青眼に構え、鬼と睨みあいながら、左馬助の耳はかすかな跫音をとらえた。光秀が走ってきている。ということは、あの煙が、こちらに向かっているのか。それが自分を襲うためならば、この敵は、新たな煙を出すことができないということだ。罠かもしれない。でも、自分が敗れても、十兵衛様が仇を討ってくれる。裂帛の気合とともに、左馬助が刃を振るう!水の呼吸、参ノ型・流流舞い!
鬼の鋭い爪の攻撃をするりと躱し、そのままくるりと体を返して、その頸を捉えた!
光秀は、追っている煙がふいに消え去るのを見た。やってくれた!左馬助がやってくれた!
部屋に入ると、左馬助は座り込んで、ぜいぜい言っていた。ちらりと光秀を見た。
「本体の方は、鋭い爪の攻撃が脅威でござった。それより恐ろしかったのは、あの煙をまた吐き出すのではないかということだったのでございますが、十兵衛様の跫音が聞こえて、あれを呼び戻していると分かりました。ということは、こいつは煙を出せないと悟ったのです。十兵衛様のおかげで命拾いしました」
と、二人は眼の端に、眠っている男の胸が上下しているのを捉えた。――生きている!
勘解由左衛門範煕様は生きている!
光秀はすぐに走っていった。煕子の部屋に。
疲れ果てた左馬助が部屋に入ったとき、光秀は掌を、煕子の顔の辺りにそっと翳していた。かすかな寝息が指にかかっている。
生きている!煕子殿も生きている!
光秀の顔がパアッと明るくなった。立ち上がると、
「静かに立ち去ろう。起こしてしまっては気の毒じゃ」
光秀の声は弾んでいる。そのとき、そういうことには疎い左馬助も、やっと光秀の気持ちに気がついた。やれやれ、まったく現金なものですな、と言いたいのをグッと堪えて、左馬助も従った。二人は抜き足差し足でそろそろと歩き始めたのだが、その後ろで軽いあくびが聞こえて…
「!…何者です!」
鋭い声に、首をすくめて振り向いた。なんともバツが悪い。
「あら…十兵衛様、いつ、いらしたのですか?まあ、私ったら、こんな格好で……恥ずかしいですわ」
煕子は少し寝ぼけているのか、なんとも間の抜けたことを言う。はにかむ表情がかわいい、と光秀は嬉しくなった。
実は、かくかくしかじかで……と、二人に任せていては話が進みも通じもしないと判断した左馬助が一部始終を語って聞かせた。そこに、一連の騒ぎで目を覚ました家人が集まってきた。彼らの話では、この家の者は皆、そもそもぐっすり眠っており、鬼に襲われたことさえ、気がついていなかったという。呑気なものだ、と苦笑いしつつ、少しホッとした左馬助であった。
外も騒がしくなってきた。鬼の術が解け、元に戻った者の中には、起きていて、鬼の姿の煙と対峙した者もいた。彼らは、いったい何がどうなったのか理解できず、一様にとまどっていたが、集まってきて、光秀らの説明を聞き、やっと得心がいった様子であった。
あの、棒を振りかぶったまま固まっていた男によれば、戸を叩く音が聞こえたので開けてみたら、鬼が立っていた、とのことであった。戸に立てかけてあった心張り棒を手に持ったままだったので、すぐにそれで殴ろうとしたら、鬼の姿が霧か煙のようにふわっと広がったところまでしか憶えていない、とのことであった。他の者の話も、大方同じ内容だった。
それから、里の者が総出で確認したところ、姿が見えなくなっている者がいるというのであった。
助平で、よく女人の部屋などを覗き見て、問題を起こしていた、通称・覗きの又七、それに無口で、ほとんど誰とも口をきかない、通称・だんまりの与助の二人だという。
光秀と左馬助は顔を見合わせた。彼らの末路は、なんとなく検討がついた。
覗き趣味の男は、できれば透明になって、誰はばかることなく、思う存分、覗きをしたかったであろうし、無口な男は、己の内面を隠す固い鎧をまといたかったのであろう。
だが、光秀と左馬助は、その件については何も言わなかった。ただ、他の者と同じように、不思議そうな顔をしておいた。
夜が明けた後、光秀らは妻木の家で朝食をご馳走になった。鴉たちも、木の実やらをもらって食べていた。
互いに礼を言って、光秀たちは帰路につこうとした。そのとき、光秀の肩にとまった鴉がこっそり言った。
「今、言エ、十兵衛。案ズルナ。向コウモオ主ヲ好イテオル。娘ノ親モ、ソレヲ望ンデイル」
光秀は、煕子の顔をじっと見た。煕子も光秀を見ていた。少し寂しそうに、名残惜しそうに見えた。光秀は一歩、前に進み出た。
「今、私と一緒に、我が家に来られぬか」
煕子も、その両親も驚いたようだが、かまわず続けた。
「煕子殿、我が母と叔父上に会ってほしいのだ。その上で……実は、ずっと前から、そなたに言いたいことがあるのだ。今回のことで、やっと気がついた。もし、それを言えずに、どちらかが死んでしまっては、どんなに悔やんでも悔やみきれぬのだ」
驚きと喜びが、その場に広がった。皆、光秀の言いたいことを悟ったようである。嬉し恥ずかしの二人は元より、左馬助も煕子の両親も、朗らかな笑いに包まれていた。