頭を下げたまま、お互いの顔を見て、光秀と秀吉は頷きあった。彼らもまた、脱兎の如く飛び出していった。
結果、織田の軍勢はなんとか逃げ延びた。光秀と秀吉も、いくらか兵を失いはしたが、なんとか殿としての役目を果たし、互いに労をねぎらった。光秀は、内心驚いていた。これまで、秀吉のことを、出世欲にまみれたお調子者だとしか見ていなかったが、その評価は変えなくてはならない……。芯から心は許せないが、それ以上の人間であることは間違いない。
後に、光秀は信長に呼び出された。
「こたびは予想外に苦しい戦をさせてしまった……相済まぬ」
信長は悄然としていた。光秀は黙って頭を下げた。信長の口から詫びの言葉が出るとは驚きだと思っていた。
「あれから、儂は帝にお目通りを願い、こたびの顛末を申し上げた。浅井の悪行を予測できず、今回は逃れざるを得なかったが、生きているかぎり、明日がある。次回は必ず、吉報をお届けする所存でございます、とな」
「で、帝は何と仰せられましたか?」
「ふむ。とにかく、生きて、ここにおることが何よりじゃと。聞けば、相当に危ないところであったそうな。よくぞ、生きて帰ってきたことよ、と」
そう言って、信長は天を仰いだ。涙を堪えているのだな、と光秀は思った。思って、声をかけることも憚られていると、ふいに信長が言った。
「ところで、あの猿めの戦いぶりはどうであったか?」
「猿め?」
ポカンとする光秀に、
「秀吉じゃ!分からんか?あやつ、猿に似ておるであろう。あやつもそなたとともに殿に残ったが、その戦いぶりはどうだったかと訊いておるのじゃ」
この分では、儂もおらぬところでは何と言われているか分かったものではないな、と思いつつ、光秀は答えた。
「勇猛な戦いぶりでございました。手勢は多くありませんでしたが、彼らに的確に指示し、効果的に敵を防いでおりました」
信長は、得たりと頷いた。
「あやつには、そういうところがある。長子のいいことばかり言って、本当にできるのかとやらせてみたら、意外とやってしまうのだ。自分では農民の子だと言っていたが、本当かどうかは分からぬ。あの戦いぶりは天賦の才によるとしか思えぬ」
「正直、儂は、そなたのことは心配していなかったのだ、十兵衛。そなたは戦慣れしているし、いざとなれば、鬼をも倒す剣技もある。ただな、そなたには感謝している。あの時、儂に逃げよと言ったのは、そなただけだった。そなたよりもずっと前から織田家に仕えていた者もようけ居ったが、誰も儂に逃げよとは言わなんだ。儂が怒ると分かっていたからだ。本当は、あの場の誰もが、早く逃げ出したかったのだ。しかし、誰も逃げろと言わなかった……儂の嫌がることは言わぬのだ。それが処世術じゃ。しかし、そなたは、堂々と、儂の嫌がることを言ってくれた。何の忖度もなく、儂を諭してくれた。それが有難いのじゃ。礼を言う」
光秀は深く頭を下げるばかりである。自分の心を理解してくれたことが嬉しかった。
「それと、秀吉じゃ。儂が逃げるものかと大人げなく駄々をこねていた間に、廊下を走る跫音が聞こえてきていた」
信長様も気づいていたのか、と光秀は少々驚いた。
「誰かと思っておったら、飛び込んできたのが、あやつじゃ。儂が逃げると言わないうちから、自分にも殿を務めさせてほしいと来た。もし、あやつが、逃げるか逃げないかと儂に尋ねておったら、儂はどう答えていたか分からぬ。しかし、あやつの勢いに圧されたこともあって、逃げると決めた。あやつには、そういうところがあるのだ。計算とは違うと思う。だが……、そうだな、そういうところがあるとしか言いようがない。あやつが走ってくる間、そなたと儂の会話はよく聞こえていなかったはず。だが、やつは儂を退かせることを考え、儂が退くものと決めてかかっていた。殿を務めさせてくれ、と言うたのは、功名心からではないと思う」
信長は深く息をついた。
「儂が心から信頼をおけるのは、十兵衛、そなたと秀吉だけじゃ」
そう言って、寂しそうに笑った。
「儂は、そのことが、こたびの浅井の裏切りで、よう分かった。古くからの家臣はもとより、家族、親戚といえども信用できない。むしろ、儂の存在が直接、自分の利害に関わっておるだけに、タチが悪い。悲しいことじゃ」
ここで、信長は普段と同じ鋭い目つきに戻り、光秀に言った。
「勅命を受けたとはいえ、やはり、武士の頭領たる公方様が京でのほほんとしておられたのでは、諸国の大名に示しがつかぬ。十兵衛、次は必ずや、公方様にも参陣いただけるよう、取り図ってくれ。それに先立ち、鉄砲を買いつけてほしいのだ。秀吉と一緒に、堺に向かえ!」
そんなわけで、光秀は秀吉とともに、堺の地を訪ねていた。信長とはすでに昵懇の間柄になっている今井宗久を頼る心づもりであった。