信長はじめ、参戦していた武将たちが次々と戻ってくる安土城で、光秀も彼らを迎えていた。信長は其の姿を見るなり、上機嫌で光秀の肩を抱きかかえてきた。そのまま耳元で、後で話がある、とだけ小声で囁いて、また行ってしまった。いったい何事か――不審に思いながら、光秀は一通り落ち着いたところで、信長の居室を訪ねた。
おう、来たか、と信長は言い、小姓たちを下がらせた。自ら、彼らが遠くまで離れたか確認してから、こう切り出した。
「駿河の徳川殿とは以前から同盟を組んでいるが、今回の働きは特に目覚ましいものがあった。そこでじゃ、家康殿を招いて、祝宴を開こうと思うておる。その饗応役をそなたに任せたいのじゃ」
「分かりました」
光秀はうなずいたが、その目は信長の顔を凝視している。それだけのことで、わざわざ一人だけ呼びつけ、おつきの小姓までも人払いするとは思えない。
「ふむ、よろしく頼む。それと、実はこちらが人払いをして話す理由でもあるのだが、もう一つ、頼みがある」
「いかがなことでございましょう」
「実は、秀吉が増援を送ってほしいと言ってきておる」
はあ……、と光秀は答えた。増援?
「儂は、一日も早く、備中高松城を落としてこい、と言ったのに、悠長に水攻めなどし始めおった。それならば、こちらの兵の消耗は少ない。援軍などいらぬはずじゃ。そこを突いたら、毛利から五万ほどの軍勢がこちらに向かってきております、と、こうだ。しかし、分国の不安な毛利が、それほどの軍勢を出せるとは思えぬ。どうにも解せぬ」
そう言って、信長は顔を光秀に近づけた。
「だから、コレ(と言って、信長は人さし指を二本、頭の横に立てた)の絡みではないかと思うのだ。もしそうなら、そなたを送るより仕方ない。それで、こちらから、事の詳細を確かめるべく、密使を送った。その回答次第では、そなたに行ってもらうことになる。心づもりだけ、しておいてほしい。もしそうでなければ……、あやつ、儂に対して何かを企んでおるのか。まずは、それを見極めてからじゃ。荒木も松永も、実際に裏切られるまで、まったく気づかなかったしな」
「承知致しました」
光秀は厳めしい顔をして、頭を下げた。秀吉が助けを求めている?信長は彼を信頼しているようだが、光秀は彼に全幅の信頼はおけないと思っている。優秀であることには疑いがないが、義のある人間だとも思えない。いつ、信長を裏切っても不思議はないと思っている。もちろん、信長にそんなことを言うわけにはいかないが。
秀吉は、信長の書状を何度も読み返していた。充分な戦力があるはずなのに、なぜ援軍が必要なのかと詰問する調子だ。そのことに問題はない。ただ妙なのは、敵の詳細をこと細かに尋ねていることだ。敵は毛利である。毛利の本軍と対決するために、援軍を送ってほしいと頼んだのに、敵が何者かと問うのはいささか奇妙に思えた。
「だから、信長様は、毛利以外に我らを襲うものがあるかもしれぬ、と考えておられるのは間違いない。それが、鬼ではないかと思うのだ」
黒田官兵衛は、あきれた顔をして聞いている。鬼などというものは存在しない。そんなものはおとぎ話の中にしか存在しない。官兵衛は、強固にそう信じている。
「実際に、鬼が存在するかどうか、それは別にして、信長様はその存在を信じているし、儂の手紙を読んで、鬼に襲われているのではないかと考えておられるのは間違いない」
黒田官兵衛はしばらく考えてから、ニヤリと笑った。
「ならば、はっきりとは言わず、このように伝えるのです。夜になると、何者かが陣地を襲撃する。少数だが、凄まじい力を持っている。夜明けが近づくと、逃げていく、と」
秀吉は驚いた顔をした。
「羽柴様。巷の噂を信じるならば、鬼は陽の光に弱いというのでしょう。ならば、その疑いが持てるような情報を与えるのです。さらに、噂どおりならば、明智殿が鬼狩りなのでしょう。信長様が、明智様を差し向けてこられれば、確かに鬼は存在すると考えた方がよいでしょう。少なくとも、信長様はそうお考えだと。それによって、我らがどう動くべきかも変わってきます」
秀吉は得たり、とうなずいた。