PSYCHO-PASS _Orakel und Gesetz 作:鈴夢
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――外務省特別管理特区 "出島"
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雨に濡れる煌びやかな夜景。しかし、海は黒一色に塗りつぶされて灯一つみえない。人工島に浮かぶ都市は東京の街の造りとは大きく違い、どこか不思議な幻想的な雰囲気さえ漂わせていた。
そんな管轄区域に置かれた宿舎の一室に、兄妹と雑賀の3人の姿があった。
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「何か分かりましたか?先生。」
広い室内に舞白の声が響き渡る。
彼女はクッションを抱き、ソファに寝転びリラックスした様子。そして向かいのソファに腰掛ける雑賀へと視線を向けると、何やらノートにペンを走らせる様子を興味深そうに見据えていた。
そして兄の狡噛はロックグラスを2つ手に持ち現れると、そのうちの1つを雑賀へと手渡す。
「…姿を消す前と後じゃ、まるで別人だ。」
「別人?」
「行動や思想、何もかもが以前とは大きく違う。」
ロックグラスを受け取りそれを口に含むとウイスキー特有の濃い香りが微かに漂う。狡噛も同じく口に含み、傍らの壁に体を預けると水滴が滴るグラスを何の気なしに回し視線を落としていた。
「お前達、この男と遭遇はしてないのか?何か他に情報は?」
「「…………」」
雑賀の問いかけに視線を合わせる兄妹。
すると狡噛は舞白に視線で何かを伝えるとそれに応えるように舞白が口を開く。
「グローツラング号での戦闘時、砺波と思われる声を聞きました。」
「何だそれは。」
その時の記憶を甦らせる。
大雨で嵐に荒れる船の上。同じ外務省局員の仲間に突然襲われたと思いきや"不思議な声"を耳にした2人。舞白は聞こえた通りの言葉を口にした。
「"あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい"…」
「…"テモテへの手紙"か?」
新約聖書中の一書。
博識な雑賀はその分が何なのか直ぐに言い当て、傍らの狡噛へと視線を向けた。
「はい。第一章十八節。」
「砺波はクリスチャンではないよな?」
「記録はありません。」
「………はぁ………」
雑賀は砺波の難解な迷路のような思考に吸い込まれそうだった。非人道的な行動と新約聖書の一説。決して聖書を敬うようなクリスチャンでなければ何故テモテへの手紙を引用したのか――
倦怠の色が全身を薄雲のように雑賀を包む。考え込むように目頭を抑え、怠そうにソファの背もたれへと体を預けた。暫く沈黙が続くと、ダラりと力なく天井を見上げた男は思いついたように言葉を発した。
「砺波は自分とパウロを重ねているのかもしれんな。…狡噛、パウロとは何者だ?」
「初めはイエスを目の敵にしていたが、イエスの奇跡を目の当たりにし回心した人物。」
「なら舞白。パウロの思想の特徴を上げてみろ。」
「…えっと…彼の思想は人間の無力さ、不完全さが根幹にあります。"人間は無力かつ不完全なものであるため神の恩寵によってのみ救われる"として、その神の恩寵こそがイエスの死とパウロは考えていた…」
次々と兄妹を試す雑賀。
テンポ良い返答に笑みを零す。
「パウロが考える政治的思想とは何だ?狡噛。」
「政治的思想については、受動的服従が大きな特徴として指摘できます。"権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招く"と政治権力への服従を繰り返し述べていた…」
「更に簡潔に纏めてみろ、舞白。」
「…政治的権威も含め、"この世の権威はそもそも神が決めるものであり、それに背くことは神に背くもの"であると考えた…でしょうか?」
相変わらず知徳に優れた2人。どうやら海外に失踪したからといってその頭の良さは衰えていないらしい。
「フッ……恐れ入ったよ"狡噛兄妹"。」
男の頬には満足そうな笑いの皺がニンマリと刻まれていた。
昔から驚くほどの速度で知識を吸収していくこの兄妹には雑賀も驚くことが多かった。一挙三反、眼光紙背、博覧強記、才気煥発――これ以上、この兄妹に合う言葉は無いだろう。
ゆらりと体を背もたれから起こし、ロックグラスに口をつける。相変わらずの質問責めに舞白はぐったりとソファに寝転ぶと皮肉そうに言葉を呟いた。
「引きこもりがちな先生は"ヨハネ"っぽい。ね?お兄ちゃん。」
「確かにな。」
「なら舞白。お前は預言者の"アンナ"とでも例えよう。」
雑賀の予想外の言葉に目をまん丸とさせる舞白。するとソファから上半身を起こし、クッションを膝の上に乗せ若干前のめりになるような姿勢で反論する。
「私結婚もしてないし寡婦暮らしなんて以ての外、経験無しですよ?接点ゼロじゃないですか?」
「貧しい中にも夜も昼も神に仕えていた――信心深さに勘の良さ、根っから優しい心を持つお前はどう見てもアンナだろう。」
「私がアンナって言うなら、毎日エルサレム神殿で断食と祈りを捧げましょうか?」
「俺がヨハネと言うなら、パトモス島で黙示録でも書くか?」
「先生らしい。ふふっ――」
知徳が無ければ誰しもが理解できないような冗談話で笑い合う2人。
そんな無邪気な舞白の表情を傍らで見ていた狡噛にも穏やかな笑みが口元に零れていた。こんな子供らしい表情を見せたのはいつぶりだろうか。兄なりに複雑な心情を抱いていた。
狡噛が手に持つロックグラスから水滴が垂れ落ちる。それは床の絨毯に跡を残し、じんわりと水分を吸い込んでいく。そんな光景にぼんやりと視線を落としていた時、2人の笑い声を割くように狡噛が言葉を発した。
「――正直なところ、先生が公安局に協力しているなんて意外でした。」
狡噛の台詞に反応を見せる2人。舞白もそれに同調するように視線を再び雑賀へと向けたのだった。すると雑賀はソファからゆっくりと立ち上がり、手元のロックグラスをゆらゆらと揺らしながら窓へと近寄り雨に濡れる夜景をじっと見据える。
数秒間続く沈黙。狡噛兄妹はそんな"先生"の後ろ姿を見つめていた。
「……俺は"常守朱"に協力してるんだ。」
「「……」」
雑賀の口から発せられた言葉。それは予想外…いいや、予想通りの言葉だった。そしてその言葉に言い返す言葉が見当たらない2人はただただ黙り込むことしかできなかった。
「あんまり無茶するんじゃないぞ。」
「なんですか?急に。」
「"彼女"は菩薩でも仏でもない。あまり調子に乗ると執行されるぞ。」
「自分の行動には責任をもっています。」
「お前がそうでも周りが許さんだろう。」
雑賀の視線が隣の狡噛へと向けられる。
恐らくは常守の事を話しているのだろう。狡噛の顔に珍しく困惑の色が見える。
「砺波。あれは暴力装置の悲しい成れの果てだ。残酷な経験があの男の思想や性格を全て引っくり返した。」
「…俺もそうなると?」
「それはお前次第だ。住む家を間違えるんじゃない。」
一歩間違えれば狡噛も砺波のようになりかねないと警告する。砺波という男も以前は何の変哲もない"普通の人間"だったはずなのだ。少なからず野心などを持っていたにしてもあそこまで残酷非道な事をするような男ではない。
何かが砺波を変えた。思想や何もかも。全てを――
「――お前にも言ってるんだぞ、舞白。」
突然、狡噛に向けられていた視線が自分へと向けられ肩を揺らし、動揺を見せる舞白。ソファの上で三角座りをし、呑気に兄と雑賀の会話を半ば聞き流していたのだが…2人の視線がこちらに向けられると間抜けな声を漏らす。
「へっ?」
「他人事と思って聞いてたな?」
「別にそんなこと!………思って…ないです。」
バツが悪そうに顔を背け、徐々に語尾が弱々しく小さく変化していく。背けた顔からは幼子のように"いじけた"というような、それ以上その事を言って欲しくないと言わんばかりに眉を顰める。
舞白は雑賀の言葉の意味を勿論理解していた。それは同じく狡噛もだ。
狡噛が常守ならば舞白は宜野座。
調子に乗り続ければ容赦なく彼らに執行されるだろうし、住む家を間違えれば自分自身の破滅へと向かっていくかもしれない。
雑賀はそれぞれの関係性を理解していた。常守の心の陰にいつも存在していた狡噛の姿。宜野座の視線の先の薄靄に背を向け立ち尽くしていた舞白の姿。
狡噛と常守。
舞白と宜野座。
ハッキリと名前がつけられるような関係でないからこそ、それは問題だったのだ。良いも悪いもどちらにでも転ぶ。だからこそ、雑賀は自分に出来ることを少しでも兄妹に伝えたかった。
「…詫びのひとつくらい入れとけ。年寄りからの助言だ。」
優しいような皮肉なような独特の微笑みを浮かべ、手に持っていたロックグラスをわざとらしく2人に向けて掲げる。
そして兄妹は顔を見合せ、困ったようにため息を漏らしたのだった。
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――同時刻
外務省管轄 宿舎――
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宿舎の一室前に佇むのは部屋着姿の霜月の姿。ショートパンツとTシャツのセットアップに下ろされた長い髪。傍から見れば誰がどう見ても年頃の"可愛らしい"姿なのだが――その顔は相変わらず眉間に皺を寄せ、不機嫌な雰囲気を漂わせていた。
扉を右手拳で何度も叩くも部屋にいるであろう人物は現れる様子は無い痺れを切らした霜月はついに廊下に響き渡るほどの声を上げる。
「ぎーのーざーさん!開けてください!監視官命令なんですけど!?宜野座さん!……デバイスにも反応無いし何なのよ!もう!監視官権限使ってこじ開けますよ!?―――
――ってうわあぁあ!!!」
再び扉を叩こうとしたその時、施錠音と共に開かれる室内への扉。そして悲鳴とも捉えられそうな霜月の声に現れた人物は半ば呆れたような表情を浮かべていた。
「……霜月…」
「ちょっ!宜野座さん!服!!服着てください!」
「急かしたのは誰なんだ。全く…」
辛うじて下半身は部屋着の黒いロングパンツを履いているものの上半身は裸体。漆黒の美しい長い髪の毛はまだ濡れており、バスタオルが被せられていた。そんな見慣れない宜野座の半裸姿に対し、目のやり場に困り果てた霜月は慌てて裸体を隠すように両手を突き出す。
「とっ、とっとにかく!服着てからまた呼んでください!」
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「――という訳で明日はよろしくお願いします。」
「ああ、分かった。」
明日の件で報告漏れがあった事に気づき、律儀にも直接伝えに来た霜月。
"やっぱり直接来るんじゃなかった"なんて微かに心の中で文句を垂れているものの、実は気になっていることもあり直接宜野座の元へと訪れていたのだった。
用事を終えた霜月はテーブルに肘をつき、向かいの席に座る宜野座をじいっと見つめる。そんな相手はその状況に気づかないままデバイスに視線を落としていた。
「………」
若干まだ濡れた艶のある長い黒髪。その前髪の隙間から覗く長い睫毛、切れ長の澄んだ瞳。通った鼻筋に水を含んだような美しい唇――
「((あの兄妹といい宜野座さんといい……言葉が上手く見つからないけど何か気に食わないわ…))」
見慣れない姿だからかもしれないが、いつもと違う執行官の姿に嫌気さえしてしまう。何となく他の人間とは違うオーラというか…例えようのない綺麗なものに妙な感情が湧き出る。その感情は好意ではないのは確かなのだがどうにも"いけ好かない"。
3人が幼馴染だという関係性も妙に鼻に付いてしまう。
「…俺の顔に何か付いてるのか?」
「いや…別に…。髪の毛鬱陶しくないのかなーなんて思っただけです。」
「慣れるとそうでもない。」
さすがにそんな霜月の強い視線を感じた宜野座はデバイスから視線を外し相手に視線を移す。口を尖らせ、むっつりとした彼女の表情は今の今まで何度も見てきた。明らかに自分に対して何かを言いたげな子供っぽい表情に宜野座は更に問いかける。
「何だ?」
「切ればいいのに。」
「切ろうと思ってもなかなかその時間が取れなくてな。」
「…………」
「何なんださっきから。言いたいことがあるなら言えばいい。」
「別に。何も無いですよ。」
"フンっ"とわざとらしく顔を逸らし椅子の背もたれに背を預け腕を組む。ふと霜月が宜野座の長い髪の毛について発言したことには理由があったのだが彼女はあえてそれを口にすることは出来なかった。
まさかとは思うが、その長い髪の毛は"願掛け"なんかじゃないですよね?なんて口にしてしまいそうだったが考えすぎかもしれない。
"願いが叶うまで神の宿る髪の毛を切り離さないことで神様と繋がりを保つ"というような昔から伝えられている願掛け。おまじないや占いなんてこの男が信じるとは思えないが――考えすぎかもしれない。
「それより、用件はこれだけだろう?早く休んだ方がいい。明日も早いんだからな。」
「余計なお世話です。執行官に言われなくても分かってます。…子供じゃあるまいし…」
「それは悪かったな。監視官。」
相変わらずの霜月のぶっきらぼうな台詞に唇をほころばせ微笑を向ける宜野座。強情でどこか無理をしているような、本音を安易に口にしない霜月の姿に"あの子"の面影を重ねてしまう。いつもならばそんな事考えないのに久しぶりに再会したからだろうか。
宜野座は少しだけ手元に視線を落とす。その瞳には寂しさや悲しさが映っているように霜月には見えたのだった。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「……"狡噛舞白"。宜野座さんにとって一体彼女は何なんですか?」
「………」
「彼女について、宜野座さんが色々調べ回っていたのは知っていました。アーカイブの閲覧履歴も私の方で確認させてもらってます。」
「………」
「それに…今日のあの状況には驚きました。まさかあの子相手に手をあげようとするなんて正直意外だったんです。」
予想外の彼女の問いに宜野座は戸惑いを見せる。まさかあの霜月がここまで他人に興味を抱くとは…歳が同じだからなのか、似た境遇だからなのか、単に気に入らないのか――
「…俺は全ての物事に寛容になれるような人間じゃない。…アイツの事となれば尚更な。」
「妥協を覚えたんじゃないんですか?」
「それは……どうだろうな。アイツの兄に関しては妥協を覚えた"つもり"だが……」
"その妹にはどうも妥協という言葉が見つからない。"
「アイツは…"どうしようも無い奴"だ。今はそれしか言えない。」
「どうしようも無い?」
「自分で危険な道を選んで結果ああなったんだ。兄貴と同じでな。」
安堵と腹立たしさを同時に感じるような声色。狡噛舞白との再会は本来であれば喜ばしいことなのだ。だが宜野座からは様々な感情が垣間見える。
"やるせない怒りと嫉妬"
孤独と怒り。空虚感と怒り。
安堵と怒り――
宜野座から感じるのは無念で残念で堪えきれないほど怒りの情だった。
「…少し風に当たってくる。お前も用が済んだなら部屋に戻るんだ。」
「言われなくても戻りますよ。――では、失礼します。」
宿舎のバルコニーへと消えていく後ろ姿。哀愁すら感じるその姿に霜月は"気に入らない"と言わんばかりの睨みを見せると踵を返した。
「何なの…本当に。」
測りしえない2人の関係に重い泥濘に浸かったような気分だった。
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「一服してくる。…舞白、いい加減今日くらい自分の部屋で寝ろよ?」
「何だ舞白?まだ兄と一緒じゃないと眠れないのか?」
「ちょっ!お兄ちゃん!そういう誤解を招く様なこと言わないでよね!お兄ちゃんの部屋の方が本が多いから必然的にこっちで読んで寝落ちする事が多いだけで決してお兄ちゃんと寝てるわけじゃないから!」
思わず反射的にソファから立ち上がる舞白。珍しく顔を真っ赤に染めるその顔は昔の頃に戻った様だった。長らくこの3人で語らっていたせいもあるのか、ここ最近はずっと気を張っていた舞白の心も緩やかなものへと変化していた。そんな可愛げのある"妹"を横目に狡噛はバルコニーへと姿を消す。
「――思っていたより元気そうで良かった。舞白。」
「…先生も。お変わりなさそうで安心しました。」
雑賀との2人っきりの時間。舞白は再びゆっくりとソファに腰を下ろすと嬉しそうに笑顔を零す。テーブルに置かれたマグカップに手を伸ばし紅茶で喉を潤す。ゆっくりとマグカップを口から離し、再びテーブルへと戻そうとした時、目の前の男は穏やかな表情から若干険しいものへと変化していくのに気づく。
恩師と教え子。ただの軽薄な関係では無い2人。舞白はそんな雑賀の顔を見た時、何を言われるか大体想像が着いていた。
「ところで舞白。お前はどこで何をしてたんだ?聞いた話だとシーアンでは2人で行動を共にしていたんだろう?」
「はい、先生の仰る通り。私は日本を出てお兄ちゃんと行動を共にしてました。アジア圏の国々を転々と――」
「……」
「最後に朱さん達と遭遇したシーアン。あの後、実は私とお兄ちゃんは別々の道に進みました。それを決めたのは私です。」
真っ直ぐと向けられる視線。決めたのは私だと言い切った彼女の言葉に雑賀は疲れたような、困惑交じりのため息を漏らすとロックグラスに手を伸ばす。
大きく姿は変わらずとも兄と同じ陰を感じさせるような雰囲気を纏った少女。数年前に最後に会った時とは全く違う様子は雑賀の表情を曇らせる。
「で?順を追って色々と聞きたいとこだが…まずその"腕"はどうした。」
無機質な右腕。長袖のシャツに隠されているためハッキリとそれは見えないもののやはり痛々しい。"年頃の女の子"が何故そんな事にならなければならなかったのか。
そして部屋着のショートパンツから覗く白い脚には複数の傷が刻まれていた。中には数年前の槙島聖護の事件によって遺された傷もあるがそうでない明らかな痛々しい傷跡も見受けられる。
恐らく、身も心も彼女は傷だらけのはずだ。
「え……あぁ……。これは私に与えられた罰です。」
「…罰?」
「はい。"罰"です。」
舞白は過去の出来事を語り始める―――
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シビュラシステムに守られた日本と違い、海外は混乱と紛争に溢れていた。
そんな世界で、自分に一体に何ができるのか。自分が成すべきこと――自分という存在が何者なのか。舞白は兄と同じく傭兵の真似事をしながら生きていた。
いつか自分に下されるであろう"審判"。だからこそ舞白は恐れることなく自信を持って、改めて1人で行動することを決めた。
"自分と向き合う為の放浪旅"
――"その選択が間違っていたらそれはそれでいい。もし、間違ってなければきっとまたどこかで会える。"
当時、私は兄にそう言い放った。
過去に囚われず前に進む。再スタートの為の区切りだと……
しかし、自分の力を過信しすぎていた。
その代償の"罰"だったのだ。
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「――ッぐ……ぅう!!!」
天井から吊り下げられた裸電球の薄い光。それが揺れる度にチラチラと当たりを不規則に照らす。
何度も受けた拷問のせいで目は腫れ、上手く周辺は見えない。ただその分嗅覚は敏感になっていた。
息が詰まるほどの臭気。血腥い臭い。独特な人の汗の臭いなのか、吐瀉物の臭いなのか、この部屋に充満している臭いの元は分からないが吸い込む度に吐き気を感じる。硬い石畳の床に両膝を付け、両腕は男たちに拘束されていた。
「((……しまった……このままじゃ……殺される――))」
たった1人で新疆ウイグル自治区の危険地域に立ち入り行動を起こした舞白。旅先で出会った地元住民達の家族を救うために、拉致されている人たちを救うべくとある組織に潜入したのだが……失敗した。
予想以上の力に捻じ伏せられ、拷問は続き、挙句の果てには胸元に焼印まで打ち込まれた。その痛みも忘れるほどに更に拷問は続く。
「((…微かに聞き取れるウイグルの言葉……それと中国語……。))」
"ピースブレイカー"
そして日本の組織を匂わせるような発言が何度も耳に流れ込む。だがそれすらも深く考えるほど余裕はなかった。いつ殺されるか分からないこの状況下で舞白は完全に戦うことを諦めていたのだった。
「…………ッ――」
「――――ッ……」
何やら話し込む男達。
するとその時、思いっきり体全身を床に押さえつけられ、更に右腕にはもう1人の男の手が加えられとんでもない強い力によって振りほどく事は愚か、体を起こすことさえできない。
「ッ……なに…………
――あっ!?」
リーダー格らしき男の不気味な笑みが見える。押さえつけられた状態で必死に顔を持ち上げようとする舞白に容赦なく男の蹴りが頭上に落ちるとグラりと視界を歪ませた。
「((意識が…………飛ぶ――))」
衝撃で視覚や聴覚が遠のいていく感覚。
間違いなく自分はこのまま死ぬと覚悟していた。
「ッぅ!?ううううぅぅぅああああぁぁぁぁぁぁあああ!!!」
意識を手放そうとしたその時。右腕に感じたことの無い熱と痛みを舞白を襲った。稲妻が全身に駆け巡るような、地が避けて熱い溶岩が流れ出したような恐ろしい激痛――――いいや、それよりもっと酷い痛みだろう。喩えられない痛みと苦痛だ。
意識は手放すどころか痛みのせいで半ば覚醒する。はっきりとした痛みと同時に視覚と聴覚が戻ってくると狂ったように笑う男たちの姿が確認できた。
人間を弄び、楽しむ野蛮な連中。
まさか……自分の最期がこんな事になるなんてと絶望した。
"――ああ、死ぬ。"
ハッキリと確信した――
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「……ッ……」
あまりにも酷な話に雑賀の表情が更に曇る。眼鏡を無意識に指で動かせば疲れきったように眉間を押さえ込んだ。
「それで気づいたら私は花城課長率いる外務省行動課に保護されていたんです。どうやら外務省もその組織の壊滅の為に動いていたみたいで。死にかけていたところをたまたま救われました。」
常人には聞くに絶えない嘘のような本当の話だ。しかしそれが事実であることは確実。舞白の右腕は消失、傷だらけの体――それが全てを証明していた。
「で、その時に狡噛とも再会したと。」
「はい、そうです。お兄ちゃんは先にチベットヒマラヤ同盟国で花城課長にスカウトされた。……お兄ちゃんも色んなことがあったみたいですけどね?なんなら同盟国では指名手配されてますし。」
「……胸元の焼印、見せてみろ。」
「え?構わないですけど……」
舞白は身につけていたシャツを引っ張り下へとずらす。現れた跡に雑賀は眉を顰める。
「これは簡単には消せないだろうな。手術したとしても間違いなく痕は残る。」
「消すつもりは無いです。そもそも治すにもかなり大変みたいだし……何年もかかるみたいです。」
ちょうど鎖骨下あたり、左胸の上にケロイド状の酷い火傷の痕。痛々しいその痕に痛みは感じないようだが酷い見た目だった。真っ白な肌に押された烙印はまるで彼女の誤った選択を罰するかのようにハッキリとした痕が残されていた。
「切り落とされた右腕、深く刻まれた消えない烙印。――とんでもない事だ。」
「私の過信が引き起こした罰です。きっとこの焼印も、失くなった右腕も……全ては私の選択が引き起こしたもの。後悔はしてません。」
「槙島聖護に埋められた"チップ"もまだそのままなんだろう?」
「"コレ"はもう大したことないです。たまに支障はありますけど……前よりもマシになってますから。」
「…はぁ………。お前さんのその調子だと、宜野座執行官が"ああまで"取り乱すのもわからなく無いな。」
「…………」
宜野座の名前を出されると舞白の表情は曇っていく。瞼を伏せ、ただただ自分の手元へと視線を下ろす。言い返す言葉も見つからない。雑賀の言うことに間違いは無いのだ。
「さっきも言ったと思うが、自分が後悔してないにせよ周りは黙ってない。」
「……はい。」
「宜野座執行官は片時もお前を忘れたことは無いだろう。分析官として公安局にいた頃、彼の事はよく見ていたからな。」
「…………」
「…とにもかくにもお前たち兄妹が無事で良かった。結果はどうあれな。」
優しい声色に舞白はゆっくりと視線を持ち上げた。対面側で穏やかに笑みを零す雑賀の姿にぼんやりと霞がかかったように和んだ顔を向けた。
「しかし、何故お前も狡噛と姿を消した?」
「…………」
「お前は潜在犯じゃなかった。槙島聖護の事件に巻き込まれた被害者と言ってもいい。」
「私はあの男を撃ち殺したんです。……殺人犯ですよ?捕まるくらいなら逃げようと思っただけです。」
雑賀の問いに詰まることなく淡々と返答する。何ら変化のない舞白の表情と声色だが相手は敏感に少女の仕草や視線の動きで"本音"を読み解く。
全てを見透かすような男の鋭い瞳に舞白はゴクリと息を飲んだ。
「――いいや。違うな。間違いでは無いがそれを理由にお前は日本を離れたわけじゃない。」
「………………」
「"誰にも言えない秘密がある"。」
「…ふふっ……さすが先生。想像力が豊かすぎますよ。」
「否定しないということは…やはり何かあるんだな?」
正に刀折れ矢尽きるという状況。
雑賀を相手にこれ以上否定しても、何を言っても意味を成さないだろう。
「…はい。」
「………それは、常守朱は知っているのか?」
「はい。」
常守は知っている。その事実に雑賀は微かに安堵した。
「先生にもいつか必ずお話します。」
「別に理由まで話す必要は無い。」
「私は真理のために闘ってます。だから孤独……孤独は怖くない。寂しさも……別に何も無いんです。だからこそ強くなれる気がするんです。」
「"イプセン"の言葉から引用したって説得力がないぞ。」
ノルウェーの劇作家であり詩人でもあるイプセンの言葉を引用する舞白。直ぐに言い当てられると舞白は困ったように笑みをこぼした。
「"孤独と寂しさは違う"……俺は、お前に寂しい思いをして欲しくない。」
「…………先生には何を言ってもそれ以上の言葉で返されるから何も言い返せないです。」
"降参降参"と両手をわざとらしく振るとゆっくりと腰を持ち上げる。そしてストレッチをするようにグッと体を引き伸ばすと清々しい面持ちで改めて雑賀へと視線を向ける。
「それじゃ、そろそろ私は部屋に戻ります。お兄ちゃんにまた何か言われるかもしれないし。」
「ああ、早く寝るんだぞ。」
「はい。明日はよろしくお願いします。」
軽く会釈をし、不意にバルコニーへと視線を向けた。薄らと見える人影は狡噛の後ろ姿。どうやら誰かと連絡を取りあっているのかデバイスから漏れる光が目につく。今のうちにさっさと部屋から出ようと舞白は部屋の出入口へと向かう。
「あ…そうだ。――この件が落ち着いたら、先生に会いに行ってもいいですか?」
部屋の扉のロックを解除しようとしたその時。舞白はソファに座る雑賀に向けてくるっと振り返ると満面の笑みを零す。
「勿論構わない。今のお前の権限なら申請さえ通れば隔離施設に立ち入ることは可能なはずだ。」
「よかった。また久しぶりに本の話がしたいんです。」
「ならお前にピッタリな本を探しておこう。発禁本限定でな。何か希望はあるか?」
「そうですね……恋愛ものの本が読みたいです。」
「多少刺激が強いものになるぞ?」
「もう子供じゃないので大丈夫ですよ?」
「……確かに、そうだったな――」
子供じゃないと口にする少女。しかし、向けられた満面の無邪気な笑顔は幼い頃の面影をしっかりと含んでいた。姿は大人へと変化しているが人間そのものの本質は変わらない。彼女の持つ溌剌とした、無邪気で幼いその様子は昔のままだ。いくら陰を纏っていたとしても、雑賀にとっては昔と変わらない"可愛い少女"なのだ。
「……おやすみなさい。先生。」
「おやすみ。舞白。」
お互いの声は穏やかな波を保ったまま、部屋の四隅に溶け出す。
舞白は部屋を出るその瞬間まで、こちらを優しく見つめる雑賀の瞳を見続けた。去り際に映った彼の表情は様々な感情を含んでいた。
複雑な心境を抱きつつも、舞白は肉親と会話する子供のように自然と顔が和らいでいたのだった。
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