信長に筒井順慶を紹介したところ、信長は大いに喜んだが、その順慶を早々に帰らせ、光秀と二人きりになってから、こう話しかけてきた。
「そなた、正直なところ、此度の焼き討ちについては、やりたくなかったであろう」
答えに窮する光秀に対し、隠さなくとも酔い、と言い、こう続けた。
「儂も仏を信じておる。仏道に背くことはしとうないし、仏を軽んじるつもりもない。しかし、あの戦いはしなくてはならなんだ。本当に仏を軽んじておったのは、仏の道をただひたすらに歩くべき僧侶じゃ。奴らは、俗世の争いに首を突っ込み、金儲けのために兵を挙げた。あの僧兵どもは、たまたま、僧侶が仏道を守るために武器を取ったのではない。あの戦いぶり、まさしく、以前から戦のために鍛えられておった。僧侶自らが武器を取って、己の利害のために戦うことが仏道に背くのでないというなら、仏道とは何ぞや、慈悲とは何ぞや、ということになる。だから、情け容赦なく叩き潰すより他なかったのだ」
とはいえ、口調には、いささかの悔恨が滲んでいるようにも聞こえた。鴉からの情報を信長は知らない。だから、光秀が信長以上に覚悟を決めていたことを知らない。だから、こんな風に、言い訳がましくも聞こえるようなことを言うのだろう、と光秀は思う。その一方で、少しホッとしていた。信長が基本的に自分と同じ考えであったことに、そして、神仏を敬う心から、多少にせよ、心に痛みを感じていたことに。信長は、そういう人間であったのだ、と。光秀は、実は私にも、殿のお耳に入れたいことがあります、と、坂本の町で倒した鬼と、その鬼を利用していた女の話をした。話を聞き終わった信長は、深い溜息をついた。
「げに恐ろしきは、鬼よりも人間の欲望なのかもしれぬな」
そう言って、天井を見上げ、何か考えを巡らせている風であったが、ふいに叫んだ。
「十兵衛!城を建てよ!その坂本をそなたに任せる。宇佐山城は、もうよい。近江坂本に城を建てて、そこを治めよ。そなたが、腐敗のない政(まつりごと)をしてみせるのだ。金次第でどうにもなるのではなく、正当、公平な世をつくって、民草に、本来の武家のありようを見せるのだ」
ははっ、と頭を下げるよりなかった。ありがたいことだが、少々、自分を買いかぶりすぎではないか、とも思われた。そして、日を置かず、坂本城の建築が始まった。
そんなある日、光秀ら幕臣が呼び集められた。嫌な予感を感じながら、光秀も招集に応じたところ、義昭は怒りを露わにしていた。
「信長のやつめが、こんなものを送りつけてきた!見てみよ!」
と書状を床に叩きつけた。それは、信長が送りつけてきた「十七カ条の異見書」であった。
「あの者は、儂を蔑ろにしておる!小馬鹿にしておる!こんなものが呑めるか!」
異見書については、実は光秀は事前に内容を知っていた。信長に見せられ、これを公方様に渡したらどう思われるだろうか、と尋ねられたのだ。その時は、大層お怒りになりましょう、幕府との間に、決定的な溝ができるやもしれませぬ、と率直に答えた。だから、まさか、本当に渡していたとは思っていなかった。
怒りの収まらぬ義昭は、いきなり光秀を指さした。
「知っておったのか、そなたは、これを!」
馬鹿正直に知っていましたと答えるわけにもいかない。光秀は、いえ……と言ったきり、だんまりを決め込んだ。
「知らぬのか!信長とも通じているそなたなら知っているかと思っていたが。では、あやつが近衛前久とも通じておることを知っておるか」
それも知っていた。近衛前久は先の関白であったが、先代将軍であった足利義輝の跡目をめぐる争いで義栄方についたため、逼塞を命じられたのだ。その後、関白には二条晴良がついたのだが、前久は再び勢力を盛り返さんと暗躍している。実は、光秀も会ったことがあるのだが、真に国全体のことを考えているのは、二条よりむしろ、この前久であると感じており、好感を持っている。また、前久は上杉謙信ともよく通じており、朝倉、浅井に与する武田信玄と戦うにしても、役に立つ人物でもある。
ところが、義昭はこの近衛前久を嫌っている。当然といえば当然なのだが、義栄方についたのは、当時、三好三人衆らに頭が上がらなかったためで、致し方ないことでもあったのだ。前久自身が、内心は義昭を支持していたと何度も言っていた。何とも答えにくく、光秀が黙っていると、
「それも知らぬと申すか。まあ、知らぬと言うなら仕方ないが、もう我慢ならぬ!儂は甲斐の武田信玄とともに兵を挙げる!信長を討つ!そなたらもともに参れ!」
光秀は額に汗した。とうとう、恐れていたことが起こってしまった。少なくとも今は、信長に死なれては困る。鬼の存在を認め、ともに鬼と戦ってくれるとまでいかずとも、鬼狩りの活動に目をつぶってくれる信長は絶対に必要な人材だ。
「それだけは、平にご容赦願います!」
光秀は汗だらけの額を床に擦りつけて、今しばらく辛抱するよう、将軍に頼み込んだ。
しかし、義昭はゆっくり、ふるふると首を振った。そして、呟くように、もう決めたのじゃ、と言った。