東方単車迷走   作:地衣 卑人

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二十 夢と鉄

 ぬえの家に泊まったり、走ったまま野宿したり。酔っ払い妖怪達を運んだり、鬼に酒を流し込まれたり。地霊殿に赴く事もあれば、付喪神達と地獄見物に出向く事もあり。三人揃えば村紗が運転し、ぬえが後部座席に陣取る。そうして地底を走り回りながら、数百年の時が過ぎたある日。

 俺は、地上に上がる決心をする。

 

 

 

 

 

「……地上、ですか」

「ええ。もう、地底に封印された妖怪が、自力で地上に這い上がるのは、事実上不可能なの。何か、地底と地上の繋がりが曖昧になるような事件が起きない限り、ね」

 

 一輪が、雲山の手に座って言う。

 

「そして、魔界への道も無い……姐さんは地上から魔界に送られたのだから、地上と魔界は繋がっているはずなのだけれど。そして、地上に上がることが出来るのは」

「私だけ、と」

 

 そう。俺は、地底に封印された訳では無く、唯単に運ばれて来ただけなのだ。自主的に地底に降り立った鬼や、妖怪たちと同じく、地上に上がれるのはうちの面子では俺だけ。

 一輪が言うのは、俺だけでも先に地上に登って、聖を救出しろと言うことだろう。

 

「貴方なら、裏切ることは無いだろうしね。それに」

 

 小屋の中、並んで眠る村紗とぬえを見やる。

 

「あの子達も、もう大丈夫そうだしね」

 

 二人の友人を見ると、少しだけ胸が痛む。彼女等に挨拶してから行きたいものだが、やはり、辛い物がある。

 

「言い難いなら、私から伝えようか?」

「……手紙だけ、渡して頂けますか」

「分かったわ。ごめんなさいね、貴方一人に……要る物があれば、準備しておくから」

 

 雲山が上昇する。それに乗った、一輪も。

 

「一輪殿」

「なにかしら」

「今まで、お世話になりました」

 

 深々と頭を下げる。ことは出来ないので、声だけの感謝。

 何だかんだで、いつも村紗とぬえをサポートしていたのは、一輪だった。食事を作ったり、掃除をしたり、と。二人の姉か、お母さん的な立ち位置。無論、俺も世話になっていたのは言うまでもない。

 何故か、影が薄いイメージばかり先行するが。背景が濃すぎるのだ。

 

「……どうせ、地上で会えるでしょ。何百年かかろうと、私たちは妖怪なんだから」

「それも、そうですね」

「あと、さ」

 

 一輪が、雲山に乗ったまま言う。

 

「私も、貴方の友達として扱ってもらえない?敬語なんて、使わなくていいわ」

「……敬語は、使わせて下さいな。貴方の方が、先輩なんですから。一輪さん」

「……ふふ。そういうことにしておくわ。なら、おやすみ」

「おやすみなさい。また、明日」

「ええ。また、明日」

 

 船の前に、一台、ぽつりと取り残される。

 さて。手紙なんて言ってしまったものの……

 字なんて、書いた事が無い。いや、人間の頃は学生だったのだから文字は読めるし、書ける。唯。

 

「筆、持てるのか……?俺」

 

 ひょろりと長いフェムトファイバー……いつも以上に頼りなく映るそれを見つめながら、独りごちるのであった。

 

 

 

□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

 遠ざかっていったエンジン音が、今も耳に残っている。手紙を書くと言って、彼は地霊殿に向って行った。ぬえの家では書けず、ここでは気恥ずかしいから、と。

 そして私は一人、聖輦船の中で座り込む。彼に大役を押し付けたはいいが、本当にそれでいいのか。彼の本質は道具であり、故に頼まれれば断るなんていうことはまず無い。それは、使い手と物という対等では無い関係があるから。友人ならば対等なので、話は別ではある……けれど。

 友人として扱って欲しいと最後に頼むあたり、質が悪い。友達になりたいのは、確か。しかし。

 

「ごめんね、村紗。ぬえ」

 

 彼には苦労させ、彼女等には辛い思いをさせ。私一人、何の苦しみもなく此処で手を拱いている。本当に、それでいいのか。

 

「……姐さん……」

 

 この悩みもなにもかも、姐さんに向って吐き出したい。叱られるなり、慰められるなり、何でもいい。兎角、会って、話したい。

 

「……我儘が過ぎるわね。けど」

 

 姐さんを助け出す。それだけは、最優先なのだ。私の私情を、挟まなかったとしても。

 それを言い訳にして、逃げ込むように布団に潜り込む。

 彼が、いつ出発するかは分からないが、行ってしまう前に、もう一度問おう。

 本当に、村紗とぬえを置いていけるのか、と。

 

 

 

 

□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

「先立つ不幸をお許し下さい。あなた方を置いて行くのは、とても寂しい思いで……」

「なになに?自殺でもする気なのかしら」

 

 俺の上に乗った少女が、楽しそうに笑う。緑がかった銀色の髪。緑色の目。閉じた、第三の瞳。

 古明地こいし。さとりの妹である。

 無意識を操り、それ故に誰にも察知出来ない彼女であるが、俺には彼女の存在が分かる。見える。俺にとっては、普通の人妖以上に存在感がある。彼女のあり様が、意思の無い物、道具に近いからだろうか。

 それ故か、彼女からも俺は気に入られているようで。彼女が俺を見ての第一声が「友達になって!」だったのが印象深い。

 しかし、どうも初対面の気がしないのは何故なのか。彼女と、何処かで会ったような記憶は、無い。よもや無意識の内にとは言うまい。

 

「死にませんよ。唯、地上に赴く事になりまして」

「でも、それ遺言書にしか見えないよ。下手くそだし」

「下手なのは、仕方ないのです」

 

 木炭でうっすらと書いた下書きを、フェムトファイバーで擦り落とす。下手なのは構わないが、文面が遺言書なのは拙い。

 

「地上ねー。ついでに、私も乗せて行ってよ。久しく地上を出歩いていないわ」

「駄目です。さとり殿が怒ります」

「戻ってこないなら、怒られないでしょ?」

「また、いつか会いに来ますよ」

 

 。

 

「……いつか、ねぇ」

「大分、先になりそうですが。何とか、受けた命を遂行せねば」

 

 こいしが俺の上から降り、振り向くこともなく俺から遠ざかる。

 その背中から感じるのは、殺気。

 

「……こいし殿」

「私にはね」

 

 こいしが振り向く。薄暗い部屋の中。少し潤んだ瞳が緑色に輝き、白い肌がぼんやりとした光を受け青白く浮かび上がる。人形のように整った顔立ち。いや、もしかすると彼女は、もう。

 

「友達が、貴方しかいないの。心を持っていて、それでいて、同じ無意識の存在。私は彷徨う、糸の切れた人形。貴方は旅する、乗り手のいなくなった乗り物。ね、似てるでしょ?私達」

「……私は道具。私は物。貴方は人物。貴方は妖怪。自分を、卑下なさらないで」

「卑下じゃなくて、これが私。意識の無い人の形。人形」

「定義が間違っています。貴方は、人形なんかではない」

「人の形をしてるのに無意識。定義されるには十分でなくて?」

 

 平行線の問答。相手が相手だけに、争いは避けたいのだが……

 交わらない主張に、妥協する点などありはしない。最近は、腹を括らねばならない事ばかりで疲れる。

 

「こいし殿」

「何?連れて行ってくれる気になった?それとも、ずっとここにいる?」

「どちらも御免でございまする」

 

 エンジンを駆けギアを落としアクセルを回しクラッチを繋げる。ほぼ、同時進行での行程。妖怪となったからこそ出来る、一瞬での高加速。そして、ブレーキ。強引にハンドルを切り、ドリフトの用量で車体をずらし、目の前にある机と並行に並ぶ。これで、いつでも発進出来る。

 目の前の机を避けるだけならば、エンジンを駆けずに自力でバックすれば良い話。しかし、今回はそんな悠長な事をしている場合では無い。こいしを威嚇する、という意味も籠めてエンジンを駆けたのだ、が……

 

「あら、やる気なのね。嬉しいわ」

「……退く気は無いと」

「貴方は、轢く気なんでしょう?」

 

 埒が空かない。戦闘は、避けられそうに無いようだ。

 

「全員、退……」

 

 この部屋にある物達に命令しようとして、何か、違和感を感じた。誰の意思も読めない。誰も居ない?

 

「来ないの?なら、私から行くね」

 

 俺が現状を把握し切らぬ内に、こいしの手から螺旋状の光が放たれる。眩しい。なんて言っている場合では無い。

 

「ああ、もう!怪我しても知りませんからね!」

「やってみなさいよ」

 

 急発進した俺の背後で机が弾け飛び、その破片が辺りに散らばる。こういう戦い方はあまり好きではないが、非常事態なのだから仕方が無い。

 

「飛べ、机の亡骸」

 

 光弾を受けて爆ぜた机の脚や板、さらには釘や破片までもが浮かび、こいし目掛けて射出される。辺りにある物を手当り次第に飛ばしまくるのは、遠距離の攻撃としてはかなり使い勝手が良い。が……

 やはり、俺も同族を投げつけるような真似はしたくない。今回は、特別である。

 

「貴方は、道具を使えるのね。道具の癖にっ!」

 

 顔に笑みを含ませ、切り傷を作りながらも降り注ぐ塵芥の雨を避け続けるこいし。このまま疲れ果てて終わり、と成る程妖怪同士の戦いは楽では無いのが辛い所である。

 

「もう、邪魔!」

 

 こいしが避けるのを止め、迫り来る弾幕を打ち砕き始める。華奢な体に細い腕、そんな見た目からは想像出来ない程の身体能力。妖怪というのは、本当に恐ろしい。

 俺が言えた話ではないが。

 

「ええい……点数マイナスかなぁ、これも!」

 

 弾幕を打ち払うのに気が向いているこいしに向って、全力で突っ込む。アクセルは限界まで。ギアは六。クラッチは完全に繋げたまま。文字通りの全力全開。避けれる速度では無い上に、当たれば例え妖怪でも死は免れない。

 やらなければやられる。ならば、せめて一瞬で。

 

「こいし殿、申し訳ない」

「ふふ、それで勝ったつもりなんだ」

 

 こいしの視線が、俺を捉える。その手には、一つの蕾。

 

「嫌われ者に近付くなんてね」

 

 蕾が花開き、現れたのは、巨大な薔薇。止まることはおろか、避けることも出来ないほどに大きな、一輪の薔薇に俺の体が包み込まれる。まんまと引っかかった、らしい。

 

「ぐぐ……」

 

 車輪が空中で空回る。こうなると、何も出来やしない。

 俺は早々と諦め、エンジンを切った。

 

「お終い、ね。ほら、私と一緒にこうしてましょうよ。薔薇のベッドもいいものでしょう?」

「……確かに、眠くなって来ますね」

「ね。それが、本能なの。規律だー、とか社会性がー、とかいうのは、唯の鎖。貴方が本当に望むのはその安らかな眠り。私と一緒に眠りましょう?」

 

 イドの解放、とでも言うべきか。勿論、彼女はそんな単語を知っているはずが無いのだが。

 イド。簡単に言えば本能。意識下。それを抑えるのが、スーパーエゴ。抑制を失ったイドは、機械となり食欲も色欲も失った俺の、唯一残った欲求……睡眠欲を刺激する。

 眠い。ひたすらに、眠い。が。

 

「ほら。もう頑張らなくていいの。眠りましょ、永遠に」

「……残念ですが、もう、眠り飽きましたゆえ」

「え?」

 

 分かっていた。はじめから、ずっと。

 意識を持たない癖に、俺の命令を聞く机に違和感を憶えた時から、ずっと。

 

「明晰夢、という物をご存知でしょうか」

「……知らないわ」

「夢は、夢であると自覚出来たならば自由に、その内容を操れるというのです。そしてその、自覚した夢、見る者の自由になった夢を、明晰夢と言うのです」

「……まさか、貴方」

 

 これ以上の問答は不要。

 これは夢。何時の間にか眠らされた俺の見ている、幻想。

 夢の内容は操れても、俺を眠らせているのはこいし。彼女を何とかしなければ、夢が終わることは無い。

 ならば、終わらせよう。もう、この夢は俺の意のままなのだから。

 

「少しばかり、灸を据えますよ。こいし殿」

 

 今なら、出来る。ここは、俺の世界。

 

「トランスフォーム!」

 

 

 

 

 

□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

 

 

 何処で、間違ったのか。

 途中までは良かった。彼の夢は、私の独擅場。あのまま薔薇に包まれて、深い深い眠り、無意識に意識を落として終わり……の、筈だったのに。

 今の、この状況が理解出来ない。

 

「ああ、二足歩行なんて久しぶりだ……」

 

 ガシャリ、ガシャリ、と。重く、硬い足音に思わず後ずさる。

 薔薇を振り払い、目の前に迫るのは鉄の巨人。私よりもずっと背の高い、赤い怪物。普段の彼の姿よりも、よほど妖怪らしい姿の魔物。

 自分が見せた夢で、まさか私が悪夢を見る羽目になるとは思わなかった。

 

「現実では、無理なのです。この体。この力。痛い目を見る前に、眠りを解いてはくれませんか?」

「……私を連れていってくれるならね」

「なら、致し方ありません」

 

 彼の腕が変形し、見慣れた部位がその尖端に取り付けられる。ギュルギュルと音を立てて回るそれは……

 

「こういう使い方じゃ無いんですけどね」

 

 車輪。鋸にも似た鉄の刃が取り付けられ、恐ろしい勢いで回るそれの向く先は、私。

 

「痛いですよ?体を割かれるのは。ここらで、終わりにしませんか」

 

 彼から溢れ出す妖気、殺気。私のそれを遥かに上回るそれに当てられ、身動きが取れなくなる。

 体の力が抜け、床に崩れ落ち。足が動かない。能力を使う気力も無い。

 彼の夢だからか。こんなにも、体が言う事を聞かないのは。こんなにも、彼の事を恐ろしく感じてしまうのは。

 

 崩れ落ちてもなお眠りから覚めない事を否定の意と受け取ったのか、溜息を一つ吐いて彼が言う。

 その手に、車輪を回転させたまま。

 

「……気絶でもすれば、夢も終わりますかね」

「あ、あ……や……」

 

 鉄の足が、一歩近づく。回転する車輪も、また。

 後ずさろうとすれば、そこには壁。彼が作り出したのだろうその壁に阻まれ、私は、逃げ場を無くす。

 

「やだ、やだ、やだやだやだ死にたく無い死にたく無い死にたくない!」

「大丈夫ですよ、夢なんですから」

 

 回る刃が、近付く。洋服の端が切り裂かれ、風切り音が耳をつんざく。鉄の刃はゆっくりと、しかし確実に私の体へと近付く。

 彼の眠りを解こうにも、それに集中出来ない。能力を行使するだけの力さえ残っていない。

 

「お願いだから、待って待って待って、待ってよ!止めて止めて止めて!お願いだから……」

「おやすみなさいませ、こいし殿。少しばかり、痛いですけど」

 

 近付く。近付く。近付く。もう、刃が肌に届く。逃げ場も無ければ話をする余裕も無い。

 回転する車輪の生んだ風が、肌を撫ぜる。私は唯、訪れるであろう身を割かれる痛みに、目を閉じた。

 

「……なんて、悪役ぶってみたり」

 

 目を閉じた私が聞いたのは、腹を割かれる音ではなく、気の抜けたような男の声。

 目を開けるとそこには、いつも通りの姿をした、彼。鉄の怪物は、もう何処にもいない。

 

「流石に、切りませんよ。例え夢の中でも」

 

 へたり込んだままの私に、彼が声をかける。割かれた服も元通りに戻っていて、私は唯、壁を背に座り込んでいた。

 

「怖がらせて、本当に申し訳無いです。唯、能力を使える程の体力も残ってないだろうと思いまして」

「……散々脅かしておいて」

「灸を据える、といった筈です」

 

 彼の体から二本の紐が伸び、私の体を持ち上げる。そしてそのまま、彼の背中へ。

 柔らかい。そして、暖かかった。

 

「申し訳御座いません。多少、強引に切り込むしか無いと思いましたもので」

「……怖かったんだから。例え、夢でも」

「申し訳ない」

 

 いつもの彼だ。

 それだけで、安心する。安心したせいもあってか、ひどく、眠い。

 

「ねぇ」

「何でしょう」

「いつか、地上で会おう。私も、自分で地上を目指すから」

 

 眠い。伝えたいことは伝えた。ならばもう、本能に従って眠ってもいい、はず。

 

「私が眠れば、能力は切れるわ……だから……」

「ええ。おやすみなさいませ。こいし殿」

 

 その言葉を聞くが早いか、私の意識は無に落ちた――

 

 

 

□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

 眠ったこいしを乗せたまま、フェムトファイバーで筆を握る。

 派手な変形は、もう出来ない。憧れの姿も、夢の中だけで十分。それも、友人を脅す為に使う力ならば、無い方が良いに決まっている。

 夢の中で疲れさせるには、精神に攻撃を仕掛けるしか無い。夢では体にダメージを与えられない上に、妖怪は精神に依存する生き物だから、精神的に痛め付けるのは最も効果的な方法とも言える。それは、分かっているのだけれども。

 

「甘いなぁ……物だから仕方ない、仕方ない、と」

 

 数枚の手紙を前に、独りごちる。村紗宛て、ぬえ宛て、一輪宛て、雲山宛て、さとり宛て。

 そして最後に、俺の上で眠るこいしに宛てて。

 古明地姉妹宛ての手紙を机に残し、残りの手紙を、俺の体の収納スペースに突っ込む。そして、眠ったままのこいしをソファへ。

 随分と怖がらせてしまったが、眠っているこいしの表情は穏やかで。とりあえず、安心する。

 

「……こいしを、大分怖がらせたのね」

 

 いつからそこにいたのか、さとりがドアの前に立っていた。その表情からは特に怒りも悲哀も感じず、唯、少しの安堵があるだけ。

 

「いいのよ。あんまりふらふらしてると、危ない目に遭うから。これで少しは、放浪癖も収まってくれると良いのだけど」

「無理でしょうねぇ。私程度の威しでは。夢の中でしたし」

 

 先のこいしの言葉を思い浮かべ、苦笑する。心を読むさとりは、俺の表情に出来ない感情まで読み取ってくれるから話しやすい。

 

「……惜しいわ。貴方。地上に行かせたくないくらいに」

「物としては、冥利に尽きます」

「物として、だけじゃないのだけれどね。こいしが執着する理由が分かるわ」

 

 さとりがドアを開く。そして、自身はその真横に。

 

「行きなさい。何処へでも。いつか、また会いましょう」

「ええ。いつかまた、必ず」

 

 エンジンを駆けず、自力でドアを潜り抜けてミラーで後ろを確認する。少しだけ寂しそうなさとりの顔が映るが、俺は覚では無い。彼女の心までは、知り様が無いのだ。

 

「鈍感ね。鉄だから仕方ないのかもしれないけど」

「申し訳ない。心まで鉄でありまする故」

「そうね。なら、遠慮なく行きなさい」

 

 エンジンを駆け、ギアを落す。相手は覚、言葉は不要。地霊殿の石の床を、俺は走り始めた。

 

 目指すは地上。本当、物の癖に身勝手なものだと嗤いながら。

 

 

 

 

□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

 ソファの上で眠る妹の顔を眺める。彼女の心は読めないけれど、こうして無意識の内に作り出した表情なら、たとえ覚で無くともその心境は覗き見ることくらいできる。

 安らかな、微笑。いつもの作られた笑顔では無い、彼女の本当の笑顔。彼の心を読んだ限り、相当恐ろしい目に遭った筈ではあるのだけれど。

 無意識の内に飛んだ小石に敗れ、人の意識を読んで地下深くに逃げ出した私と、夢と覚られて敗れ、それでもなお笑うこいし。心の目を開いたまま相手から逃げた私と、心の目を閉じてでも相手に歩み寄ろうとしたこいしとでは、一体、何方の心が強いのか。

 彼との接触はこいしに、他者への興味を生じさせた。彼女はきっといつか地上に赴き、人と触れ、心の目を開く。地下深くに隠された種が、やがて芽を出し雨に打たれ、日の光を浴びて遂には、その花弁を大きく開くように。

 その時彼女は、私が、覚が持ち得なかった強さを得るだろう。人と共に共存していける、心の強さを。

 

 眠り続けるこいしに毛布をかけ、部屋を出る。その手に、一封の手紙を握らせて。

 

 私も、部屋で彼からの手紙を読んでみよう。私とは会話がしやすいなんていう、酔狂な人間……数少ない友人からの手紙を。

 

 反響しながらも遠ざかり続けるエンジン音を聞きながら、私は一人、冷たい石の床へと踏み出した。

 

 

 


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