光秀は迷っていた。そして、困り果てていた。美濃国が大変なことになっている。
斎藤利政は、側室の深芳野の死を契機に家督を庶長子である高政に譲り、出家して道三と名乗るようになったが、その高政が異母弟を殺したことに激昂、美濃国を二分する争いへと発展していったのである。多くの家臣が高政側につく中、叔父の光安はこれまでの恩義に答えねばならぬと道三側についた。光秀も、ともに道三側について奮戦したが、道三が敗れ、なんとか明智荘まで逃げ戻ると、光安は家督を光秀に譲ると言い出した。光秀らは反対したが、光安は悲痛な声を絞り出して叫んだ。
「やっと今、兄上への恩を返すときがきた。光秀殿は、このままなんとか、越前まで逃げのびて、朝倉義景様を頼るがよい。明智は傍流とはいえ、土岐氏の流れを汲んでいる。昔から、朝倉様は土岐の者によくしてくれた。朝倉様の元で力を蓄え、必ず再起せよ。そして一国一城の主となるのだ。左馬助は光秀様に同行し、ともに道を開け。儂はここで、そなたらが切り開く未来への礎となる」
早く行け!と叫んだのが、光秀が最後に聞いた叔父の声であった。ごくわずかの手勢を率いて、明智城から飛び出していく背中が、最後に光秀が見た叔父の姿であった。
涙をこらえながら、光秀は身重の妻を背負い、山道を進んだ。道中は鎹鴉が斥候役をしてくれたため、敵と出会うことなく、越前までたどり着くことができた。煕子は、なんと賢い鴉さんでしょう、と喜んで頭を撫でてやっていた。鴉どもは満足げである。そこに、義景の家来が来て、彼らを朝倉家に連れていった。
初めて会った義景は、少し胡散臭そうに光秀らの顔をぐるりと見回したが、早く家に上がるようにと促してくれた。光秀だけが別室に呼ばれたが、広い部屋で、茶や菓子を出して、母や妻を休ませてくれたのがありがたかった。
「そなたが明智家の新しい当主か」
「ははっ、十兵衛光秀と申します」
「ふむ。光安殿の甥御殿だな」
そう言って、悲しげに俯いた。
「光安殿からは、よく文をいただいた。どの文も、最後には、自分にもしものことがあれば、次期当主の光秀殿と息子の左馬助をお頼みします、と書いてあった」
天を仰いだ。涙を堪えている様子である。
「もしものことなどあるものか、と思っていたのだがのぅ……」
光秀も同じように涙を堪えるばかりであった。何も言えなかった。己が生き残り、逃げてきたことが恥ずかしく感じられた。だが、どんなに悔しくても恥ずかしくても、生きなければならない。生きて、叔父の遺言をまっとうしなくてはならない。
「そなたも知ってのとおり、土岐家と朝倉家には浅からぬ縁がある。放っておくわけにもいかぬ。物置小屋に使っていたところがある。片づけておいたから、住めぬこともない。よければ、そこを使ってもらってよい。俸禄として…」
「いや、俸禄の件は結構」
光秀は皆まで言わせず、断りをいれた。この頃、光秀には医術の心得があった。家伝の薬は刀傷によく効くと評判であった。そんなこともあり、医者のようなことをすれば、それなりに食えぬこともなかろう、と考えていたのである。それでも、義景は、何か困ったことがあれば、遠慮なく申すがよい、と言ってくれた。
しかし、光秀の目論見は外れてしまうことになる。