夜の闇を切り裂いて、光秀は駈けた。
――悪鬼滅殺。その言葉が胸に去来する。よもや、この文字を入れた刀で最初に斬るのが、我が母の頸だとは思っていなかった。その母がいるのは懐かしい明智荘である。越前に逃れてから後、信長が美濃を平定したのをきっかけに、たっての希望でかつての明智荘に帰って暮らすことになった。この土地への思いは、相当に強いものがあったのだろう。そのときの嬉しそうな顔が目に浮かぶ。辛いとき、楽しいとき、ともに暮らした母の姿が次々と思い浮かぶ。そのたび、鼻の奥がツンとする。母の寝所が近づいてきたとき、下女の悲鳴が聞こえた。やりきれない思いがするが、母も苦しいはずだ。ならば、助けねばならぬ。
そのとき、壁を突き破って、鬼が飛び出してきた。そいつは光秀に向かって、がああぁぁっ!と吠えた。その顔には、人間だった頃の面影が見てとれる。
「母上、おいたわしや……」
光秀の眼から涙が溢れ出た。母が腕を振り上げ、殴りかかってきたが、難なくそれを躱した。しょせん、鬼になったばかりだ。力の使い方もよく分かっていないような動きである。
「今、拙者が楽にしてあげ申す」
叫びながら跳び上がって刀を振りかざせば、少しだけ母の表情が変わったように見えた。両腕を開き、首を差し出すような姿勢をとったと見えた。ハッとした。
(――母上!人の心を取り戻されたか⁉)
しかし、直後にはまた、がああっ!と吠えた。
(一瞬、人の心を取り戻されたように見えたが、やはり、一度鬼になった者は元には戻らぬか……しかしせめて苦しみ少なく……痛みのないように……)
「母上!これが水の呼吸の新しい型でござる!」
スパン!と軽く頸は斬れた。地面に転がった頸と、一瞬目が合った。
「この型を、水の呼吸伍の型、干天の慈雨と名づけ申した」
――ありがとう……よくやりました。立派になりましたね、十兵衛――
声が聞こえた気がした。光秀は母に言葉をかけようとしたが、かける言葉が見つかる前に、母は塵となって風に消えた。人の声がする。光秀は誰にも見つからぬうちに、とその場を去った。
寝所に戻れば、左馬助と鴉が外に立って待ってくれていた。鴉の表情は分かりにくいが、心配してくれているのはなんとなく分かる。
そのとき、彼は気づいた。自分の還るところはここなのだ。妻も母もいなくなった。好むと好まざると、自分はここに、この戦場に還ってこなければならない。
話を聞き、左馬助は光秀以上に泣いた。鴉は何も言わないが、うつむいたまま黙っている。やがて、夜が明け始めた。長い間、話しすぎた、と言って、光秀は左馬助を促し、寝所に入った。戦の後始末はまだある。それを済ませたら、仔細を信長に報告しなければならない。
光秀は安土城の天守を見上げた。大きな城である。このように巨大で壮麗な城を造ったのは、信長が自らの威光を世に示すためでもある。初めて出会ってから今まで、彼らは休みなく進み、ここまで大きな存在となった。その点、感慨深いものがある。
しかし、その事によって生じた軋轢も多い。旧来の権力者からすれば、彼ら新興勢力の存在は面白くない。このところ、敵が増えてきたと感じられる。