父である明智光綱が死んだ頃、光秀本人はまだ小さかったが、思い出すのは、剣術を指南されたこと――これは武家の長男としてはありきたりのことであったが――と、呼吸の修行をさせられたことである。剣の修行は楽しみだったが、呼吸の修行は単調なくせにやたら厳しく、割れるまで瓢箪を吹かされたのは、特に辛かった。それでも、その辛さに耐えて、呼吸法を身につけていけば、剣技の鋭さも日に日に向上し、自分が強くなるのが分かった。幼いなりに、そのことが嬉しく、父は、彼にとって大きな誇りであった。
しかし、強烈に目に焼きつき、今も時々は夢に見てうなされるのは、その父の死に様である。
冬の夜中のことであった。いや、季節ははっきり憶えていないが、寒かったことは憶えているので、冬の夜中だったのだろう。突然、獣が吠えるような大音声が響き渡り、幼い光秀は飛び起きた。父は、家にはいなかった。獣じみた咆吼が何度も響き渡り、家屋敷の壁さえも震わせた。呼応するように、鬨の声が響き渡り、剣戟の音も聞こえてきたが、次第に人の声は少なくなり、獣じみた声に混じり、何かを噛み砕く音、何かをしゃぶっているような音が聞こえ始めた。
鬼の襲撃だということは理解できた。前にも同じようなことはあったのだ。しかし、今回は、少し様子が違うようだと感じた。いつもはもっと早く鬼の声が途絶え、勝ち鬨の声が響き渡るのだ。
いったい、どうしたんだろう――光秀は恐ろしくてたまらなかったが、少しだけ戸を開けて、外を見た。見なければよかった、と後で思うことになったのだが。
長い角の生えた大きな鬼が、人間を喰っていた。そいつには腕が四本あった。一本の腕で、死んだ人間を喰いながら、その他の腕で、立ち向かう者を打ち据えていた。どこからか、父、光綱が駈けてきた。衣服が血で濡れているように見えた。鬼に向かって刀を振るったが、はじき返された。父は跳び退って、鬼の追撃を躱すと、しばらく呼吸を整えてから高く跳び上がり、鬼の頸に斬りつけた。驚いたのは、父の振るった刀身から憤怒の流れにも似た水流が噴き出したように見えたことだ。
鬼が父を横殴りにするのと、鬼の頸が宙に舞うのがほぼ同時だった。鬼はさらに動いて、己の頸を拾おうとしたが、その途中からぐずぐずと体が崩れ、灰のようになってさらさらと崩れ落ち、風に散った。
光秀はすぐに父の元に走り寄った。父は血の塊を横に吐き捨てると、光秀に言った。
「今のを見たか」と。
光秀は涙を堪えながら頷いた。
「水の呼吸、壱ノ型、水面斬り……憶えたか?」
光秀は、ハッとした。父は死ぬのだ。少なくとも、その覚悟を固めている。だから、自分の遺すべきものが遺せたか、確認しているのだと悟った。小さいときから、光秀は頭のよい子だった。
黙って頷いたら、父は少し笑んだように見えた。
「すまぬな。お前はまだ小さいが、母やこの土地を守らなければならなくなった。そのためにも……」
そこまで言って、ひどく咳き込んだ父は、そのまま、永遠の沈黙に沈んでしまった。
幼い光秀は、父をなじりたかった。なぜ、家を出て、あんな化け物に立ち向かっていったのか。母と自分と、一緒に隠れていてほしかった。そうすれば、父と母と自分、三人で今も一緒に暮らせていたかもしれぬ。あるいは、夜明けまで逃げ回れば、今も三人一緒に暮らせていたはずなのに…なんで、あんな化け物に立ち向かっていったのか、と。
いや、頭では分かっているのだ。父が剣術だけでなく、呼吸の技を身につけていたのは、鬼と戦うためであり、自分に呼吸法を教えてくれたのは、それを継がせるためであった、と。父亡き後(それはまさに今だ)、自分が父に代わり、一族を、里を守らなければならない。いつかそんな日が来ることは分かっていたとはいえ、こんなに急だとは思っていなかった。
母が来て、光秀を後ろからそっと抱いてくれた。その瞳は、夫の亡骸をじっと見つめているのだろう。後ろにいる母の顔は見えなかったが、なんとなく分かった。そのまま母は自分を抱き上げ、家に連れて帰ってくれた。
家に入ると、囲炉裏に火を入れて、母が語った。この明智荘は古くから、何度となく、鬼に襲われていたこと、里を守るため、父である明智光綱は鬼を倒す方法を求め、弟の光安とともに旅をして、日輪刀と呼吸の技を得るに至ったことなどを。
光秀はうなだれて、話を聞いた。いつの間にか、父をなじりたい気持は消えていた。かわって、どうしようもない悲しみと、負うべきものの大きさに押し潰されそうな気持が大きくなったが、じっと堪えて、聞いていた。
家の外で、バサッとかすかな音がした。光秀はそちらを見たが、母は見なかった。
翌日、明智城に親戚一同が集まった。その席で、光秀の祖父、光継より、光綱の弟である光安が光秀の後見となり、明智家を継ぐようにとの指示がなされた。誰も異を唱えず、光秀は母とともに、叔父の世話になって暮らすこととなった。