光秀は放心したように、その後ろ姿をじっと見ていた。ふいに、鴉が話し始めるまで。
「サッキノ奴ハ何者ダ。ヤタラ偉ソウナ態度ダッタナ」
「偉そうも何も、本当に偉いんだよ。武士の頂点におられる方だ。将軍様だ」
鴉は不服そうに、カァ、と一鳴きしてから続けた。
「将軍様トハ何者ダ。所詮、人間ハ人間デハナイカ」
そう言って、ふんぞり返ってみせる。とにかく態度がでかい。温厚な光秀もちょっと腹が立った。
「イイカ、十兵衛。オ前ラ鬼狩リハ、鬼ガ人間ヲ喰ウカラトイッテ、鬼ヲ殺ス。ダガ、人間モ魚ヤラ鶏ヤラヲ殺シテ喰ッテイルデハナイカ」
「殺してばかりではない。米や野菜を育てているではないか」
「米モ野菜モ喰ウタメニ育テテイルノダロウ。人間ハ他ノ動物ヤ植物ヲイロイロ殺シテ喰イ、鬼ハ人間ヲ喰ウ。鴉モ同ジダ。何カヲ殺シテ食ワネバ生キラレヌ。何ガ違ウ?少ナクトモ我ラ鴉ニハ、ドウデモイイコトダ」
そして、声をひそめた。
「ダガ、御館様ニ頼マレテ断レナカッタ。ダカラ、オ前ヲ助ケテイル。ソレダケダ。ソレダケダガ、決シテ、オ前ヲ裏切ラナイ。憶エテオケ。大切ナノハ、ソレダケダ」
鴉の言葉を聞きながら、病気で寝込んでいるという御館様とはどんな人なんだろう?と光秀は思った。鴉がそこまで言うのは、鴉と御館様との間に、何か因縁ががあるのだろうか?…と、そこまで考えて、ふと気づいた。
将軍様は、公家衆と争う気はないと仰せであった…自分が公家に見えるとも思えないのに、と不思議に思っていたが、公家とは御館様のことではないか。
将軍様は、御館様に会ったことがあるのだろうか?鬼や、鬼狩りのことをどれだけ知っておられる?お前は水か?と問われた。ということは、他の呼吸の剣士も知っている?いや、まさかとは思うが、将軍様ご自身が鬼狩りなのか…。疑問は次々と湧いてくる。
そのまま、どれほどの間、そこに立ち尽くしていたであろうか、ふいに、まだこんなところにいたのか、とあきれたように声をかけられた。義輝一行であった。光秀は慌てて、道端で畏まった。将軍はくすくす笑っている。
やがて、
「儂の用は済んだ。これから戻るところじゃ。よければ、そなたもついてまいれ」
光秀は冷や汗が止まらない。
「いや、しかし、その…」
「忙しいとは言わせぬぞ。こんなところにぼんやり突っ立っている暇があって、余の誘いを断るとは申すまいな。鴉殿も、ともに参るがよい」
鴉は、不満げに、カァ、と一声鳴いた。将軍に偉そうな言葉遣いをされるのが不満なのだろう。だが光秀としては、是非もない。しかたなく、俯き加減で列の最後尾についた。
御所の長い塀は、一度、洪水で流れたものを修復したのだと聞いている。その際に、尾張の織田家は四千貫も出したのに、美濃の土岐様は一文も出せなかった、と光安から不服混じりに何度も聞かされていた。しかしその塀は、今も壊れたままのようであった。争いで再び壊れたのか。そうとしか、光秀には思えなかった。このあたりでも争いが絶えぬようである。そして、将軍家といえども、すぐには塀さえ直せない……。
光秀は客間に通され、しばらく待つように言われた。じっと座って待っていると、相済まぬ、待たせたな、と言いながら将軍が入ってきた。そして、一緒に部屋に入ろうとした男を、外しておれ、と追い返した。
「さて、明智十兵衛。そう、固(かと)うなるな。儂は所詮、雛壇の内裏に過ぎぬのだ……。お主が緊張する値打ちもない」
吐き捨てるように言って、少し寂しそうに笑んだ。
「本能寺で聞いた。お主は、すぐれた鉄砲鍛冶を探しているそうだな。美濃では、その鉄砲を組み分けして、どうするつもりなのか……お主に命じたのは、守護の土岐か?」
光秀はギクリとした。暑いわけでもないのに、汗がだらだら流れてくる。将軍は薄笑いを浮かべている。
「いや、むしろ、守護代の斎藤利政か」
「いずこも同じだな。この京でも、儂は何の力もない。実験を握っているのは管領家であり、三好の一党である。美濃の守護が土岐氏であるのに、守護代の斎藤氏が実権を握っているのと、よく似ておる」
将軍は悲しげな笑みを浮かべた。光秀は何も言えず、ただ頭を下げるばかりである。
「全国の武士が一つになって、世を平穏に治めねばならぬ、それをさせるのが征夷大将軍というものであるはずなのに、儂は何もできん。幕府の中では、腹黒い連中がやりたいようにやっている。それを止めることもかなわず、ただ見ているばかり。何の能もない将軍だ」
「しかし、いつの日か、世の中数多の武家を一つにまとめ、平穏な世をもたらしたいと思っておる。……ふっ、一人前なのは、志だけじゃ。儂よりも、諸国の大名の方がよっぽど多くの兵を集めることができる。誰かに支えられていなければ、負け戦ばかりじゃ」
将軍はため息をついた。覚えず知らず、愚痴を漏らしてしまう。
目の前の若武者はガチガチになって、縮こまっている。彼からすれば、将軍というのはまさに雲の上の存在なのだろう。本来ならば、将軍というのは、そういう存在であるべきなのだ。
しかし、現実は、そうはなっていない。武士全体を代表し、すべての武士を従わせなくてはならないのだが、細川氏や三好氏との権力争いに明け暮れ、すっかり疲弊してしまっていた。三好長慶と和解し、京に戻ってきたものの、今はその長慶の傀儡のようになってしまっている。そこに内心、忸怩たるものがあるのだが、目の前の若武者はそのことを知らないようだ。
その純粋な目を見返すうちに、己の現状があらためて惨めに感じられた。
この者の期待に応えたい。そういう人間になりたい。
そう思い立ち、ふと涙がこぼれそうになった。あわてて横を向いて、ごまかそうとする。
「…要りますまい。」
明智という若者が何か言っているが、義輝には、声が小さすぎて、よく聞こえない。
「どうした。大きい声で申してみよ」
義輝は怒鳴った。何かが、心の内から込み上げてきている。光秀は心底ビビったが、腹を括った。
「ははっ、では、畏れながら申し上げまする。将軍様には、兵や軍など要りますまいと申し上げたのでござります。なんとなれば、将軍様は武家の頭領であらせられます。すべての武家は、将軍様の家来であります。いたがって、兵力に頼らずとも、ただ、戦を止めよ、とお申し付けになればよいのです。争いおうて、世が乱れておれば、争っている大名に和睦をするよう働きかければ、よろしいかと。さすれば、世も平らかになりましょう。従わぬ者がおるやも知れませぬが、そのような者には、それに応じた処罰を与えなさるがよろしいかと。ただ、お命じになるだけでよろしいのでございます」
義輝は思わず吹き出した。事態はことほど左様に簡単なものではない。それでも、この澄んだ目をした青年のまっすぐな言葉には、何か胸に響くものがあった。
「おかしゅうございますか?」
「いやいや、ちっとも、おかしゅうない。明智殿、愚痴を聞かせて済まなんだ。だが、そなたに話してよかった。何か、目の前を覆っていた厚い雲が晴れていった心持ちじゃ」
光秀は、ははっ、とあらためて頭を下げた。
「時に、そなたの刀、水の色をしておったな。色変わりの刀であろう。鬼狩りが持つと聞いておる」