光秀血風録   作:猫祭雉虎

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伍 雌伏 其の参

 光秀にとっては、煩悶の日々であった。しかしそんなある日、尾張の帰蝶から使いの者が来た。いや、寧ろ密使と言ってよい。朝倉義景にも気づかれぬよう、細心の注意を払いながら、山道を抜けてきた。

 義父・信秀の代から激しく対立していた駿河の今川義元がついに腰を上げ、尾張に向かって進軍しているという。その数は数万とも言われているのに対し、織田方の兵は数千にしか及ばぬ、十兵衛も参戦してくれぬか、というのである。

 この年になっても十兵衛呼ばわりかよ、と心の中で毒づきながら、光秀は帰蝶の筆跡(て)を懐かしく眺めた。さらに懐かしいと言えば、尾張古渡城を訪ねた際に出会った、松平竹千代という子どものことを思い出していた。その時、竹千代は三河の松平家の世継ぎでありながら、織田の人質となっており、母のいる刈谷城に行きたがっていた。母と離縁し、今川方についた父のことを憎んでいた。そのため、父・広忠を暗殺した信長に対し、むしろ好感さえ持っていることを知って、驚いたものだった。この子はただ者ではない。小さいのに、もうしっかりと己を確立している。三河の領主であると自覚している。そのことに感嘆したのであった。

 あれから何年経ったか、今は松平元康と名乗って、今川の配下になっているらしい。そんなことを思い出しながら熟考して、こう言った。

 「生憎と、当方が参陣するとしても、連れていける兵は、両手にも満たぬ。これでは、焼け石に水。はるばる越前よりはせ参じても、戦力としては、数になりませぬ」

 密使の男は、やはり、という表情(かお)だ。しかし、光秀は続けた。

 「しかしながら、敵が何万、何十万いようとも、信長様が勝つために討つべきはたった一人。今川義元様、そのただ一人だけをお討ちになればよろしいのです。その周りの何万という兵を、義元様から引き剥がすために、尾張と駿河の間にある城や砦をうまく使いなされ。緒戦は相手に勝たせるのです。砦攻めで消耗させながら、味方を引かせ、戦線を引き伸ばして、少数精鋭の本隊で、今川様をお討ちになるのが得策かと」

 使者はふん、と鼻を鳴らしたが、少し、感心したようにも見えた。使者が光秀の言葉を胸に走り去るのを確認してから、松平元康宛に、今川からの離反を促す書状を書き、左馬助を呼んだ。

 「馬よりも、むしろそなたが走った方が早いやもしれぬので、な」 

 ニヤリと嗤って、光秀は書状を左馬助に託した。

 「やれやれ、我が殿は本当に、人使いが荒うござるな」

 言い終わらぬうちに、水煙を残して、左馬助は消え去っていた。

 数日の後に、わずか数千の織田軍が、桶狭間にて、数万にも及ぶ今川の大軍を打ち破ったとの報が越前にも伝わってきた。

 「さすが、でございますな、殿」

 左馬助の言葉に、光秀は、

 「何、実際に兵を動かし、戦に勝ったのは信長様。あれはただ者ではない。うつけもうつけ、大うつけの切れ者だ」

 そう言って、晴れ渡る青空を見上げた。

 (それに、あの松平元康という若侍……あの短い文面から、よくも儂の策を完全に見切って、絶妙の間で軍を止めたな。連戦で兵が疲れているとか言い訳をしたらしいが……あやつも、敵には回したくない男だ)

 隣に来て、光秀と同じように空を仰いだ左馬助がふいに言った。

 「そう言えば、他の鬼狩りは、今頃、どこでどうしておられるのでしょうな」

 光秀も、時々、そのことを考える。考えて、我が身を嘆いている。もう長いこと、鬼を斬っていない。鬼狩りが好きなわけではないが、立てた志をまたどこかにしまい込んでしまったようなもどかしさが常につきまとっている。

 「まあ、昼間から鬼狩りでもあるまい。今はゆっくり休んでおられるか、剣の腕を磨いておられるか、そんなところであろうな」

 しかしその頃、最終選別で知り合った煉獄とう若武者は、昼間から鬼狩りにいそしんでいたのである。

 

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