見慣れた洞窟。
淡い光に満たされた、まるで井戸の底のような空間。剥き出しの岩肌や、流れる水、そして、進む毎に増してゆく外の空気。
地底と地上を繋ぐ、洞窟。地獄と地上というならば、この洞窟こそがかの黄泉比良坂だと言えよう。抜けた先にいるのは、醜女の類などではなく、親愛なる友人達ではあるのだけれども。
そんな事を考えながら、岩を避け、坂を登り、地上へ繋がる洞窟を駆ける。
「……寒」
と、言うほどに気温は低くはない。唯、何故か。酷く、寒く感じるのだ。
俺に生物としての体があれば、きっと震えていることだろう。それ程に、体が冷え切ったかのような感覚に包まれていた。
俺は、物。体温など存在しない、冷たい無機質。そんな俺が、寒さを感じるなど。これが、寂しさと言うものなのか。
本当、笑ってしまう。
「鉄の!」
空気を揺らす……否、洞窟を揺らす程の大声と共に、ライトの照らす暗闇の中に一人の妖の姿が浮かび上がる。大岩の上に仁王立ちをして待ち構えるそれは、鬼。その岩までの距離は、あまり残されていない。
あまりスピードを出してはいなかったとは言え、急な停止は中々に堪える。前輪と後輪のブレーキをじわりと、しかし速やかに掛けてスピードを落とす。
停止する体。見慣れたその姿を見た為か、少しだけ寒さが和らぐ。
「星熊童子殿」
「だから、その名前は古いっての。勇儀と呼びな、鉄の」
星熊勇儀。怪力乱神と名高い彼女。いつも旧都で酒を煽っている彼女が、何故、こんなところにいるのか。
「ははっ、やっぱり辛気臭い面してるね。そんなに地底を離れたくないかい?」
「……顔に出ていましたか?文字通りの鉄仮面ですよ」
「なに、分かるもんさ。理屈じゃなくてね」
成る程、彼女は怪力乱神。対する俺は、自我を持つ道具。理屈などは大した問題ではないのだろう。
「で。さぞや寂しいんだろうなぁ、鉄の」
鬼は、嗤う。
「何を申しますか。私は、鉄の妖。只の道具。一時の感情に流されて任務さえ遂行出来ないような、不良品では御座いませぬ」
「して、その本心は」
「寂しさ半端無い。私、一人で地上、行きたくない」
俺の言葉を聞いた鬼が笑う。仕方が無いのだ、それが本心なのだから。鬼に嘘を吐くなど、無理な話なのだ。
「まあ、可愛らしい連れが二人に、面倒見の良い美人さんがいりゃぁねぇ。離れたくないに決まってるか」
「そりゃ、まあ……他にも、未練はありますがね」
水蜜にぬえに、一輪。彼女達と過ごした期間は、あまりにも長い。もはや、家族同然の親友達。
それに加え、さとりやこいし、雲山に、憑喪神達、そして、地底の鬼達。目の前にいる勇儀も含め、皆、大切な仲間である。
陰鬱な癖に華やかで、碌でもない連中ばかりの癖に皆仲が良くて。本当、挙げれば切りが無い未練の数々が、俺の後ろ髪を強く握りしめている。
最後に一輪と話した時は、心配させたくなかったので大見得をきって出発したが……
道具の癖に未練たらしいなんて、聞いて呆れる。
「私は別に引き止めに来たんじゃないよ。喝を入れに来たのさ。人の心を持った鉄の塊に」
「鉄の心を持って生まれて来たつもりですが……」
「そんな弱気な姿勢でかい。笑わせるなコオロギもどき」
蔑み、口元を斜め上に歪めながら俺を見下ろす勇儀。返す言葉も無い。コオロギにもちょっと似てる気がするし。
「ま……地底は、私たちにとっちゃ楽園だからね。お前がそう思うのも仕方ないのかも知れないし、そう思えるくらいの場所を作れたのは嬉しいよ。でも」
勇儀が杯を仰ぎ、酒気の混じった吐息と共に続く言葉を吐き出した。
「あんたはそれに依存し過ぎた。こうして此処まで走ってきたあたり、頭では分かってるみたいだけどね」
頭では、分かってる。だが、心は、拒み続けている。これは、やはり自分の甘さ故なのか。
「もっと、気楽にいきなよ。道具なんていう括りに縛られずにさ。お前はお前、自分のやりたいようにやれば良いんだよ。戻りたくなったら、何時でも戻ってきて良いんだしさ。ちょっとそこまで、ってな感じで」
そこまで言って、二通の封筒を取り出す勇儀。
「手紙の返事だよ。これで、気が楽になるはずだってさ」
フェムトファイバーで手紙を受け取り、その差出人を見る。一通は、一輪から。もう一通は、村紗とぬえから。
「……読みますね」
「音読はしなくていいよ」
「しませんよ」
まず、一輪からの手紙の封を切る。
俺の字とは、比べ物にならないくらいに綺麗な字が等間隔にそこには並び、あまりに彼女らしくて笑みが零れた。
『急ぎの返事で、雑な字面となってしまってごめんなさい』
本当に、彼女らしい。何処まで真面目なのだろうか。
『まずは、ごめんなさい。貴方一人に大役を押し付けた挙句、心配までさせてしまって。本当は辛かったのだろうと思うと、本当にこれで良かったのかと、少し、後悔しています。頼んだ手前、こんなことを言うのも気が引けますが、本当に、ごめんなさい。そして、引き受けてくれてありがとう。辛い時はいつでも、戻ってきてくれて構いません。戻りたくなくなったのなら、そのまま地上で暮らしても構いません。貴方の自由に。私はあくまで友達で、貴方の行動を束縛することは出来ないし、そんなことは望んでもいないから。だから、自由に生きて下さい。一輪』
一輪からの手紙を読み終え、一つ、溜息を吐く。此処まで見抜かれているとは、思ってもみなかった。それに、ここまで一輪が思い悩んでいるとも。
そして、もう一通。村紗とぬえから着た手紙。
『見送らせてくれたっていいじゃないの。何、そんなに私たちに顔合わせるのが嫌なの?ぶっ飛ばすわよ』
「うぐぅっ」
「どうした」
「いや、直球すぎる内容だったもので……」
あまり丁寧とは言えない筆跡。多分、ぬえの字なのだろう。
『ぬえはこう言ってるけど、あんまり心配しないでいいからね。聖を助けるのが最優先だし、聖が復活するのなら私も嬉しいから』
此方は村紗か。丁寧に書かれた字は、ぬえとは真逆の印象を受ける。本当、彼女たちらしい文面。
『あ、でもね。最後に顔合わせてくれなかったのは怒ってるからね。次に会ったら錨で殴るからね』
『からね』
村紗の文に続き、ぬえの言葉が短く入る。どうやら、ぬえの方はこの辺りで手紙を書くのに飽きたらしい。
紙の隅に、蛇やら虎やらの落書きが描かれているのも、そのせいか。
『あ、あと。地上でも、新しい持ち主を見つけて構わないから。私たちは友達だし、その辺は貴方の自由だからね。でも、持ち主が見つかっても友達ではいてね。絶対にだよ』
絶対。それは、当然。
彼女らと縁を切ることなど、あり得ない。
また、筆跡が代わる。
『私達も、地上に出れないか方法を探して見るからさ。だから』
『また、いつか会いましょう』
『絶対に、ね』
「村紗水蜜、封獣ぬえ、より」
手紙を出来る限り丁寧に折りたたみ、俺の車体の収納スペースに収める。
遠く離れようと、彼女達とは繋がっている。いつかまた、必ず会える。だから。
今は、前に進もう。他でも無い、彼女達との約束を果たす為に。
「どうだい?気は晴れたかい」
「ええ。次にあったら殴られるそうですけども」
「そうかそうか。そりゃあ良かった」
杯を仰ぎ、からからと笑う鬼。そういえば、地底に来る時には勇儀に運んで貰ったのだったか。
「勇儀殿」
「なんだい。畏まって」
「いつでも畏まっているつもりでありまするが……」
「やっぱり、一言多いね。あんたは」
村紗や一輪達と再開出来たのも、ぬえと出会えたのも。此処に運んだ勇戯という存在があってこそのもの。彼女に受けた恩は、測りし得ない。
「今まで本当に、ありがとうございました!」
「おぉっと、鬼が人に礼を言われるとは」
「人じゃなくて、鉄ですがね」
からからと鬼は笑い、釣られて俺も、動きもしない鉄の面に精一杯の笑みを作る。彼女ならきっと、分かってくれるだろうと。
「……さっ、て。そろそろ、私ゃ行くよ」
「本当に、ありがとうございました」
「はは。そうだ、どうせだから……お前の地上旅行に少しばかり、手を貸してやろう」
にやりと。悪戯でも思いついたかのように笑い、勇儀は俺の後ろに回り、荷台を掴む。
「な……何をする気で?」
「なぁに、ちょっと空を飛ぶ気分でも味合わせてやろうとなぁ」
嫌な予感がする。
「いや、結構です。走ります、走りますから!」
「遠慮するなって!」
此方が困っていることを理解し、それでもなお続けようとする。
やはり、彼女は鬼。性格は、悪い。逃げなければ、痛い思いをするのは自分である。
俺はエンジンを駆け、ギアを落としアクセルを回す。この鬼の魔の手から脱出せねば、地上どころか天国まで昇る羽目になる。
「はっ!鬼に力で勝てると思ってるのか!」
「負けでいいから、離して下さい!」
微動だにしない勇儀の体。只管、大地を削りながら車輪を回す俺。自慢の馬力も、鬼からしてみれば犬の散歩程度の引力にしかなり得ないらしい。
「さあ!覚悟を決めな、鉄の狗!お前の前にいるのは鬼の四天王が一、星熊勇儀!無事地上へと送り届けようぞ!」
「い、要りませぬ!助けて!離して!」
車輪が浮かぶ。タイヤは虚しく空を切り、鉄の体は重さを無くしたかのように軽々と持ち上げられる。
そして始まる、回転。何をしようとしてるのかは、理解した。
「勇儀殿!ちょっと待って!待て!おい!」
「一!」
一周。勇儀は俺の木刀でも振り回すかのように軽々と、俺の体を回転させる。
「二!」
二回転。鬼の手は未だ身体から離れず、巫山戯た速度で車体が舞う。鬼の馬鹿げた筋力は、凄まじいとしか言いようのない加速度を以って俺を、回す。
次で、別れなのだろう。俺は、今更ながら覚悟を決め、エンジンを切った。
「三!」
手が、離れる。
「達者でな!鉄の!また会おう!」
勇儀の声が途方もない速度で遠ざかる。返事をする余裕は、無い。
勇儀の手を離れた俺は、撃ち出された弾丸の如く空を切り。纏わり付く風を引き剥がし、その音を鉄の体の中に反響させながら、飛ぶ、飛ぶ。
「土蜘蛛殿!巣!破ります!」
地底の最上に位置する、土蜘蛛の巣。いつもなら、此処まで来て休憩して、旧都に戻るのがお約束のルートであった。
土蜘蛛の驚く顔を追い越し、その言葉も聞けぬまま俺は、巣を引きちぎりながら飛行する。
彼女に別れを告げられなかったのは残念だが、すれ違う彼女の顔に確かに、笑みが浮かんでいた。また会ったときに、平謝りしよう。
「……さようなら、地底」
差し込む光が、俺に近付く。まさか本当に、此処まで投げられるとは思っても見なかった。鬼の怪力に苦笑しながら、眩し過ぎる外の世界へと踊り出る。
俺は慣れ親しんだ、暗く湿った洞窟を、地底を、飛び出した。