当時の越前は、戦とはほぼ縁遠い状況であったため、刀傷を負うような者もほとんどいなかったからだ。海の幸、山の幸に恵まれた豊かな国で、医者はほとんど需要がなかった。
仕方なく、光秀は、武家の子らを集めて、四書五経を教えるなどし始めた。教師としての光秀は評判がよく、なんとか糊口を凌ぐことはできていた。とはいえ、光秀自身は内心、忸怩たる思いがあった。
越前では、鬼によると思われる被害はまったくなかった。ただ、時折、どこそこで鬼が出たらしい、などという噂を聞いた。誰も鬼の存在を信じていなかったが、他の鬼狩りが命を賭けて戦っているのに、何もしていない自分が呪わしかった。
また、諸国の大名の戦の話を聞くと、武士としての己の有り様に恥じ入るような気持になった。
鉄砲鍛冶を探して訪ねた京の都の荒れように驚き、将軍様と話して、なんとかこの乱れた世を鎮めたい、強い幕府を中心に、武家がすべて一つにまとまり、世の人々を導く未来を創りたい、と青雲の志をたてたことを忘れたわけではない。ただただ、今の己の姿が嘆かわしかった。
それでも、今は小さな子どもたちがしっかり勉強して、新しい世を創る礎となる日がくることを信じて、武士としての己、鬼狩りとしての己を押し殺して、耐え忍んでいた。
そんなある日、光秀は、朝倉義景に呼ばれた。
「そなた、この辺りの武家の子どもを集めて、勉強を教えているそうじゃな」
光秀は戸惑いを覚えたが、ははっ、と言って頷いた。義景は満足そうに笑った。
「それが、なかなか評判がよいのだ。あの明智という男は優れた教養があると、皆褒めそやしておる。そこでだ、今度、連歌会を催すので、その仕儀を頼みたいのだ」
それは困る、と思ったが、何だかんだ言っても、義景には世話になっている。断り切れない。
光秀が暗い顔をして帰ってきたのを見て、子どもをあやしながら、煕子がどうしたのかと尋ねた。うむ…と言ったきり、光秀は黙っている。煕子が連歌会のことを知ったのは、翌日、左馬助を問い質してのことだった。左馬助は何度も、私が言ったというのは、十兵衛様には内緒ですよ、と念を押した。その様子からも、夫がよほど困っているのは、よく分かった。
連歌会を開くだけならいいのだが、その後の酒宴を皆、楽しみにしている。それなりの宴を催さねばならないが、それには金がかかる。そして、明智家には金がない。そのことは、朝倉様もよく分かっていらっしゃいますでしょうに。一種の嫌がらせだろうか。煕子も憤りを禁じ得なかったが、逆らうわけにもいかない。
結局、自分の髪を売ることで、煕子は金を作り、夫が寝入ってから、枕元にそっと金を置いておいた。
光秀の眠りは浅い。もちろん、いつどこに鬼が現れるか分からないからである。だから、妻が枕元に金を置いてくれたことは勘づいていた。昼間、あの見事な黒髪が妙に短くなっていたので、どうしたのかと尋ねたが、うふふ、と笑っただけで答えてくれなかった。今、その真意が理解できた。光秀は人知れず涙を流した。妻の心遣いがありがたかったが、それ以上に、己が身のふがいなさが身に染みた。
連歌会は無事に終わったが、酒宴の膳を見たときの、義景の不思議そうな顔が頭から離れない。
――私に恥をかかせるための仕儀だったのか?
光秀には、そう思えてならない。朝倉をどこまで信じてよいものやら。できることなら京に出向き、直接、将軍様に仕官したいと思うが、伝手もなく、現状ではどうにも動けない。