩う毒霧の奥に顔を覗かせるその巨体のなんと悍ましきことかと、
とめどなく流れ出る黄褐色の膿とともに、腐蝕した血肉が周辺のまだ無事な部位を巻き添えに自重でずり落ちる。かと思えばすぐさま内側からその欠けを埋めるように肉体が膨張し、無事を取り戻して……そしてまた、腐りゆく。
死と再生、命の輪廻を単体で完結させるが如きその在り様は
だが、この世に生を受けて以降永い時をかけて二百層もの
烏頭が如き
「(……動かない。それも、微動さえしないか。モンスターの天敵にして宿敵である冒険者が、こんなにも近くにいるというのに)」
モンスターは冒険者を軽んじない。ごく一部の例外を除いて、彼らはひとたび母たる
されど、目前の怪物は動かない。
体表に無数に浮かぶ瞳の視線は忙しなく空間を行き交っており、クレスの姿を既に幾度となく捉えているように見える。だというのに、その本体は何一つ変化を見せることなく沈黙を守っている。
「(仮称を『
もしくは提燈鮟鱇のように、そうして油断させてから近づいてきたところをぱくり! と捕食する習性なのかもしれない。
いずれにせよ、不意を打たれないよう、かついつでも逃げ出せるように細心の注意を払いつつクレスは相手に近づいた。
穴の淵から跳び、
「(いっそう異臭が強まったな……このマスク内の詰め物もそろそろ換え時か)」
呼吸を最小限に控えながら、取り出した盾を構えた彼はにじり寄るように相手に接近して、その様子をより近くで伺おうと試みる。
体型はおおよそ球体状。もし体表がグズグズに腐敗していなければ、かなり真球に近いだろう。
その下部三割ほどは、
そしてその毒泥の流れが
「(腐り果て、再生し続ける。その根源は
だとすれば、無限にも見える再生行為にも納得がいった。
食らい、そして傷を癒す。足元の泥には上で死んだモンスターの魔石が無数に紛れているに違いなく、その栄養を吸収することで自己強化を行う……それは強化種と呼ばれるモンスターの出現と似た原理であり、また通常の生き物の道理にも通ずる話である。
「(だとしたら厄介だな。こいつにダメージを通そうと考えるなら、まずはこの無限に等しい再生能力を奪うことが前提になる。しかし、言うは易いが行うは難いぞ……?)」
加えて腐敗した肉体の隙間からはみっちりと凝縮された筋繊維が顔を覗かせている。
決して見掛け倒しの風船などではない、超質量の隕石が如き肉塊だ。
その摂食行動を止めるには、地面との接触を完全に断つ必要がある――しかし、どうやって?
「(持ち上げる、なんて
冗談を鼻で笑いながら、ならば逆転の発想をとクレスは考える。
――しかし、その思いついた手法は多少現実的であろうとも階層主を相手にしながら取るべきものではないと彼は諦めた。
「(上の穴を封じ、下に無理矢理新たな穴を開けて、毒沼を全て次の階層に排出してしまう……だが、そこまで大規模な破壊をすれば必ず
前に出現した時には三十層にも渡る阿鼻叫喚の地獄を創り上げた挙句、彼の文字通り死中に活を見出した逆転の一手によって討たれたわけだが、それはさておいて。
「(さて……適当にいくつかに案を
前にクレスが
どこを見渡しても毒、毒、毒の第239層に徐々に体を慣らしながら、彼は潜るたびに滞在期間を増やしていた。しかし、前回の二か月半という記録をまあまあ超えた今、そろそろ健全な状態での活動の限界が近づいてきていると彼は冷静に自覚していた。
必要とあれば休み、迷わず撤退する。軟弱だ臆病者だと誹られようが、クレスはそうした他人からの評価を気にすることなく着実に一歩を積み重ねていく。その
「(今の段階で得られる
そのためにも「あと少しの我慢だ」と気合いを入れ直して、クレスは
ぷちゅ、ぐぽっ……と弾けては零れ落ちる薄汚い
ぐじゅり……どろり……と腐り果て落ちては再生を繰り返す、完治を知らない禿肌。
常人であれば精神が軋み狂い、その
それを前にクレスは平然と自分もまた
「(お、良いものを見つけたな)」
それはひと際多く膿み出た、
毒沼の上に浮きながら強い悪臭で存在感を放っているその『未知』に、彼は物は試しと第239層で回収してきた
粘っこい水音を立てて沈んだそれらは間もなく、断末魔のような気泡を発しながら形を失っていった。
「(やはりと予想していたが、溶けるな。第239層に適応したモンスターたちの肉体さえをも軽く溶かしてしまう、凶悪な溶解毒……捕食した沼の毒素を濃縮して、肉体に溜め込んでいるのだろうな。さながらこの膿は溜め切れなくなった分が噴き出た、間欠泉みたいなものでもあるのかもな)」
それだけでなく、今度は少し離れたところに落ちていた自壊部位の下へも歩み寄る。
ほぼ腐敗し果てたその肉片の中には、まだ僅かに無事な部分が残っている。
その一か所を見据えたクレスは、手持ちの武器からいくつかを選んで攻撃してみた。
「(叩けば固く受け止める。突くか切ろうとすれば今度は柔らかく受け止めてくる。剛柔兼ね揃えた性質とはこれまた面白く、かつ面倒な。腐りかけでこれとなれば、本体はより物理が通りづらいと見える。……ならば、今度は魔法でどうだ?)」
クレスは背嚢から四種の魔剣を取り出して、一振りずつ実験的に振るってみる。
水・土・風・氷と、この階層では大爆発を起こしかねない火属性及び雷属性を除いた一般的な属性の魔剣たち。それらは彼が『深々層』で採取した素材を元に、鍛冶・神秘・魔導アビリティを掛け合わせて無理矢理鍛った自作の武器だ。
打ち手が本職ではない故に、品質は低い。それでも希少な素材をふんだんに注ぎ込んだだけあって、寿命は短いもののそれなりの火力が保証されている。
咲き乱れる水刃、岩石流、真空波、そして吹雪――かの『クロッゾの魔剣』ほどではないにせよ強力な攻撃の数々が、色とりどりの軌跡を描いて標的たる肉塊に着弾した。
「(……なるほど。これでも、ほぼ無傷ときたか。だが、無意味ではなかったようだな)」
残念ながら、
切り裂かれず、穿たれずの堅牢な肉片。
されどクレスの眼は、今のやり取りでその一部が僅かながら削れたことを見抜いていた。
「(良し……今回の戦い方の方向性だが、僅かだが見えた。これは良い収穫だな)」
攻略の掛かり口を見出せたことに、クレスは仮面の下で満足そうに笑みを浮かべた。
後は推測される攻略手順から逆算して、必要な装備を入念に整え、万全の準備を潤沢に拵えるだけ。
手持ちの通常階層攻略用装備は、ほぼ総取っ替えしなければならないなとクレスは頭の中で算盤をはじく。
複数種の
「(素材回収、道具作成……いくつか装備の改修もしなければな。最近眠らせっぱなしの連中の錆も落とさなきゃならんし、こいつは大変だぞ。だが、
クレスの直感は「この
外敵に侵されることなく、ひたすらに食事を続けて肉体に毒と栄養を
触らぬ神に祟りなしというが、どうせ
「(ならばさっさと始末をつけるのが賢明というもの。そのための算段、二重三重四重五重に立てて多少無理やりにでも
そう言わんばかりに疲れた全身に活気を漲らせながら、クレスは勢いよく跳躍して
《Tips》
今更ながらアストレア・レコード読んだけど、ディース姉妹可愛かったですよね。
特にお姉ちゃんの生首を妹ちゃんが発狂して投げ捨てちゃったところが愛らしくて素敵だったと作者は思いますが、皆さんはいかがでしょうか。
まだ読んでない人はぜひ読んでみてくださいね。