鉄の輪に、日の光が反射する。
洩矢神から貰ったこの輪は数年の歳月が経てど未だ錆びる事もなく、俺のハンドルにぶら下がっている。
数年、と言えば短いように感じるが、永琳と別れてから数えれば十数年。流石に、焦りも感じてくる。
「準備、出来たわよ」
「お疲れ様です。では」
しかし、そんな焦燥感など今はもう、全く感じていない。
「行きましょうか。永琳の所へ」
遂に、幻想郷の場所が分かったのだから。
幻想郷についての情報が入ったのは数日前。情報収集を依頼していた憑喪神達からのタレコミである。
なんでも、その場所は妖怪が跋扈し、人間ならば迷いこめば食われてしまうのだとか。最近は力ある人間が妖怪退治の為に住み着き始め、毎夜妖怪と人間が戦い続けている、らしい。
これだけなら別段おかしな事は無い。何処にでもある、唯の妖怪の巣窟である。しかし。
「本当に、そこが幻想郷なんでしょうね」
「ええ。間違いない気がします」
「いつもながら曖昧ね」
そこには、妖怪の賢者なる者がいるらしい。遥か先まで見通すほどの知能を持ち、妖怪と人間の共生を目指しているのだという。
諏訪子から聞いた情報と合致したことから、その場所こそが俺たちが探す幻想郷であると確信したのだ。
「大丈夫ですよ。多分」
「もう」
ヘッドライトをぺしんと叩かれ、荷物を括り付け終えた輝夜が俺に跨がる。
こんな会話も、もう出来なくなる。それを思うと、喜ばしい最期の旅路も淋しく感じる。
「さ、行くわよ。道案内、よろしくね」
エンジンがかかり、ギアが落とされた。輝夜の手の動きに合わせて、車体が前へと進み出す。
「お任せを。必ずや、幻想郷へと送り届けまする」
「大袈裟ねぇ。もう会えないみたいに」
幻想郷へ向け、俺たちは走り出した。
日が傾き始めた頃。俺と輝夜は木と木の間に布を張り、野宿の準備をする。黄昏時には、妖怪たちが動き始める。それまでには、なるべく安全に夜を過ごせる場所を確保する必要がある。
「大分、走ったわね」
「もうすぐ、着く筈なんですけどね」
「急げば着いたんじゃないかしら」
「詳しい場所が分からないのですし、約束の地と言えど妖怪の巣窟。夜に行動するのは控えるべきです」
「あー、はいはい。分かりましたよ、っと」
輝夜が薪を集め、地べたに積み重ねる。
「火」
「お任せを……よっ」
妖気を薪に集め、小さな火を放つ。簡単な、本当に簡単な妖術。俺には、まだこの程度のことしか出来ない。火を起こすなど、初歩の初歩。鼬などは、集まっただけで火災を起こすというのに、全く持って情けない。
獣を追い払えこそすれ、強力な妖怪は追い払えない。もし出くわしたらすぐにでも逃げ出せるように、俺は寝ずの番である。
「これで、大丈夫かしら」
輝夜が一息吐き、俺に腰掛ける。いつもの事ながら、軽い。
「姫、食事は取っておいて下さいね」
「分かってる」
魚の干物を取り出し、齧り出す。たいして美味しくもない携帯食。しかし、空腹を満たすのならこれでも十分……と、いうのは輝夜の言葉。本当、月の民のイメージと異なったお姫様である。
「……今日は、えらく無口ね。折角、永琳に会えるかも知れないのに」
「何と無く、ですよ」
思えば、敬語も板に着いてきたように感じる。少なくとも、輝夜相手に敬語以外を使った記憶は無い。
「そう……ねえ、何か話して頂戴よ。退屈で仕方ないわ」
疲れた様子の輝夜が、俺のシートに寝そべる。翁の家にいた頃のように。
「では……嫦娥の話でもしましょうか。姫も、知っているやもしれませんが」
「あ、名前だけ知ってる」
沈みゆく日が、日本の原風景を紅く染める。静かな薮の中、聞こえるのは、俺の声のみ。
俺は、輝夜の寝息が聞こえ始めるまで、不死となり月へ昇ったという嫦娥の話を続けた。
「姫」
「ん……朝……?」
「非常事態です。囲まれました」
「なっ……」
焚き火の光では分からないが、薮の向こう。数体の妖怪に囲まれているのが分かる。突然現れて包囲した所を見ると、組織性の高い妖怪と見える。
「どうして気付かなかったのよ」
「突然、同時に現れたもので。見張られていたようです」
「……どうするの?」
「逃げます。姫、体を結びつけて」
輝夜が、体を俺に縛り付ける。
「出来た。ヘルメットも被ったわ」
「了解です」
輝夜の言葉を聞き終え、周りにいる何かに話し掛ける。これで、受け答えしてくれればありがたいことこの上ないのだが。
「我々は旅の者。貴方方の縄張りに入り込んだのならば、無礼を詫びたく思います。どうか、姿を見せていただきたい」
無言。返事が無いのは、許す意思がないから、と、少しばかり強引に捉えて、妖気を散らし焚き火を消す。
そして。
「姫、行きますよ」
「任せたわ」
エンジンを駆けると共に、ヘッドライトをハイビーム……上向きに点灯し、その眩しさに怯む人型の妖怪の姿を確認する。
天狗。嘴を持った、典型的な鴉天狗。天狗と言えば、射命丸文を思い出す。今なら、彼女とも張る位の速度が出せるかもしれない。
ギアを落とし、思いっきり走り出す。スタートダッシュには定評のある車種。妖怪となれど、元々備えた良し悪しまでは変わらない。
土を蹴り風を切り。俺は、全速力で走り出した。
開けた道に出て、ひたすら走る。此処は天狗の領域。何処から増援が来るか分からない。
「後ろ!」
輝夜の声と共に、俺は右に避ける。先まで俺がいた所を通り過ぎる、黒い影。
あれは……
「射命丸さん!」
「やっぱり貴方ね! お久しぶり!」
懐かしい。俺が、始めて会った妖怪、射命丸文その人である。若干スピードを落としていたとはいえ、いとも容易く俺に追いつく馬鹿げた速度。
しかし、これでなんとかなりそうだ。
「そちらはー?」
「此方は、今の私の持ち主で御座いますー!」
走りながら飛びながら。移動しながらなので、お互い声を張り上げないと届かない。
「で、何処へー!」
「幻想郷なる地までー! 通行の許可を頂きたいー!」
「無理ー!」
へ?
「今更無理よー! 私だって、捕獲しに来たんだからー! だから!」
射命丸さんが、俺に笑顔を向ける。あの笑顔には、見覚えがある。
「姫、少しばかし飛ばします」
「……はあ、好きにしなさい」
ああなったら止められない。勝てば良いのだ。勝てば。
「私を振り切りなさい! 私が追いつけないのなら、誰も追いつけないのだから!」
「後で叱られても知りませんよ! 私を逃がした事で!」
「勝ってから言いなさい! さあ」
スピードを上げる。射命丸さんはまだまだ余裕があるらしいが、それはこちらも同じこと。まずは、射命丸さんの下に並ぶ。
「手加減してあげるから、本気でかかってきなさい!」
その言葉を合図に、アクセルを強く回す。強く、強く、強く。ギアを最大まで上げ、回転数を上げ、文字通りの全力疾走。
空を行く黒い影と、一寸も離れること無く走る。抜けも抜かれもせず。未だ、加速し続ける二体の妖。
風の音が煩く、しかし、何故か心地良い。速く、速く、速く。
もうじき、森を超える。
「あははっ! 速いじゃない! 貴方!」
「射命丸さんこそ! なんで! そんなに速いんですか!」
「周りがみんな遅いからよ!」
なるほど、天狗らしい文句である。しかし、それでは周りの天狗たちも貶していることになる。そういう意味では、非常に天狗らしく無い。
「幻想郷は、この先!神社を探しなさい!」
射命丸さんの速度が落ちる。否、あれが限界なのか。
「射命丸さん!」
「先導するのも天狗の役目! また会いましょう! 次は本気で競争したいわ!」
射命丸さんを置き去りに、俺はスピードを上げ続ける。遥か後ろ、月の光の中、黒い影が空へ舞い上がったのを見届けてから、俺は速度を落とし始めた。
「……あー、死ぬかと思った」
「すみません……」
「いいわよ、仕方なかったのだし。それに、少しだけ楽しかったわ」
輝夜が結びつけていた紐を解く。
とりあえず、天狗の縄張りからは離れたらしい。
「神社、だそうですね」
「ええ……もしかして、あれかしら」
小高い山の上に、鳥居の影が見える。神社、とはあれの事か。
「いくわよ。危ない、てのは今更無しね」
「御意」
休憩もそこそこに、また走り出す。何となく、見覚えがある景色。デジャヴと言うのか。奇妙な既視感の中、俺はその小さな山を登り始める。
緩やかな山道。神社までは、そう遠くない。十分程走った所で、鳥居の前に到着した。が。
「あれ? ここって……」
「どうしたの?」
「……いえ、なんでも有りませぬ」
「へんなの」
少しだけ、笑いがこみ上げてくる。偶然か、否か。しかし、姫に言う必要は無いので、この事は俺の胸の内にしまって置く。
それよりも、今は。
「……どうやって、永琳に会えばいいのかしら」
「……大丈夫です。お迎えにきて下さったようですよ」
「え?」
神社から、月の民の気配がする。少し穢れてしまった、輝夜と似た気配が近づいて来る。
「お待ちしておりました。姫。いえーー」
赤と青が互い違いに縫い込まれた服、銀の髪。その姿は、忘れる筈も無い。
「輝夜」
八意永琳。輝夜が再開を待ち侘びた、その人。
「永琳!」
輝夜が俺から降り、永琳に飛び付く。対する永琳も、笑顔で受け止める。
「お疲れ様、輝夜。やっと、会えたわね」
「ごめんね、遅れて。待ったでしょ?」
輝夜の、満面の笑顔。遂に、俺の役目も終わり。少し寂しくもあるが、輝夜の笑顔を見るとやはりやり遂げたことへの達成感の方が大きい。
「貴方も、お疲れ様。此処まで、輝夜を送り届けてくれてありがとう」
「物は役に立ててこそ、ですから」
「あ、荷物降ろさないと」
輝夜が俺に括り付けた荷物を下ろし、自ら背中に背負う。それを見て永琳は少し驚くも、その顔もすぐに笑顔に変わった。
「さて……貴方は、どうするのかしら?」
「え?」
永琳の俺への質問に、輝夜がきょとんとする。
「一緒に、行くんじゃないの?」
輝夜が俺を見る。俺は、答えねばならない。
「また、旅に出たいと思います。気儘な、一人旅に」
「どうして?」
「……我儘、ですかね。この広い島国を、見て回りたい。走り回りたい。ただ、それだけでございます」
そう、我儘。俺の、勝手な私情。
輝夜の元を去ると言うのは、つまり、輝夜の所有物である事を辞めるという事。勝手過ぎると言えば勝手すぎる物言いである。
「……おわかれ、って、こと?」
「……そう、なりますね」
輝夜が俯く。酷く、悲しそうに。そして、寂しそうに。
「もう、会えないの?」
少し震える声。冷たい夜の空気を弱々しく伝ったその言葉は、俺の鉄の体に染み入る。自分で言い出したことながら、辛くて仕方が無い。本当、芯の弱いものだと自嘲する。
「……私は、是非ともまた、会いたいです」
「なら」
輝夜が、俺の上に腰掛け、そのままタンクを抱き締めた。彼女の体は温かく、柔らかで。冷たい鉄の体が、微かに、けれども確かに、彼女の熱に温められていく。
「いつか、また戻ってくること。会いに来ること。そして」
俺は、黙って輝夜の言葉を聞く。タンクにポタリと雫が落ち、流れ、落ちる。前にも一度、こんなことがあった気がする。
「次からは、友人として出迎えるから。敬語なんて、使わないで」
「……御意、いや」
御意は敬語に当たるのか。なんて、今更どうでもいい。唯、今使うべき返事は……
「……分かった。また、必ず寄らせてもらう」
輝夜。と。
ギクシャクとした言葉の最後に、今まで一度も呼んだことのないその名をつけ加える。
次に会うのは、何十、何百年後か。
「……ええ。またね」
顔を上げた輝夜は、笑顔だった。涙の跡は、もう拭き取ったらしい。彼女の笑顔をしっかりと記憶の奥に刻みつけ、ライトを少しだけ明るく照らす。作れない笑顔の代わりになれば、と。
「では……また」
輝夜が降り、俺は、永琳にも別れを告げて後ろを向く。
今来た道を。遥か昔に通った道を、前に見据える。
ミラーの向こう、手を降る輝夜と、小さく頭を下げる永琳に、赤い尾灯を二、三度点滅させて、俺は、力一杯走り始めた。
不死の姫との逃避行は終わるも、俺の迷走は終わらず。始まりとなったこの地から、また、再スタートを切るだけである。
暗い夜を照らしながら俺は、来たばかりの山道を駆け下り始めた。