ハチナイ短編集   作:ゾネサー

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塚原先輩と本庄先輩のお話。


二年生編
静謐を湛えて


 夕陽が差し込むひまわりグラウンド。練習の締めとしてグラウンドの周りを走る皆の吐息がせわしなく聞こえてきます。終わりが見えているとはいえ本日の練習は厳しく、体力的な辛さから走るペースが遅くなっている者がほとんどです。かく言う私もそれは同じ。鍛錬が足りていないのでしょうか……。もしそうであるなら、精神が弛んでいる証拠。今度の休みに滝行へと赴き、心を清め、迷いを打ち払う必要があるようですね。

 まずは目の前のランニングへと精神を研ぎ澄ましましょう。ようやくノルマの半分を経たところ、一応この地点を通過するのがランニングを終える最低条件となっています。後は各人の自由。最後まで走るか、体力が続くところまで走るか、あるいは今日はここで切り上げるか。選択は己に委ねられています。確かに体力はきつく、足取りもさらに重くなってきました。「頑張ったから今日はここまででもいいんじゃないか?」という悪魔のささやきが聞こえてくるようです。

 私は最近、年始の書き初めで掲げた『克己(こっき)』という言葉をよく思い出します。すなわち自分を律し、己の欲望や私情に打ち勝つ力です。今の私に最も必要な目標。達成のためには日々の邁進が不可欠と考えます。胸を張って克己心を身につけたと言えるよう、たとえランニングであろうと全身全霊を費やして最後まで走りきってみせます!

 

「もう少し、肩の力を抜いた方が良いんじゃないかしら?」

 

 隣で走る千景が少し困ったような顔で私にそう言いました。当の千景も体力はキツそうですが、呼吸一つとっても荒々しさはなく、傍目から見れば余裕で走っているように感じられそうな凛々しさを備えています。

 

「……そう、でしょうか」

 

 千景にそう言われ、私は視線を下に落としました。剣道では打とうとする意識が強くなるあまり肩に力が入ってしまうことがあります。その結果動きが悪くなり、足捌きが疎かになってしまう。どうやらそれと同じことが起こっていたようです。私は(へそ)の下の辺り——いわゆる丹田と呼ばれる箇所——に右手を添えると、一度息を吐ききった後に鼻から息を大きく吸い込みました。そして溜まった空気をゆっくり吐き出していき、指が沈み込んでいく感覚が伝わってくると、程良い脱力感が私を包んでいくのが分かりました。すると先ほど乱れていた歩幅が整っていき、走るのが楽になったように思えます。

 

「千景、ありがとうございます。おかげで最後まで走れそうです」

 

「ふふ、どういたしまして」

 

 不思議なことに千景は私の調子をすぐに見抜いてしまいます。千景曰く「雫さんは真面目すぎるのよ」とのことですが……剣の道に近道がないように、野球の道にもまた近道はありません。真面目に王道を突き進むことこそ、己が刃を磨く唯一の方法であると私は信じています。それが私にとって力みを生み出す要因となっているのであれば……どうすれば良いのでしょうか。

 最後まで走り終えた私たちは帰り支度を済ませ、並んで帰路に就きました。私と千景はあまり会話を交わしません。代わりに同じ空間を共有しています。隣にいる千景の……安心感とでも言えば良いのでしょうか。こんな穏やかな時間がずっと続けばいいのに、と思うほどです。……本当に……ずっと続けばいいのですが。

 

「……少し寄り道をしませんか?」

 

「あら、珍しいわね。どこへ行くの?」

 

「河川敷に……。何があるというわけでもないのですが、寄り道をしたい気分なんです。……ダメでしょうか」

 

「勿論構わないわよ。目的がなくてもいいじゃない。たまにはそんな時間があってもいいと思うわ」

 

「そう……かもしれませんね」

 

 今日は色々考えすぎているのかもしれない、と私は感じました。いつもの道を外れ、荷物を置いて川を見下ろすようにして草に腰掛け、しばらく風景を眺めていると、さきほどの千景の言葉がじんわりと身体に染み込んできた気がしたのです。寄り道をする必要性は無かったのでしょう。しかし必要か不必要か、そんな考えを一度放棄して、ただ頭を空っぽにしていました。精神統一と捉えれば滝行にも似ています。しかし理屈を抜きにしてこんな時間があってもいいと、そう思えたのです。

 こうして腰掛けてどれだけの時間が経ったでしょうか。顔を上げると太陽が地平線に隠れようとしています。そろそろ帰ろうかと立ち上がろうとした、その時でした。遊んでいた子供の一人が誤って川に落ちてしまったのは。

 

「危ない!」

 

「雫さん!?」

 

 子供は必死にもがいていますが、力が弱く川に流されていきます。私は急いで坂を下りると、そのまま川に飛び込みました。その時、視界の隅に千景の伸ばした手が映りました。ですが今にも沈んでしまいそうな子供を見失うまいと、私はとにかく身体を動かしました。するとまだ大きくは流されておらず、なんとか子供に手が届きました。しかし離すまいと掴み、一安心したのも束の間。

 

「ごほっ! かはっ……」

 

 後は陸に戻るだけ、とはいきませんでした。幼い頃、父と釣りに行った時、海に落ちた記憶が脳裏によぎり、恐怖が私を襲いました。なんとか子供の顔を水面上に出すので精一杯。力を抜いて身体を浮かせようとしても上手くバランスを保てず、水と空気が交互に口に入ってきます。このままでは子供も——そう思った瞬間。

 

「落ち着いて! この川はそこまで深くないわ。立てるはずよ!」

 

 全てが聞こえたわけではありませんでした。しかしパニックに陥っていた私は落ち着きを取り戻し、なんとか立とうと試みました。するとつま先立ちではありますが、辛うじて立つことが出来ました。そのことに思わず安堵の吐息が漏れ出ます。私は流れに逆らうように少しずつですが歩みを進め、千景に子供を託すと、自身も陸にたどり着きました。地に足がついた感覚がとても有り難く思えました。

 

「良いですか。こういった場所には危険が潜んでいます。そのことは良く肝に銘じておいて下さい」

 

「……ごめんなさい。いつもは大丈夫だったから……」

 

「……昨日の大雨で、潮が満ちた時のテムズ川のように荒れていたものね。普段は子供でも足がつくもの」

 

「うん……そうなんだよ」

 

「それはよく分かったわ。けど雫さんの言う通り、危険があるってことも覚えておいてね」

 

「はーい……」

 

「さ、今日はもうお(うち)に帰りなさい」

 

「うん。ありがとう! お姉ちゃんたち!」

 

 溺れていた子供が無事であることを確認し、注意をしてから、家へと帰らせました。子供はよく反省しているようでしたが、私を見る目が怯えていたようにも感じられました。

 

「……厳しく言い過ぎたでしょうか。千景のように優しく伝えるべきだったのかもしれません」

 

「そんなことは無いわ。本当に気をつけるべきことだもの。ちゃんと分かってもらうためにも、厳しく注意する人と優しく諭す人、どちらも必要だったと思うわよ」

 

「……なるほど……」

 

 千景の視点に私は思わず唸らされました。そこまで考えず、私はただ思ったように注意してしまいました。千景のように考えて動ければ、なんて考えていると、不意にくしゃみが出てしまいました。当然といえば当然かもしれません。びしょ濡れの制服に身を包み、すっかり身体が冷えていました。

 

「もう……心配したのよ。あんなに無茶をして……」

 

「……すいません。気づいたら身体が動いていました」

 

「雫さんらしいわね。ここからなら……(うち)が近いわ。行きましょう」

 

「い、いえ。千景に迷惑をかけるわけには……くしゅんっ!」

 

「もう、何言ってるの。風邪をひいちゃうわよ」

 

「うう……申し訳ありません」

 

 河川敷からだと私の家は遠く、見兼ねた千景が自分の家に寄るよう提案してくれました。先ほども助けてもらったのに、千景には助けてもらってばかりですね。とはいえこのままだと本当に風邪をひいてしまいそうです。結局言葉に甘えることにしました。

 タオルで水の滴りを抑えながら彼女の家にお邪魔させてもらいました。部屋を訪れたのは久しぶりな気がします。……と、ここで感慨にふけっていてはいけませんね。早速お風呂場を借りて、シャワーで身体を温めると心地良さが身を包んでいきます。まるで自分の家にいるかのように気が楽になりました。

 そうしていると千景が代わりの服を置いてくれたのが分かりました。そのことに礼を伝えると、「お礼なんていいのに」と言って千景はリビングの方へと歩いていきます。しばらくしてお風呂場から出ると、先ほど私が脱いだ制服が持ち帰りやすいように袋に入れてありました。……千景には内緒なのですが、こうして彼女の優しさを感じられる一瞬が私は大好きです。こうしていられるのも……あと少し、なんですね。

 

 緩んだ心が不意に弱音を運んできました。今まで一直線に進むことを迷わずにいられたのは……千景が支えてくれていたから。彼女に頼らなくても大丈夫なようにと、私なりに考えてきたのですが……今日の出来事を踏まえれば、まだ私は未熟なのでしょう。一人で千景のようにとはいきませんでした。

 

「……雫さん?」

 

「あっ! えっと……ありがとうございました。おかげで温まりましたよ」

 

「良かったわ」

 

「あまり長居しても迷惑でしょうし、この辺で……」

 

「あ……折角だから、一杯飲んでいかない? 今、紅茶を淹れてるのよ」

 

「そういえば……良い匂いですね」

 

「ふふっ。良い茶葉を使っちゃったわ」

 

「そんな……悪いですよ」

 

「良いのよ。一人だといつまでも押し込まれたままだもの」

 

「そういうことなら……遠慮なくご馳走になりますね」

 

「そうしてくれると嬉しいわ」

 

 千景はポットの中をスプーンで混ぜると、ポットを回しながら茶こしを通してカップに注いでいきます。やがて最後の一滴が落ちると、千景は後に入れた方のカップを渡してくれました。

 

「どうぞ。召し上がって」

 

「いただきます」

 

 椅子に座り、私はカップに口をつけました。スッキリした味わいが身体の芯に染み渡っていきます。普段いただくものも美味しいですが、こうして千景の家でいただく一杯は茶葉以上に新鮮で、格別に美味しく感じられました。

 

「美味しいです」

 

「良かった。……ふぅ。暖かいわ……」

 

「ええ。温度もちょうど良いですよ」

 

「あ……そうね。……ねぇ、雫さん」

 

「なんでしょうか?」

 

「今日ね……改めて、雫さんのこと凄いって思ったわ」

 

「えっ!?」

 

 私は声を上げて驚いてしまいました。だって凄かったのは千景の方ではないですか。

 

「子供が溺れかけてた時、正直どうしようか迷ってしまったの。けど雫さんは迷わなかった。子供のためにすぐに動いたでしょう。あなたみたいにわたしも動けたらって、そう思ったの」

 

「ですが……千景に声を掛けてもらわなかったらどうなっていたことか。考えて冷静な判断を下せる、そう動けたらと思ったのは私もですよ」

 

「……そう、だったの。意外ね……」

 

「意外……でしたか?」

 

「ええ。でも……わたしたちはそれで良いのかもしれないわね」

 

「と言うと……?」

 

「あの場ではすぐに動く人と、指示を出せる人が必要だったのよ。お互いに足りないところを埋められた……それがなんだか嬉しく思えたわ」

 

「千景……私もです。いつも私に足りないものを埋めてもらって……感謝してもしきれません」

 

「わたしもよ。……雫さん。一つだけ、聞かせて欲しいことがあるの」

 

「改まってどうしたのですか。なんでも答えますよ」

 

「あのね。……わたしたちが野球部を引退しても……こうして紅茶を飲みに来てくれる?」

 

「……!」

 

 千景も……同じことで悩んでいたのですね。珍しく千景は不安そうな表情を見せました。見えないですが、おそらく私も同じような表情になっているでしょう。野球部を引退し、それぞれ異なる進路を歩んでいく——今とは違い交わるとは限らない。少なくとも機会は減ってしまうでしょう。……そう、悩んでいたのですが。今日の寄り道は、そんな私たちの道を繋げてくれたのかもしれません。

 

「勿論です。今とは形は変わってしまうのかもしれません。ですが……変わらないものもありますよ」

 

「……! ……そうね!」

 

 きっとまた私たちは同じ表情を浮かべているのでしょう。再びカップを手に取ると、そのタイミングまでもが被ってしまいました。私たちは顔を見合わせると、身を委ねました。静かで、満たされたこの空間に——。

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