ある日、官は、午前中に家の片付けをすまし、余った時間でただぼんやりと過ごしていた。
のどかな空は、官の部屋に柔らかな光を注いでいて、心地よい眠気を誘ってくる。
官は眠気に抗いながら、せっかくのいい天気なのだから太陽の光を浴びようと思い至って外へ出た。
階段を降り、マンションの外に出ると、一羽の蝶が気まぐれに官の方向へと飛んでくるのが見えた。
こんなところに蝶が来るなんて珍しいなと官は思った。
花盛りの季節といえども、この辺りには庭はなく花壇も少ないのである。
蝶は官の周りをくるくると回ると、やがて官の元を離れ、小さな道沿いの花壇に泊まった。
その蝶の様子を見て、官は自分の周りをいつもくるくると回って、『ねえねえ』と話しかけてくる半を思い出し、蝶が半の分身のように見えてきた。
官はかがんで、蝶が花壇の花にとまっているのをしげしげと見た。
官は蝶の目と思わしき部分をじいっと見つめ、
『お前は半に似ているな』
と、つぶやき、ふと自分は何をしているのだろうと首を左右に振った。
蝶はやがて花から飛び立ち、高く舞い上がっていった。
群青の空に映える立派な羽は、いつまでも官の目を離さず、官は蝶が黒い点になるまで、眩しい空を見つめていた。
半が家に来るまで、まだ時間がある。
官はマンションの自室に戻り、ソファへと深くもたれかかった。
ふとスマホを取り出し、半の写真を探した。
半が写っているどの写真も、半は笑顔で、時に幸せそうな微笑みを浮かべ、時におどけた顔をしていた。
そのうちの1つに、ある城へ観光に行った時に撮った写真があった。
半は片手でピースをしながら楽しそうに笑っている。
この写真を見ていると、官は、半と初めて会った時を思い出す。
『あの、もしかしてお会いしたことがあるでしょうか』
半の姿を初めて見た時、官はまるでずっとずっと前に、それこそ生まれる前に、この人に会ったことがある。
そう思って、勇気を出して声をかけたのだ。
官はその写真から目を離すのが惜しくて、いつまでも写真を見続けていると、意識が遠くなってきて、普段働きすぎているのかなと思いながら、睡魔にまかせて目を閉じた。
官は朗らかでかわいらしい鼻歌で目を覚ました。
薄目をあけると、目の前にはよく知った顔が見える。
そして、後頭部に当たる柔らかな感触に気づいた。
官はあまりの心地よさに眠気がぶり返してきて、あと少しと思い、もう一度寝ようとした。
すると唇に温かい息がかかり、しばらくして柔らかな感触が当たった。
官は夢ではないかしらと思ったが、それが確かに夢ではないとわかると 、一体私の愛しい人は、今どんな顔をしているのだろうという興味が働いて、顔はなお眠ったふりをしたまま半を観察しようと薄目を開けた。
『ね、起きてるんでしょ』
半の声に驚き、官は頭を上げた。
『今日は午後から遊びに行く約束だったのに、インターホンを押しても出てこないもんだから、玄関が空いてたから勝手に入っちゃったよ』
半はそう言うと、官の頭を自分の膝から下ろした。
官は名残惜しい気持ちになりながらも、先ほどのお前の口づけをからかってやろうと口を開きかけて、その時に半が自分の顔を見て笑いをこらえているのに気がついた。
『半。私の顔に何かついているのか』
『さあね』
半はそう言いながらスマホを取り出し、
『はい、チーズ』
と、言いながら官の顔を写真で撮った。
官は撮った写真を確認した。
そこには、マーカーで猫のひげが書かれている官の顔が写っていた。
そして、半はダメ押しで、なんとも嬉しそうにはにかんで、
『油性だよ』
と、言うと、官が何かを言う前に立ち上がってベランダへ出て行った。
官は、これでは今日は外に出られないなと思いながら、溜息をついて、半の後を追ってベランダへ出た。
風が柔らかく吹いていた。
雲の動きは中々に早く、駆け足で動いているようだった。
官は半の横の柵にもたれかかり、じいっと半の顔を見つめた。
『ちょっと、その状態で見つめるのはやめてよ。笑っちゃうじゃん』
官がなお見つめると、
『もしかして怒ってる? 大丈夫。油性は嘘だよ。ねえねえ、じっと見つめてないで、なんか言ってよ。』
官はまだ黙ったまま、そっぽを向いた。
そうすると、はるかかなたに蝶がくるくると回っているのが見えた。
その近くには、子供たちが賑やかな声で笑っている。
澄みきった青空は真っ白な雲を鮮やかに、美しく、おおらかに目立たせていた。
もう一度、半を見た。
半は不思議そうな顔で官の顔を見ている。
外光が、二人を照らしている。
官は、この日常がいつまでも続けばいのにと、そう思った。
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