いまいち、片目というのはどうにも慣れない。いざ、自分の寝床に戻ろうかと思ったのだが、どうも遠近感が無い。そのためか。
「セッ」
「ガアァ!」
道中、出会う野生にいちいち手こずる。抜刀が、するりと避けられてしまう。なんとか返し刀の大袈裟で首をはね飛ばせてはいるものの、とはいえ、油断をすれば喉笛を掻っ切られるだろう。
「ギャン!」
「ふは」
だが、それはそれで面白い。これもまた研鑽の一時。それにひとまずは寝床に行けば木の実がある。あれを食えば、傷は治る。
「だが」
すでに日は帳に隠れた。幸い、天の光はまだ足元を照らしてくれている。しかし。
「夜の野生は」
少々厄介な奴らが多い。昼間の野生が力で来るのであれば、夜の魔物は搦手で来る。数で来るか、計略で来るか。正面にイたと思えば、後ろから牙を向けられる。この闇は、そういうものだ。そして、手負いの輩には、その弱点を見事に突いてくるのも。
「はっ」
「グァア!!」
右から牙。首をひねってなんとかそれを避けながら、猪の牙をヌルリと切り落とす。はずだったが。
「毀れか!」
牙に入れた刃が、途中で止まる。刃毀れが、ここで響くか!未熟ここに極まれり、か!猪の目が光る。ぐあん、とその牙を地面に叩きつけんばかりに、大きく頭を振り上げた。
「ゼェイ!」
地面に叩きつけられる前に、無理やり腰を回転させ、背中で踏ん張り刀を滑らせる。ガリガリと牙から音が響き、叩きつけられる前になんとか奴の牙を折る。が、勢いはすでについている。
「かっ…」
無様に地面に叩きつけられる。刹那、意識が飛ぶ。しかし、そうおちおちと寝ても居られない。奴は牙を折られただけだ。私と違い、手負いではない。それが証拠に。
「グゥアアアアアアア!」
気づけば、私の眼前に奴の牙だ。だが、これならば!
「ゼエエエエイ!」
刀を天から地へ、一気に振り落とす。これだけの近距離なら、これだけの必死の距離ならば、外す方が難しいというもの。
ズダァン!と大きな音を立てて、猪は地に沈み、池ができた。
「は、は、は」
息が上がっている。頬に手を当ててみれば、冷たい汗が滲み出ていた。
「…未熟、未熟」
言い聞かせながら、刀を鞘に―。
■
報告書を受け取ったマイネンは、判りやすく頭を抱えて、椅子の背もたれに体重をかけた。
「…古都、か。生き字引、その根拠は」
「はい。目撃証言が古都の手前の集落、ワカミヤで途絶えていますな。位置的に見ても、間違いないかと存じ上げる」
生き字引は地図をなぞりながら、マイネンへと語りかけていた。確かに、地図を見てみればワカミヤの先には川と、草原と、そして古都しか無い。
「王城からは…早馬で走れば1日か」
「はい。そして、古都の先にあるものと言えば、1つしかありませんな」
生き字引の言葉を聞いて、ため息を吐いた。そうして、窓の外を見る。あの山の向こう。そして、古都を越えた先にあるものといえば、死地の森しかない。
「死地の森、か。となると、古都で何者かと合流したか、はたまた、森に入って逃げおおせようとしている、と考えるのが自然か」
「はい。古都は無人でありますし謀りごとには最適でありましょう。加えて死地の森を抜けていけば、距離だけ見れば、3日でこの国を出れますからな」
そう言って、生き字引も窓の外をどこか、懐かしい感情を浮かべたまま眺める。
「そうか、古都はそなたにとっては故郷であったか」
「はい。故に、あのあたりの土地についてはお任せくだされ」
マイネンは頷いた。200年もの間、王家に仕える彼の言葉ならば間違いはないだろう。それに、耳飾りの証明も済んでいる。今回、この生き字引は白だ。だが、それはそれとして、確認はしておかなければならない。
「生き字引、敵対の意志はないのだな?」
「はい。そんなものありませんとも。この身、この刀は王家のために」
「その言葉、偽りは無いようだな。さて、生き字引、もう一つお前の意見を聞きたい」
「はい。なんなりとお申し付けあれ」
うやうやしく腰を折り、頭を下げた生き字引。その姿に、マイネンは頷きで答えた。そして、軽く咳払いをした後に、改めてマイネンは生き字引へと問う。
「距離だけで言えば、森が逃げる場所として最適なのは理解した。が、実際、死地の森は抜けられるものなのか?並の人間では踏み入っただけで死ぬとされているが。別の道から逃げた可能性は」
致死の森。15年前の大戦でも人間が立ち入らなかった、死が立ち込める森。
忘れもしない。あの森から日没の時に響き渡る、衝動とも、叫び声とも言えない『恐怖の咆哮』と呼ばれる音を。
「はい。そうですなぁ。未だに、ワカミヤ以外の網にかからないとなれば、別の道は今のところ考え辛いでしょうな。もし違う道を選んでいれば、そろそろ、少なくとも煙ぐらいは立たなければ可笑しい」
生き字引は窓から目を話し、マイネンへと向き直る。そして、鋭い目つきでこう告げた。
「そして、抜けられるかどうかについては、まず普通の人間ならば不可能でしょう」
しかし、と生き字引は続ける。
「あの副長を倒したほどの腕の持ち主であれば、死地の森の魔獣達と出会ったとして、例えば、昼の王、夜の王と出会わぬ限りは抜けられるかと」
「昼の王、夜の王…文献の魔獣か」
マイネンは唸る。昼の王、夜の王とは王国で言い伝えられる魔獣の王者のことだ。子どものお伽噺にもよく登場し、躾として話されることが多い。例えば、悪いことをすると夜に鴉に連れ去られる、とか。一人で街の外に出るとクマに喰われるとか。
「はい。クマの魔獣カスト。そして鴉の魔獣ミムズビですな。他にも双子狼、などもおりますが、まぁ、それらは今は関係ないので割愛させていただくとして、その実力は我ら亜人でも束になって勝てるかどうか」
「それほどか。そうなるとやはり、死地の森には立ち入らない可能性が高いと思うのだが?」
疑問を浮かべるのも当然と、生き字引はひとつ頷く。だが、直後にゆっくりと首を横にふった。
「はい。しかし、お忘れか?奴らは誰にも気づかれずに副長を殺しただけではなく、銀糸、腕輪、足輪、そして耳飾りを盗んだ手練ですぞ?ならば、常人が無理だ、と思うことをするでしょうな。それに、文献にも登場するような伝説の魔獣です。長き間古都に住んでいた我らでもなかなかお目にかかることはなかった。出会うことのほうが難しいのです」
マイネンと生き字引の視線が交錯する。マイネンは少し考え込んだ後に、目をつむり、1つ、ため息を吐く。そして目を見開くと、生き字引へと指示を下した。
「ならば生き字引。あの森を探索する事を前提として、死なぬ人員を集めよ。追手を出す」
「はい。承知した。では、一刻の後に戻ってまいりましょう」
「うむ。頼んだ」
生き字引、そう呼ばれた亜人は一礼をして、部屋を後にする。その頭には、美しい、小さな葉が装飾として付いている銀糸が、ゆらりと揺れていた。
「…さて、王へはどう報告するか…。いや、包み隠さず、王には話さねばなるまいか」
苦虫を噛み潰しながら、マイネンも部屋を後にして、王城の長い廊下を踏みしめる。どうやら、今回の事件は考えうる限り最悪な方向に進んでいるらしい。
「我ら人のツケとはいえ、ままならんよなぁ」
視界の端で揺れる、古代の魔導具である青い耳飾りを憎らしいと思いながら、マイネンは王の私室の扉を叩いた。
■
熱い。なんだ。何が起きた。頬に、冷たい風を感じる。だが、それと同時に、腹の周りからは湯のような、炎のような熱さを。
「ガア」
「なん…だ?」
声が頭上から響く。しかし、体は思うように動かない。なんとか、左の眼を開ける。
「高、い」
死地の森が遥か下に遠い。なんだ。重くなった首をもたげれば、頭上にあるのは漆黒の体。大きな翼に、ひときわ赤い瞳。
ああ、大鴉か。夜の空を闊歩し、獲物を食らう野生。普段ならば出会うことはない相手。例え万全な状態でも出会いたくない相手筆頭なのだが。全く今日は、大狼といい、実に運が悪い。ひとまずは刀を抜こうとするも、どうも、腕が動かない。
「な、ん」
体を見れば、大きなあしゆびが、私の体を腕ごと掴んでいた。そして納得もする。これだけ熱く感じているのは。
「雑、な」
あしゆびの先、その爪が大きく、私の体の腹に刺さっている。体が動かせん。これは、拙い。喰われるか、それとも。だが判る、間違いなくコレをヤられたのはあの納刀の瞬間のことだろう。猪を斬り伏せ、気が緩んだ瞬間に、空からあしゆびの爪を立てられたか。
「油、断」
やはり、未熟。しかし、この命を取られる状況にあっても、頭は動く。ひとまずは、このまま、不用意には動かぬほうが良し、だろう。巣か、それとも餌場にたどり着き、私をこのあしゆびから話した瞬間に、鴉の喉笛を掻っ切るしか、あるまい。
「ぐ、ごぼっ…」
とはいえ、先程からあしゆびがどんどんと、体に食い込んで来ている。熱さが、増しに、増している。喉の奥から押し出されるように、口からも血が漏れ始めた。まぁ、亜人は頑丈だ。この程度ではまだ死なぬが、死なぬが。
「余、裕は」
無い。
「ガア」
赤い瞳と視線が交差した。言葉が通じるのならば、できれば、地面に降ろして欲しいものだ。だが、言葉は通じぬようで。
「ぎ」
ゴキリと鳴った。アバラか、それとも腕か。どこかが砕けたか。奴の趾は今、私の命を潰さんとする万力そのもの。まだ下半身はうごくあたり、背骨は無事か。
「無、様」
「ガアア」
煩い。そう言おうとしたのだが、ついに肺まで潰され始めたのか、息がつげない。くそ。刃で死ぬのならば理解出来るが、このような無様、あってたまるか。
と、その時だ。
「ヴゥウウウウウウウウウウアアアアアアアア!」
「ガォオオオオオオオオオオン!」
どこからか、聞き馴染みのある叫び声がした、と同時に。
「ガアアアアアアア!」
大鴉が叫び、そして私を抱えたまま一気に急降下をし始めた。たまったもんじゃない。こちとら体が限界に近い。もっと優しく扱えと、嫌味でも言いたくなる。と、その先に居たのは。
「ヴ!」
「ガウ!」
「キャン!」
見慣れた奴ら。だが、彼らは地上から叫ぶのみ。ああ、見納めかもしれんと諦めかけていた時。クマが大狼を掴み上げる。
そして、そのままこちらに白の大狼を投げ飛ばしてきていた。
「キャン!」
「ガアアア!」
そして、その勢いのまま大狼と大鴉はもつれあう。牙を首に立てようとする大狼、そして反撃にと嘴を目に突き刺そうとする大鴉。そして、私は。
「がはっ」
離された。だが、まだここは空中。このままいけば、地面に叩きつけられるだろうか。万全であれば、このまま地面に叩きつけられても問題はない。受け身は取れる。
…だが、今の私は息をするで精一杯。運が悪ければ、潰れて終わりか。
「冗、談!」
息を無理やり吸い込み、顔をあげた。だが、ゴキリ、ゴギリと骨が折れる音が体の中から響く。だが幸い、腕は生きている。ならば、まだ足掻く!だが、どうする。どうする。眼下には森、迫る大木…大木か!ならばあ!
「セェイ!」
大木の幹に刀を、刃を上にして突き立てる。ゴリゴリゴリと、刀と木の摩擦で速度を殺しながら、そして、右腕の肉が引き千切れていく音を聞きながら祈る。
「死んで、たまるか」
まだ、極めて居ない。まだ、戦を極めていない。まだ、亜人を極めていない。まだ、まだ刀を極めていない。まだ、まだ死ねぬ!死んでたまるか!
「死んで、たまるかぁ!」
地面が迫る。勢いを、殺しきれない。ああ、糞。
「死んで…」
死ぬ。これは、助からん。そう思った刹那だ。
「ヴ!」
もっふと、何か黒いものに抱きとめられた。顔をあげてみれば、そこにいたのはクマ。クマ…。クマ!?
「ヴ」
大丈夫か。と言いたげに此方を見る瞳。ああ、何だ、判らん。何も、判らん。なぜ、クマがいる。クマに助けられている。ああ、でも、だが。
「助かっ、た」
なんとか。ふっと、気が抜ける。ああ、いかん、意識が―。