「それは天狗じゃないのか」
もう何度目になるか分からない問いを、煉獄は発した。
「鬼ダ!鬼ダト言ッタラ鬼ダ!」
鴉も、もう何度も同じ答えを返している。
京は鞍馬山の深い山林である。鬼は日光を浴びると灼け死んでしまう。とはいえ、昼間も生きている。日の当たらない場所にいるわけだ。それは屋内であったり、洞窟の中だったりする。今、彼が探索している山林は昼間でも暗いとはいえ、場所によっては、陽が射さぬでもない。それに、鞍馬山といえば天狗と相場が決まっており、幼い牛若丸が、鞍馬山で天狗に剣術などの指南を受けたとも言われている。
鴉が都の北で鬼が人を喰っているというので、この地を訪ねたわけだが、鞍馬山に潜んでいるという件に関しては、煉獄は懐疑的であった。しかし――眼の端に、何か動くものがチラッと見えた。煉獄は刀の柄に手をかけるが早いか、そこに駆けた。下草が鬱陶しいが、彼の眼光は鋭い。スッと刀を抜くと同時に、かなり太い樹が一本、倒れる。
その陰に隠れていた奴が、ギャッと叫んで飛びすさった。その姿はまぎれもなく鬼である。
「ソラ見タコトカ!」
鴉が得意げに叫ぶ間にも、煉獄は二の太刀、三の太刀を続けざまに放っていった。
しかし、鬼は巧みな体術でそれを躱している。密集して樹が生えている森林の中で、動きは制限されている。ましてや煉獄の呼吸は炎の呼吸、下手をすれば、山火事にもなりかねない。よって、呼吸の技は使えない。正寿郎の剣を、鬼は身を捻りながら、ひらり、ひらりと躱して逃げる。
(なんと身の軽い鬼か!しかし!)
煉獄はさらに太刀を振るうが、いずれも鬼には当たらない。空しく空を切り、森林の枝を払い、幹を断つばかりである。
鬼が、ケケケ、と正寿郎を小馬鹿にするように笑った。
しかし、次に彼が高く跳び上がり、枝を払ったとき、鋭い陽光が鬼を射抜いた!
小柄な鬼は一瞬にして、灰に変わった。
正寿郎は、その場にじっと立っていた。鴉が肩にとまっても、動こうとしなかった。そして、誰に問うでもなく、独り言ちた。
「この鬼は逃げ回るばかりで、ちっとも襲ってこなかった。何故だ……?」
煉獄が倒した鬼は、陽を浴びて灰になるまでの、ほんの一瞬にも満たぬ時間で、人間だった頃からの自分の生を回想した。いわゆる走馬灯を見る、という現象である。
物心ついたときには、彼は旅芸人の一座にいて、大人たちと一緒に諸国を巡っていた。小さくても容赦なく働かされた。一座が芸を披露している間、抜け目なく周りを見回り、金を払わずに見ている者がいれば、座長にそっとそれを知らせる。また、一座の者が芸を披露しても盛り上がらないときには、すごーい!と大声を上げて拍手をした。いわゆるサクラである。舞台の組立、解体の手伝い、やることはたくさんあった。その合間を見て、一座の花形である、権六という男から、軽業を教わった。座長によれば、体が軽くて柔らかい子どものうちから仕込まないと、いい芸はできないらしい。権六から何度もそう言われて、その度にぶたれた。権六からしてみれば、座長の言葉が、気晴らしに子どもを殴りつける免罪符になっていたのだが、彼はそんなことは分からず、教えられたことをうまくできない自分を責めた。一座の中にも外にも、おとっつぁんとかおっかさんと呼べる人はいなかった。一度、座長をおとっつぁんと呼んで、死ぬほどこっぴどく殴られ、罵られた。一座の中で、子どもは彼一人で、他は皆、大人だった。その大人たちからは、いつも「お前」と呼ばれていて、名前を呼ばれたことは一度もなかった。名前はないのかもしれなかった。それでも、この一座が彼の家族だった。
一座がその日の公演を終えて、町の安宿で雑魚寝をしていたある夜、彼は尿意をもよおして目が醒め、屋外の便所で用を足した。
小便臭い便所から出てくると、不思議な燐光をまとって、男が一人、糸のように細い月を見上げていた。男は公家の着るような装束を身につけていたが、彼は公家というものを見たことがなかったので、高そうで、変わった着物を着ているな、と思っただけだった。
男が白い顔を彼の方に向けて、静かな声で言った。
「あの月は、まるで空の傷痕のようだな」
彼が黙っていると、
「私は、日の光は受けられぬが、月の光の下でならば、生きてもいける。お前はそうではない。だが、陽の下で生きていると言えるのか」
彼は意味が分からなかった。毎日、暑いほどの陽光の下で生きていて、真っ黒に日焼けしている。陽の下で生きていると言えるのかとは、どういうことなのだろう。この男の人は、なぜ夜中に、こんなところに一人でいたのだろう?疑問はいろいろ湧いてきたが、口にできなかった。この人は色白の綺麗な顔をしていて、まるで女の人のようだと思った。
男がしゃがみ込んで、彼の顔に自分の顔を近づけた。
「買われた子よ。私は、お前の両親が、お前をわずかなあぶく銭で奴らに売ったところから知っていた」
「生まれたときのお前は、今よりずっと小さかった。それは当然なのだが、他の子どもより小さかったのだ」
「お前の両親は農民だった。お前の上に、兄弟は三人いた。お前は小さかったから、大きくなっても、仕事の役にはあまり立ちそうにないと思った両親は、口減らしのために、お前を旅芸人の一座に売ったのだ。軽業師になるには小柄な方がいい。だから、一座の軽業師が歳をとってきていた旅芸人はお前を買った」
そして、ニィッと笑った。
「お前は生きているのではなく、飼われているのだよ。私は、君を助けてあげられる。幼い君に、力を上げられる。その力で、生きていけるかどうかは君の問題だけどね」
彼は、男が自分の額を指で突き、突いた指が皮膚を破って入ってくるのを感じた。意識が遠くなった。
次に意識が戻ったとき、安宿の大部屋で、何人もの大人が倒れていた。皆、血まみれだった。彼は、ふいに、それは自分がやったのだ、と気がついた。肉を食い、血を啜った。不思議と罪悪感はなかった。なんとなく、こんなものか、と思った。ただ、なんとなく理解したのは、自分があの男が言っていたのと同じように、陽の光を浴びると死ぬこと、あの男に逆らえば、あるいはあの男の話を誰かにするだけでも死ぬことの二つだった。なんだ、お前は生きているのではなく、飼われているのだとか言ってたが、飼い主が変わっただけじゃないか、まだ、自分を金で買ってくれただけ、一座の方がましだったじゃないのか、と思ったが、それはすぐに、強烈な飢餓感に取って代わられた。人を喰いたい。彼はその場を走り去った。
そんなことは全部、今しがた、陽光に灼かれるその瞬間まで忘れていた。
あの日から、死して灰になるまでの約一年間、二度とあの不思議な男に出会うことはなかった。