惡鬼滅殺の文字が入った日輪刀を受け取ったその日に、光秀は再び、軍を率いて丹波に向かうこととなった。このとき、光秀の配下には左馬助、盟友である細川藤孝とその長男である忠興とであったが、思うところがあって、秀吉の異父弟である羽柴秀長を加えてもらった。今度も苦戦はしたが、前回のように、こちらの動きが敵に漏れているのではないかと思えるようなことはなかった。
実は、光秀は、秀吉が内通者ではないかと疑っていた。確信があるわけではないが、彼は光秀を常に意識し、隙あらば、追い落とそうとしているように感じるのだ。それで、秀吉の身内とともに行動すれば、足を引っ張られることはないだろうと考えたのだが、今のところ、その考えは当たっているように思える。信長に注意を促したいところだが、確実な証拠があるわけではない。下手をすれば、こちらが悪者にされてしまう。せめてもう少し、確実な情報が必要だ。光秀は、まだ抵抗を続けている波多野秀治らに対し、命までは取らぬと保証して、投降を促した。一度目の丹波攻めでも戦った相手である。脅したりすかしたり、うまくすれば、彼らと通じていた者が織田方にいたのかどうか、いたとすれば誰だったのか、分かるかもしれぬ。そんな期待も持ちながら、安土城へと彼らを送り出した。その夜のことである。
寝所に左馬助の鴉がやってきた。鴉はこっそりと入り込み、左馬助の顔をひっかいた。
左馬助が目を開けると、鴉が小声で言った。
「声ヲ出スナ。オ主ダケ来イ。日輪刀ヲ忘レルナ」
声の調子が尋常ではない。そっと起き出した左馬助は、日輪刀をつかみ、外に出た。もう一羽、光秀の鎹鴉もそこにいた。
「鬼ヲ討テ。鬼ノ名ハ明智牧。明智十兵衛光秀ノ母デアル」
左馬助の鴉はそれだけ言った。スマンナ、と言って、光秀の鴉が頭を下げた。二羽とも声が震えている。鴉どもは、光秀の心を慮っている。そう感じたとき、思えばこの者たちも我らの戦友であった、と左馬助は感じた。とはいえ――
「拙者には斬れぬよ」
左馬助の顔から血の気が引いた。叔母には世話になった。その首を斬るなど、できそうにない。両の腕がガタガタと震えている。
「そうだろう。儂が斬る」
背後に光秀がいた。
「しかし……」
「誰かがやらねばならぬ。ならば、他の者には斬らせん。左馬助、お主にとっても、叔母の頸を斬るのは辛かろう。どちらがしても辛いことだ。ならば、儂がやる」
そう言われて、光秀の顔を見れば、涙の溜まった眼に決意の光が輝いている。
「母上に人は喰わせぬ。お主に泥は被らせぬ。儂が斬る」
光秀の声は決然としている。左馬助が、済みませぬと消え入りそうな声を出し、深々と頭を下げたときには、光秀はすでに見えなくなっていた。