走る。走る。
目指すは信貴山。毘沙門天の元へ。
台風が過ぎ去った後の、雲一つない青空の下。毘沙門天の遣い、ナズーリンを乗せて俺は、日本の原風景を走る。
速度は六十前後。のんびりとした旅路である。因みに、ナズーリンはヘルメットを被っていない。あの特徴的な耳が入らなかったのだ。色々な意味で危ない。
「……いいな。楽だし、速いし」
「褒めても速度くらいしか出ませんよ」
「上手くないよ」
中々に手強い鼠である。この鼠、会話をしてると結構な頻度で皮肉を混ぜてくるのだが、不思議と悪い気はしない。何か話術でも心得ているのか、単に彼女の性分か。多分、後者だと思う。
「もうすぐ着く。くれぐれも、ご主人様に失礼の無いように」
「品行方正な乗り物になりたいと思っているので大丈夫です。思ってるだけですが」
「……品行方正には程遠いね」
溜息を吐き、また前を向くナズーリン。その視線の先には、一つの山。
「あの山だ……実は、少しばかり訳ありの寺なのだがね」
「と、申しますと」
「まぁ……着けばわかる」
少しだけ難しそうな顔をして、後部座席に括り付けているヘルメットが落ちそうになっていないか確認する。ヘルメットの中には、彼女の遣う鼠達。物は使いようである。
「寺でなにかあっても、他言無用で頼むよ……毘沙門天の怒りは買いたくないだろう」
「まあ……まだ命が惜しいですしねぇ」
山が近付く。
訳あり、他言無用。かつて命蓮上人が修行していたと伝わる信貴山。今は誰が住職をしているのか分からないが、中々に面白い事になっているようである。
山の上にあるという寺に、期待と
、本の少しの不安を憶えながら俺は走り続けた。
山門の前に停まっている、ボロ布を括り付けた鉄の塊。
例にもよって俺である。
ナズーリンは先に報告を入れるとの事で、俺を置いて中に入って行ってしまった。残された俺は暇で仕方が無い。
空に浮かぶのは、遠い入道雲と白く輝くお天道様。蝉の声と、風が木の葉を揺らす音。
夏の匂い。
唯々ぼぅっと、暖かなと言うには些か高すぎる気温に項垂れている時であった。
「……何これ」
声。ミラーで確認すると、一人の若い尼僧……尼僧?
それにしては、雰囲気が……
「おまたせ……ああ、一輪。戻っていたのか」
「ただいま……ねぇ、何これ」
「さあ、私にはよく分からない。乗り物らしいが、どう動いてるのかはさっぱりでね。家のご主人に会いたがってるんで連れてきた」
「え、乗り物?乗り物なのに、会いたがってる……えぇ?」
困惑する、一輪と呼ばれた尼僧。面白いので、まだこのままにしておく。
「……深く考えない方がいいよ。言葉通りの意味だから」
「んー、なんか釈然としないけど……まあ、いいわ」
ナズーリンが、俺のハンドルに手を掛ける。そして、小声で。
「……やっぱり、君は意地が悪いね」
「なんの事でしょ」
「……はぁ……じゃあ、一輪。私はご主人の所へコレを持っていく。聖に、君が帰ったことを伝えておこうか?」
「いや、いい。もう少ししたら自分で行く」
「そうか。なら、また」
一輪尼僧と別れ、ナズーリンと俺は山門を潜る。一輪の姿が見えなくなった所から、自力で車輪を回し始めた。
「……やっぱり、意地が悪い」
「何のことでしょ」
「そういう所さ」
ナズーリンと並んで進む。周りには、数匹の鼠たち。俺の上に登ったり、駆け下りたり。くるくると俺の周りを周りながらついてくる。
「えらく気に入られたね。見た目、鼠に似ているからかな」
「……布を取ったら、綺麗な赤色です。目立たないよう隠してるだけで」
「おっと、褒め言葉のつもりだったんだがね」
少し拗ねた素振りを見せた俺に、ナズーリンが苦笑する。そういえば、彼女も鼠か。人型をとる妖怪は、元が獣であることを忘れやすくていけない。
「さて、この堂だが……階段、登れるかい?」
「登れますけど、重さで壊しそうですね」
「そうか。くれぐれも登ろうとしないように」
俺だって、武神の鎮まる堂を壊したいとは思わない。自殺同然の行いである。破滅願望なんて持ち合わせてはいない。
「私のヘルメット……鼠たちの入っていた、丸いのを持って行って下さいな」
「うん? なにか、意味があるのか」
「そちらを通じて会話できますので。あと、目の役割も」
「便利だな」
「自分じゃ動かせないんで、割りと不便ですよ」
ナズーリンがヘルメットを抱える。
『あーあー、本日は晴天なーりー、本日は晴天なーりー』
「お、喋った」
『視界良好、聴覚問題無し、嗅覚多分良し。完璧』
「そうかい。なら、行こうか」
ヘルメットに映る世界が、一段一段登るごとに高くなっていく。妖怪となってもやはり単車。階段を登ったり、建物の中に入る機会は殆ど無い。新鮮な感覚である。
まるで、人間にでもなった気分……あれ?
違う。俺は、元々人間。いつの間にか、その事を忘れてしまっていた。生まれた時からバイクであったかのように。
「ご主人」
ナズーリンの声。
毘沙門天の堂、その扉の前。今は、この事を考えるのはやめておく。忘れたところで、何かが変わるわけでもない。
少なくとも、俺の場合は。
「……入るがよい」
「失礼します」
厳かな声が聞こえ、ナズーリンが扉を開く。
遂に、毘沙門天とご対面である。緊張から、唾を飲み込み手に汗を握る……気分である。
「よく、参られた。我が、この信貴山の毘沙門天、星である」
宝塔と槍を手に、胡座をかいて此方を見下ろす一人の女性……女性?
何故女なのかは分からないが、その辺は太子に会った時に割り切った。何の問題もない。
しかし、だ。それ以上に気になる点が。
「この度は、妖怪である私に参拝の機会を与えてくださったこと、心より感謝致します」
ナズーリンが俺を床に置く。毘沙門天の位置が、いっそう高くなったように感じられた。
「……毘沙門天様」
「何だ」
言って良いのか。怖い。が、伝えないというのは、それはそれで失礼に当たるのではないか。
「あの……大変失礼かと存じ上げますが……その……」
何か、良い言い回しは無いのか。何と言ったものか。
「我が毘沙門天だからといって、恐れることはない。言いたいことがあるのならば、遠慮などせずに申すがよい」
「……では」
腹を括る。ヘルメットなんで、腹なんて無いけど。
「毘沙門天様、口に、ご飯粒が」
「……え?」
毘沙門天が槍をもったまま、手を口元へ。
「こっち?」
「いえ、反対側です」
「あ、見つけた」
手で口元を隠し、数秒。
毘沙門天の手が口から離れると、口の端についていたご飯粒は綺麗に無くなっていた。どうやら、舌で掬い取ったらしい。
「ありがとうございました、全然気が付かなかった……」
「ご主人」
「え、あ!や、今のはあれ、つい、うっかり」
先までの威厳は何処へやら。
鼠に説教を受ける毘沙門天。緊張が解れ、急に話しやすくなった。
「まあ、まあ……ナズーリン殿」
「……何だ」
ナズーリンが、大変不機嫌な様子で俺を睨みつける。無理もない。毘沙門天は、助けを求めるように俺を見つめる。無理である。
「……なんでもないっす」
また、ナズーリンが説教に戻る。俺だって、小言なんぞ言われたくはないのだ。許せ、毘沙門天。
半刻程の間、堂に鼠の声が響き続けた。
「……見苦しい所を見せた」
「大丈夫です、寝てましたから」
「途中何度か笑ってただろうに」
「気のせいです」
少し疲れた顔をして、ナズーリンが言う。星は、説教が終わりほっとした顔をしていた。
「……星様は、本物の毘沙門天では御座いませんね?」
「……彼処までの痴態を曝しておいてなんだけど、どうしてそう思う?」
「まあ……失礼ですけど、獣の匂いが。貴女以上に」
そう。あまりにも、星は獣くさい。従者たるナズーリンよりも獣らしいのだから、疑問に思うのは当然である。
ナズーリンは、罰の悪そうな顔をする。
「……ああ、察しの通り、ご主人は虎だよ……獣くさい、と言われたのは始めてだがね」
「……そんなに臭いますかねぇ」
どこか惚けたことを言う星。ナズーリンは、聞き流すことに徹している。
「星は、毘沙門天代理。聖が推薦してね。元は、虎の妖獣さ。私は、毘沙門天から遣わされて星の下に就いている」
毘沙門天って、代理出来るものなのか。
「普段は、優秀なんだけどね……まだ、この地位に就いて日が浅くて。偶に、あんな風にね」
「……申し訳無いです」
ナズーリンの言っていた訳あり、とはこう言うことだったのか。一人納得し、俯いたままの星に問い掛ける。
「所で、毘沙門天様」
「なんでしょう」
「私は、参拝に来たのですが……何分、手も足も無い身。合掌することも、頭を下げることできません。それでも、礼拝させて頂けるのでしょうか」
俯いていた星……毘沙門天が顔を上げる。
「礼拝って、私にですか?」
「他に、何方が」
「あれだけ情けない所を見ても、ですか?」
「確かに、情けなくはありましたが」
「うっ……」
「それでも、貴女は毘沙門天。世に名高い毘沙門天……もっと、自信を持って下さいな。私みたいな妖怪なんぞに目を向けて下さる毘沙門天なんて、何処を探してもいらっしゃらないですよ」
落ち込んだ顔をしていた毘沙門天だったが、俺の言葉を聞いて、少し表情が変わる。
「……いいのでしょうか。私みたいなのが、毘沙門天の代理なんて務めても」
「私は、嬉しいですよ。貴女が、毘沙門天の代理を務めて下さっていること。とてもありがたいです」
「そう……ですか」
虎柄の毘沙門天がはにかむ。武神にしては、朗らか過ぎる笑顔。しかし、こういう毘沙門天がいたっていいんじゃないだろうか。
「それで、文字通り無作法で恐縮ですが……」
もう一度、問い掛ける。
毘沙門天は、今度ははっきりとした声で。少し、微笑みながら。
「私で、よければ」
ナズーリンが、ヘルメットを俺の後部座席に戻す。地に足、もといタイヤの着いた感覚があると安心する。やっぱり、誰かに抱え上げられるのは慣れない。酔う。
「……ありがとう」
「何がです」
「ご主人のことだよ。」
俺の横、階段に座る。
「……毘沙門天の代理となってからも、悩んでいるようだった。自信がない、とね。私は、毘沙門天としてきちんと仕事が出来るようになれば、自ずと自信が付くかと思っていたけど……」
ナズーリンが苦笑する。
「どうやら、逆だったみたいだ。私が叱る度に、自信を奪っていたのかもしれないね」
暫し落ち込み、それでも、自身を奮い立たせるように力強く立ち上がる。
「失敗は繰り返さないよ。今回は、気付かせてくれて本当にありがとう」
「……そんなに礼を言われると、照れますよ。いや、もっと言ってくれても構いませんけど」
「……やっぱり、品行方正には程遠いね」
苦笑混じりにナズーリンが言う。
「聖にも会って行くといい。君なら、きっと歓迎してくれるだろう……ちょっと待っててくれ」
ナズーリンが小走りで本堂に向かう。多分、聖に俺が会いに行く旨を伝えに行ったのだろう。
その間、先の毘沙門天……星のことを思い出す。
虎柄の毘沙門天。獣からの変化。
今はまだ頼りない彼女も、いつかは一人前の毘沙門天として多くの信仰を集める日が来るのだろう。
その時、彼女は変わらずに虎柄の衣を纏っているだろうか。自信が一頭の虎であったことを、覚えているだろうか。
「……俺が言えたことじゃないわな」
毘沙門天に会う直前まで、自身が人間であったことを忘れていたおれである。だが、しかし、彼女もまた。俺が人間だったことを忘れかけていたように、虎だったことを忘れるのだろうか。
虎だったことを。妖獣だったことを忘れた時、その時彼女は、先のように妖怪の参拝を受け入れてくれるのだろうか。毘沙門天が妖怪と接しているなど、人に知られれば唯では済まない。それを願うには、彼女に掛かるリスクが大きすぎる。
……考えても仕方が無い。大体、本人の勝手である。彼女の生きたいように生きれば良いのだ。
唯、遠い未来で彼女がまだ、妖怪の参拝を受け入れてくれているのならば。
俺は、また参拝に来たいな、と。此方へ向かってくる毘沙門天の遣いを見ながら一人ごちた。