義栄は将軍になったが上洛はかなわず、義昭がなんとか上洛を果たし、将軍となった。とはいえ、義栄方はまだ上洛を諦めておらず、いつかは義昭を追い落として将軍にならんものと暗躍しており、まだまだ予断は許されない状況であった。光秀は幕臣となって義昭に仕え、公家衆やますます勢力を増しつつあった織田との橋渡し役も行い、越前時代とは一転、忙しい生活を送っていた。
特に、体質の古い公家衆と、新興の織田との間には軋轢が絶えず、光秀はその間に立って苦労を重ねていた。
しかし、義昭の仮御所である本圀寺が三好三人衆らによって襲撃された。光秀らは、地下に将軍を隠し、戦に応じた。なんとか敵を撃退したが、この件があって、光秀と信長らは、しっかりした将軍の御座所たり得る城が必要だと考え、二条城の建築に着手した。新しい城は約七十日という短期間で完成し、義昭は大いに喜び、信長を絶賛することになる。この頃はまだ、義昭と信長の間の溝は、さほど深くなかったのである。
しかし、二条城の建築を急ぐために、近隣の寺社などから襖などの内装品を集めさせていたことが、結果として仇になっていった。幕府政所の摂津晴門らが、寺社から築城のために供出した品々を返すよう、将軍に陳情させたのである。元々、僧侶であった義昭は、寺社からの陳情を無下にもできず、信長に内緒で少しずつ返納金を渡すことにした。それを着服したのが、摂津の一派であった。
一方、光秀はそんなこととは露知らず、日々の仕事に忙殺されていたのだが、幕府の内情を思わぬ者から知らされることになる。それは鴉であった。
「オイ十兵衛。他ノ者ニ聞カレヌ場所ヲ用意セヨ。今スグニ」
その様子がなんとなく尋常ではない。光秀は少し考えて、近くの竹林の中に隠れるようにして、鴉に小声で尋ねた。一体、何の用なのか、と。鴉も声をひそめている。
「ウム。オ主、妻子ヲコノ京ニ呼ビ寄セ、コノ京デトモニ暮ラシタイ、ト公方様ニ申シ上ゲタナ」
それは確かにそのとおりであるが、どうして、鴉がそのことを知っているのか。不審に思いながら、光秀はおずおずと頷いた。
「ソノ件ダ。近々、公方様ヨリ、ソノタメノ土地ヲ賜ルコトニナル。シカシ、受ケ取ルデナイゾ。ソノ土地ハ、東寺八幡宮ノ領地ヲ幕府ガ横領シタモノナレバ」
「横領?そんなはずはないだろう!」
「コラ、大キナ声ヲ出スナ。他人ニ勘ヅカレルデハナイカ」
絶句する光秀に、鴉が言葉を継いだ。
「オ主ラガ関ワルヨリズット前カラダ。摂津ナド、幕府政所ノ役人ドモハ、幕府ノ権威ヲ利用シテ、私腹ヲ肥ヤシテオル。帝(みかど)デサエモ、ナイガシロニシテオル。前ノ将軍モ薄々勘ヅイテイタ。苦々シク思ッテイタガ、ドウニモデキナカッタ。ソレバカリデハナイ、最近、城ヲ建テルタメニ、オ主ヤ信長ガ寺社ヨリ襖ナドヲ集メテオルダロウ。摂津ハ、ソノ件ニツイテ、寺社カラ将軍ニ苦情ヲ言ワセ、ソノ返戻金ヲ着服シテオルゾ」
光秀は驚きと怒りで声も出ない。
「肝心ナノハ、オ主ガ件ノ土地ヲドウスルカダ。将軍ガ賜ロウトイウモノヲ断ルノカ、受ケ取ッテ知ラヌ存ゼヌデ通スノカ」
「ふむ。分かり申した。しかし、なぜ、そんなことをお主が知っているのだ?」
「コラ!敬語ヲ使エ、十兵衛。儂ノ言葉ハ御館様ノ言葉ト心得ヨ。心シテ聞クガヨイ」
そういうことか、と光秀は得心がいった。産屋敷家も公家の一族であれば、そうした幕府の裏事情に通じていても不思議ではない。しかし、上洛してから、公家とも知己を得ることが多くなったが、産屋敷という名は誰からも聞いたことがない。御館様とは、いったい何者なのだろうか……?
「ふぅむ。分かり申した。うまく対処いたしまする」
「本当ニ分カッテオルノカ?オ主ハ、儂ニ対シテ敬意ガ足リヌノデハナイカ。イツモ、木ノ実ナド持ッテクル。儂ハ我慢シテ食ベテイルガ、儂ノ好物ハ、蚯蚓ジャ。今度、生キタノヲ捕マエテマイレ。オイ、聞イテイルノカ、十兵衛」
その後も、鴉は延々と愚痴をこぼしていたが、光秀は聞き流した。とりあえず、家の問題をなんとかしなくてはならない。