その日は、風が強かった。
だから、倒れても仕方がなかったのだ。と、自分に言い訳をしながら、何とか起き上がろうと前輪を動かす。
俺は単車。腕もなければ、足も無い。起き上がらせるときはテコをつかって、なんて、俺には関係の無い話である。
「誰かー、誰かいませんかー」
風が強い。雲は暗く、閃光をちらつかせながら迫ってくる。もうじき、雨が降るだろう。辺りに生い茂る木々も、俺を雨から守ってくれそうには無い。
「誰かー、誰か助けてくださいー」
今一緊張感に欠ける、俺の声。どうも、敬語を使うと何処か惚けたような、胡散臭い調子になってしまう。輝夜には慇懃無礼だのなんだのと怒られてばかりだった。
そんな輝夜と、別れたばかりだと言うのに。彼女なら、坂の上ででもこけない限りは俺を起こす事ができた。
それは、さておき。
「……妖怪を助ける人もいないか」
妖怪を助ける妖怪も、あまりいないが。
風は強くなる一方。もうそろそろ雨が降り始めるかと思っていた時であった。
一羽の兎が、俺の前に現れたのは。
「そこの兎さんよ」
茂みから現れた、白兎に声をかける。無論、兎と意思疎通ができるわけもない。只の気休め、である。
「誰か助けを呼んでくださいな。一人じゃ起き上がれなくてね」
兎はその長い耳をぴくりと動かして茂みに向かって飛び込んだ。
すわ言葉が通じたか。若しくは、俺の声に警戒して逃げたか。十中八九、後者であろう、が……?
「ん……?これは、妖気……?」
何かの気配が近付く。妖気と、獣の匂い。妖獣は基本的に血の気が多い。この気配の主が妖獣ならば、この状態で出会すのは、出来れば避けたい。
「何方でしょうか。人語を解すことは、出来ますか」
「日本人だからね。日本兔?どっちでもいいけど」
茂みから、まず素足が飛び出し、そして、その全身が躍り出る。
頭に兎の耳が付いた、兔。妖獣にしては珍しく、人間よりの容姿。
「助けを呼んでる変なのって、あなたのこと?」
「助けは呼びましたが、変なのではありません」
「ふぅん。ま、いいけどね。元から助けるつもりは無いしー」
この兔。中々にへその曲がった兔である。雷様に取られるが良い。
「ま、私に会えたんだから大丈夫でしょ。じゃねー」
「て、ちょ……」
言うが早いか、また茂みへと飛び込む兔少女。一体何をしに来たのだろう。
また、一人になる。咳をしても、心配してくれる人もいない。いつものことなのに、今日は何故だか寂しく感じる。
必要も無いくしゃみを一つした、その頃。
俺のタンクに、一滴の水が落ちた。
雨が降る。
土砂降りの雨が、視界をぼやかす。世界を曇らせる。
纏ったボロ布も、水を吸ったせいで車体に張り付いている。その車体は、変わらず地面に張り付いている。
雨の匂い。土の匂い。
雨の音。土の湿る音。
俺は、雨に打たれながら、静かに目を閉じた。
雨の音と、湿り切った泥の跳ねる音に、何か、別の音が混じる。
一定のテンポで近付くそれが足音だと気付き、あたりをミラーで見渡した。
音は近付く。ちいさな水飛沫をあげながら。
先の兔と同じように、一人の少女が飛び出した。
「……なに、これ」
俺の姿を見て、目を丸くする少女。否、少女の姿をした、何か。
「こんにちは。お嬢さん」
「……喋るんだ」
「喋ることには驚かないのですね」
「十分驚いたつもりだけど」
少女が言う。短めの黒髪、裾の短いぼろぼろの着物。
少し、淀んだ目。
「貴女は、人間でしょうか?」
「貴方は、人間じゃないのね」
「私は妖怪。乗り物の妖怪」
「私は、人間。不死の人間」
不死。輝夜と同じ、不死。しかし、彼女からは月の民のような匂いは感じない。感じるのは、この、地上の匂いだけ。
「それより、こんなところで何してるの?」
「転んでしまい、立てないのです。手をかしてはくれませんか」
「構わないけど……結構、重いね」
そう言いつつ、俺を難なく起こす彼女。人なのか、何なのか。
「ありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして。それじゃ、私はこれで」
「お待ちくださいな」
振り向く彼女を止め、次の言葉を続ける。
「すぐそこに洞窟があります。私は、そこに向かおうとしていました。雨が上がるまで、雨宿りでも如何でしょうか」
「……構わない、けど」
「なら、どうぞ、こちらへ」
エンジンを駆けずに、自力で進み始める。その横を少女が歩く。
「そういえば、お名前は」
「藤原妹紅。貴方は?」
「私の名前は……何でしたっけねぇ。もう、憶えていないのです」
「へぇ……貴方も、長生きなのね」
「永遠に生きるわけではありませんがね」
泥にタイヤを沈ませながら、獣道を進む。
「乗りますか?」
「いや、いい。歩く」
「さいですか」
歩く。俺には、もう、縁の無い言葉である。
名前も忘れた、元人間。もう、人間らしさは欠片も無くなってしまったけれど。
岩肌が見えてくる。じきに、洞窟に着く。
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濡れた身体から、水が落ちる。乾いた岩肌を濡らし、湿らせ、また落ちる。
ゴツゴツとした、洞窟。
座った途端、隠れていた疲れがどっと溢れ出す。少しだけ、眠い。
目の前にいるのは、見たこともない乗り物。鉄の妖怪。しかし、此方を襲うつもりは無いらしい。
彼が起こした火に手をかざしながら、濡れた身体を乾かしていく。
外は、変わらずに雨が降っていた。
「お疲れのようですけど」
「ちょっと、ね」
火の暖かさ、水の冷たさ。今更ながら、背中が冷たい。
そういえば、あの時も。
私が薬を奪った、あの時も。
こうして、岩笠と……
「藤原殿」
彼の声に驚き、少し身体が跳ねる。
「貴方の過去は知りませんが、そんなに自分を責めないでくださいな」
どうやら、見透かされていたらしい。
「でも、私は……最早、人間でもない。罪を犯したまま、永遠に生きなければならない。償うことも出来ずに」
「私だって、遥か昔に人間を辞めた身。元人間。罪を後悔するのは構いませんけど、後悔したって何も始まらない事くらいは知っています 」
元人間。この、鉄の身体をした彼が、人間だったと言うのか。
「人間だったって、本当?」
「ええ。身体は、何処かに置いて来てしまいましたけどね。心だけ、この鉄に乗り移って」
少し、淋しそうに言う。表情は変わらないけど、多分、本当に淋しいのだと思う。
「割り切らないと生きてはいけません。後ろを見ても、何も変わらない」
「……それでも」
それでも。
「私は、やっぱり、後悔してる。あの日、不老不死の薬を飲んだ事。その為に、彼を、岩笠を殺したこと」
「……不死ならば、いつか、心を切り替えることが出来るのかも知れませんね。自殺も出来ない、貴方なら」
「嫌味かしら」
「そんな。二割程度ですよ」
少しだけ笑って、彼の背に腰掛ける。
「背中、借りていい?」
「どうぞ」
岩肌より柔らかい。鉄の癖に、なんて、背中を借りておきながら少しだけ恩知らずなことを考えながら。
彼の起こした火に、身体を温めながら横たわる。
岩の冷たさ、鉄の暖かさ。
永遠の岩と、咲いて散る鉄火。
私は岩を突き放し、今は火にこの身を預けている。しかし、それでもかの神話のように寿命が縮まる訳でもなく。
富士の火口にこの身を投げれば、私の一生も終わるのだろうか。焼けて煙となってもなお、身体は生まれ変わるのか。それならば、空に浮かぶあの月まで。岩も、花もない、輝く夜へと届けばいいな、なんて、あり得ないことを願いながら。
私の意識は、遠く、遠退いていった。
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今日も、風が強かった。
だからだろう、こんなに昔のことを思い出していたのは。
あの日、黒い髪の少女は、朝、目が覚めた頃にはいなくなっていた。彼女も輝夜と同じ、永遠を生きる者。
ならば、いつかまた、この幻想郷で会えるかもしれない。
不老不死なんて、外の世界では幻想の物となってしまっていることだから、もしかしたらもう、幻想郷にいるのかもしれない。この異変の中、彼女達を探す余裕なんて無いのだが。
月には、変わらず暗い雲がかかっている。
紅く、輝く夜と合見えるのは、まだ先になりそうだと、一つ、必要のない溜息を吐いて。
雨が振り出す前に、俺はまた走り出した。
今度は、転びなんてしないように。
ちょっとした、小話を。