光秀血風録   作:猫祭雉虎

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漆 決戦 其の陸

 天正十年六月二日未明、本能寺の周囲を水色桔梗の旗印が取り囲んだ。突撃の指揮を執るのは、未明の闇の中で、明智光秀に見えるが、実はそうではない。影武者である。光秀の配下から、自分によく似た荒木山城主行信という者を選び出し、入念な打ち合わせを経て、この時この場に至っている。

 本物の光秀は左馬助だけを伴って、別行動をしている。裏の塀を軽々と跳び越え、信長のいる部屋を探す。

 未明に本能寺を襲ったのには訳がある。

 まず、影武者をそれと見破られてはならない。作戦を練るために本能寺の地図を見たときに気づいたのだが、ここに近いところにいるのは光秀だけである。柴田勝家は越中能登に、滝川一益は上野に、という具合に、有力な家臣はどこかしらに遠征している。彼らに邪魔をさせないために上洛し、本能寺で光秀を待っているのだと確信した。ならば、鬼になった信長の姿は誰にも見せぬ。すでに見たものがいるのなら、皆斬り捨てる。そこにいる者は皆殺しにしなくてはならない。信長の死骸もまた然りである。倒した後はすぐに陽光に晒し、塵となって消えてもらわねばならない。

 また、元々が剛の者である信長が鬼になったのだから、凄まじい力を持っている上、頸以外を斬ってもすぐに再生し、疲れることもない。光秀と左馬助が二人がかりでも勝てるとは限らない。その場合、陽に当てて倒すより他ない。

 いずれにせよ、信長が鬼になったことは未来永劫、誰も知らぬままとなる。自分は稀代の謀反者となる。そうすることでしか貫けぬ『忠』がある。

 左馬助と二手に分かれて信長を探す。

 光秀が襖を開けた先に――いた!

 「左馬助!」

 絶叫しながら抜刀し、斬りつける。暗がりの中で見る信長は目が血走り、一本の角が生えていた。犬歯が異常に大きくなっている。それは狂犬を思わせ、ダラダラと涎を垂れている。ぐがあああっ!と信長が絶叫した。

 「信長様、お助けに参りました。さあ、今すぐ、楽にしてさしあげます!」

 二の太刀、三の太刀、次々と光秀は清流にも似た剣を繰り出す。しかし、すんでのところで躱しながら、信長は逃げる。

 別の襖を破り飛び込んできた左馬助の刀がわずかな傷をつけた。血が飛び散るが、すぐに傷は塞がったようだ。

 信長は壁に掛けてあった槍を取り、反撃してきた。その速度たるや凄まじく、人間であったときも相当の武芸者であったが、それを遙かに凌駕する力と速度で槍を振り回し、突いてくる。しかも、疲れることはない。なんとか腕や脚を斬り飛ばしても、すぐさま再生されてしまう。光秀と左馬助は、次第に防戦に回ることが多くなってきた。

 があああああぁっ!と叫んだ信長が、認めぬ、認めぬ、殺らせはせぬ!とまた叫んだ。見れば、その腕が震え、槍がじりじりと引かれていく。

 ――抗っている!信長様は、抗っておられるのだ!我らのため、平和を願う衆生のために、必死で己と戦っておられるのだ!

 ――斬れぬ!儂には、このお方は斬れぬ!

 「火を放て!すべて焼き払え!」

 声を限りに叫んだ。涙とともに叫んだ。襖も障子も斬り開き蹴破った。

 太陽よ、早く、早く昇ってくれ!

 やっと、最初の曙光が見えた。光秀は自ら信長の槍に飛び込んだ。右肩を刺させて、そのままずいずいと信長に近づき、抱きついた。そして、光の中へ引き摺っていこうとする。そのまさに眼前で、鬼信長と人間信長とが戦っていた。光秀も、人間信長とともに抗い、じりじりと下がっていく。この二人の死に物狂いの膂力で、鬼さえも引き摺っていく。光の中へ。太陽の、浄罪の輝きの中へ。

 「急げ、十兵衛」

 小さな声が聞こえ、ハッとすると、さらに言葉が紡がれた。

 「よく来てくれた。悲しむな。褒美は儂の頸じゃ。やっと、そなたが来てくれたのだ。是非もないではないか」

 信長の目から一筋の涙が流れ落ちたが、次の瞬間には、獣のような咆吼をあげ、陰のある方に光秀を引きずり込もうとする。だが、左馬助が信長の背後につき、押し始めた。光秀も左馬助も、信長の頸を刎ねたいとは思わない。それでも、殺さねばならぬ。滅さねばならぬ。声を圧し殺し、一人は引き摺り、二人は押していく。じりじりと、少しずつだが三人は光の下へと動いていく。

 そしてついに、信長が陽光の中に引きずり出された。灰となり、風に舞ってすべてが消えるまで、一瞬の間もなかった。渾身の力を込めて信長を押していた左馬助は勢いよく光秀にぶつかってしまい、光秀はぺたりとその場に座り込んだ。左馬助も疲労困憊といった様子で立ち尽くしている。

 「鬼舞辻無惨とやら、お前の負けだ……。信長様と儂らの勝ちだ」

 光秀はぼそりと呟いて、涙を流した。同じように涙を流しながら、左馬助が人を呼んでいる。十兵衛様の手当をせよと叫んでいる。

 人生五十年、化天の内をくらぶれば……。

 光秀は手当てされながら泣いていた。ただ今は泣いていたかった。正直に言えば、手当も面倒くさかった。急所をはずして飛び込んだのだし、呼吸の応用で、すでに傷は塞がりつつある。手当など、どうでもよい。

 もう何十年になるだろう。信長とともに歩んだ日々、夢みた未来、何もかも自らの手で灼き尽くした。ただ虚しさだけが残った。

 しかし、それに合わせて、時の流れまでも止まってくれるわけではない。

 この後、信長が旗印に書いた天下布武、それをなさねばならぬ。そして、鬼との決戦に臨まねばならぬ。

 光秀は疲れ果てた体と心で、軍勢を引き揚げた。その後、いったん坂本城に戻り、近江を平定して、安土城に入った。

 

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