光秀が竹藪から出て、しばらく歩くと、ふいに声をかけられた。見れば、木下藤吉郎という男である。農民の出だというが、武士となって身を立てたいと信長に申し出てきた男である。最近、信長からは、猿、猿と呼ばれて、なかなか重用されているらしい。
「明智様!殿がお呼びでございます」
芝居がかった恭しさで頭を下げる。光秀自身は、この男があまり好きではなかった。不自然に謙(へりくだ)って、そのくせ、どこか油断ならぬ空気を纏っている。寒い冬の日に、信長の草履を懐に入れ、温めておいたと聞いた。信長は、なかなか気のつくやつだと褒めていたが、光秀には、かえって胡散臭く感じられたものだ。
とりあえず藤吉郎についていくと、信長は建築中の二条城にいて、人夫に指示を出していた。藤吉郎が声をかけるとこちらを振り向き、光秀を呼んだ。藤吉郎には、もうよいと言って下がらせた。そして声をひそめて、
「なあ、十兵衛。実は昨日、何人かの公家衆がこの城の噂を聞いたと言って、見に来たのだ。その際、妙に塀のことを褒めそやすのだ。大変立派だ、とか言って」
はあ、と光秀は気の抜けた返事をした。わざわざ人を呼びつけて、いったい何の話が始まるのだろう。
「しかし、ごく普通の塀ではないか。それで、儂は聞いたのじゃ。なんで、そんなにこの塀が立派だと言うのか、と」
「そうしたら、その者たちが言ったのだ。御所には、塀がない、と。そんなはずはないのだ。我が父上はまだ存命であったとき、御所の塀を修理するために、四千貫もの大金を送ったのだ。それで、修理できていないはずはないではないか」
光秀は嫌な胸騒ぎがした。なんとなく、見当がつく。
「それで儂は行ったのだ、わざわざ御所まで、塀を見に」
「そうしたら、確かに、御所の塀は崩れたままになっておった。近所の悪ガキどもが出たり入ったりしていたので叱っておいた」
信長は憤懣やるかたないといった表情をしている。
「十兵衛、どう思う?そなたは、公家衆にも、儂よりは顔が利くであろう。何か、知っておらぬか?」
単なる噂でございますゆえ、確証はありませんが、と光秀は切り出し、さっき鴉から聞いたばかりの、摂津晴門の話をした。
「ふーむ。ならば、摂津ら、幕府政所の者どもが、不正を働き、私腹を肥やしているということか」
「単なる噂話ゆえ、確証はござりませぬ」
「しかし、そなたは、何の根拠もなく、人を悪く言う人間ではない。確たる証拠はなくとも、それなりに思うところがあるのだろう。儂は直接的に公方様にお仕えしているわけではない。幕府内の人事に口を挟むことはできぬ。しかし、そなたはそれができる立場だ。儂が上洛をお助けした以上、我らに向かってくる非難は、やがて、公方様にも向かうことにもなりかねぬ。十兵衛、しっかり頼むぞ」
ははっ、と光秀は頭を下げた。その数日後、二条城が完成した。
さらにその数日後、光秀は将軍に呼ばれ、京に領地を用意したので下賜することを告げられた。光秀は小首を傾げて、
「ありがたき幸せに存じまする。して、その土地はどちらの土地でございましょうか」
義昭は重々しく頷いた。
「摂津殿、これへ」
ははぁっ、と一声、摂津晴門が図面らしきものを将軍に渡した。将軍はさらにそれを光秀に渡し、この土地ぞ、そなたには特に世話になったから、摂津に働いてもらって、よい土地を探してもらったのだ、と嬉しそうに言った。光秀は、それはありがたき幸せ、と言いながら、その図面を見た。ほう、これは本当に素晴らしいところですな、と言ってからわざとらしく眉をひそめた。
「しかし、この土地は東寺八幡宮の領地ではございますまいか?摂津殿は、この土地をどのようにして、手に入れられたのでござりましょうか?」