気温が低い時は、エンジンの掛かりが悪い。
ガソリンなど当の昔に使い切ったと言うのに、一体何故、掛かりが悪くなるのか。
必要も無いのにくしゃみが出る俺である。きっと、理由なんて無いのだろう。ガソリンが入っていないのにチョークを引く理由も、必要も無いのにくしゃみが出る理由も、『そういうもの』だから仕方が無いのだ。
もう、五月まで日が無い今日。
この、いつまでも続く冬の寒さも、『そういうもの』なのだろうか。なんて。
下らないことを考えながら、俺は、紅魔館へと走りだした。
気分だけの里帰り、雪に埋れ続けたあの日も、随分と前のこと。冷たい冬は、本来ならば暖かな春に代わる頃。
しかし。
背の低い皐月の木も、未だ花を咲かせることなく雪に埋れ、桜の花さえ咲くことなく。幻想郷の春は、誰かに盗まれたまま。
盗んだ犯人の居所は分かっている。雪に混じって舞い落ちる、桜の花弁。幻想郷で、桜の咲いている場所は一箇所も無かった。つまり、この舞い落ちる花弁は何処からか飛んで来たのではなく、直截空から舞い込んできているのだ。
空高く。天空の花の都へは、俺にはどうあがいても駆け上がるような真似は出来ない。駆け上がるなんて気も起きない。
俺には、他にやる事があるのだ。
「妹様、調達して参りました」
「はい、ご苦労様」
此方に視線を移すことさえなく、ベッドの上から素っ気ない返事を返す我等が主の妹君、フランドール・スカーレット。
彼女に頼まれたのは、傘やらブーツやら防寒着やら。出かける気満々の品々である。
「一応聞いておきますが、これで何をする気で?」
「部屋の中で傘をさす人がいるのかしら」
「吸血鬼はさすのやもしれませぬ」
「へぇ。お姉様が廊下でさして歩いてたら、傘を爆破してみよう……っと」
体を起こし、俺が買ってきた品々を身につけ始める妹君。流石、彼女の妹。行動が早い。
「お姉様には内緒よ」
「はいはい。分かっておりますよ」
コート、手袋、靴下、ブーツ、そして、UVカット仕様の傘。
彼女にとっては、始めての外出である。勿論、レミリア達には秘密での、外出。
紅霧異変の終わったあの日、俺は、レミリアからある頼みを聞き、二つ返事で了解した。
その頼みとは、フランドールに俺を譲渡すること。乗り物である俺をフランドールに渡すと言うことは、つまり。
公には出来ないものの、ある程度は目を瞑ってくれると言うことだろう。
「では、妹様……いえ、フラン様」
「ん」
少しだけ、緊張した様子のフランドール。前回抜け出そうとした時は魔法使いと巫女に迎撃され、その前は俺に邪魔されと、今のところ二連敗である。三度目の正直となるか、否か。
全て、彼女次第。俺は、彼女に使われるだけ。
「地上に出る道は、地下図書館を経由するものしかありません。しかし、フラン様は……」
「姿は消せるけど」
「気配と妖気が強すぎるのです。ですから、今回は、あの時の螺旋階段を使いましょう」
パチュリーの図書館は、警備が厳しく、フランドールが通り抜けることは到底出来はしない。
なので、今回は崩れ去った螺旋階段を通っての脱出。あの時半壊した紅魔館はすっかり元に戻ったが、この螺旋階段だけは壊れたまま、硬く封をされているのだ。
「……暗に、行くなと言っているのかしら」
「そんな。必ずや脱出しましょうぞ」
疑うのも無理は無い。しかし、俺は本気である。
「……失敗したら恨むからね」
「どうぞ。さあ、行きましょう。外は雪が積もって綺麗ですよ」
出るなら、今しかない。開けない冬の異変の為、咲夜が空の彼方へと向っている、今しか。
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私たちの目の前に、次々と階段が形作られていく。比喩でもなんでもなく、崩れた瓦礫が浮き上がっては、私たちが上るのに不自由無い程度の広さの階段が生まれていっているのだ。
私たちが通り過ぎた階段は、崩れてまた私たちの前へ。組み合わさっては崩れ、また、階段を形成して。
足下だけを照らすランタンの明かりのように、私たちの脱出を助ける。
「こんな能力があったんだ」
「能力というか、協力を得たと言うか。私は、物と会話できるのですよ」
「ツクモガミ、だっけ?ツクモガミは皆、こんな事ができるの?」
「いえいえ、私だけですよ。知ってるところでは、ですけどね」
彼がスピードを落とし始める。前には、閉じた扉。階段の終着にあったそれは、固く封をされて、立ちふさがっていた。
「ちょっと、通しておくれ。妹様のお通りだよ」
彼が扉に話しかける。話しかけられた扉は、別に返事をするわけでも無く。返事の代わりに扉自ら、その封を解き、開いていった。
「物にも意思はあるのです。だから」
あまり乱暴に使っちゃいけませんよ、と。少しだけ寂しそうに、私に言う。
私の力は、破壊の力。物だって、幾つも壊してきたし、きっと、これからも壊す事になるのだろう。
唯、彼がこんなに寂しそうにするのなら、私は。
物を壊すのは、出来るだけ控えよう。開きゆく扉を見ながら、そう思った。
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フランドールを乗せて、雪の降る地上を走る。雪は流れではないことはレミリアで実証済みなので、今は日光だけを気にすればよい。唯一気をつけねばならない日光も、雲に隠れ、その輝きは弱まっているため、外出にはもってこいの天気であった。
俺のシートに座るフランは、眩しそうに、目を細める。しかし、細められた目は、楽しそうに輝いていて。
「フラン様。何処に行きましょうか」
「花。花が見てみたい。綺麗なのを」
「了解です。ではなるべく、目立たぬよう」
ギアを上げ、アクセルを回す。
花といえど、今は冬。暦の上では春であるけれども、咲いている花は少ない。数少ない冬の花が咲いているところと言えば……
「あー……」
思いつくその花が咲くのは、人里近く。そんな所にフランドールを連れていくのは、気が引ける。
そして、もう一つ、気が引ける理由が……
「……何とか、なるかね。多分」
持ち主が望むのならば、俺に拒む権利はない。危なくなったら壊れてでも持ち主を逃がす義務はあるが。
フランドールは、俺のハンドルを握ったまま楽しそうに、本当に楽しそうに白銀の世界を見つめている。
レミリアが望んだのは、こんな表情のフランドールなのか。ならば。
「行きましょう。何処までも」
雪の積もった道に、車輪の跡。ミラー越しに見える、俺が通って来た道には、早くも新しい雪が降りつもり始めている。
そして、その雪に混じる桜の花弁は、目に見えて多くなっていっている。異変の終わりも、近いのかもしれない。
俺が辺りを確認する傍、フランドールは日傘をさして俺から降り、初めて見るその花に目を輝かせていた。
その花は、椿。冬に咲く花と言われて、俺が思いついた唯一の花。
「ツバキと言う花です。冬に咲く花は、少ない物で。これしか思いつきませんでした」
「ん……いいよ。とっても、きれい」
白い雪の中、鮮やかに咲き誇る赤い花。まだまだ満開とは言えぬ上に、あまり縁起の良い花とは言えないが、確かに、その見た目はこの上無く美しい。落ちる瞬間だけ見て勝手な想像を抱き、縁起が悪いなどと決めつけるのは、如何なものだろう。
「あら。珍しいわね」
突然掛けられたその声を聞き、背筋に冷たいものが走る。背筋といっても、シートとフレームしか無いが。気分である。
「お久しぶりです。風見殿」
「お久しぶり。また、花を踏み潰したりしてないでしょうね」
「あれは不可抗力でした。本当にごめんなさい」
俺とこの妖怪の出会いは、酷いものだった。俺が一人で走っていた時に突然襲われ、倒れた所で踏み千切られた花……彼女曰く、俺の車輪に轢かれた花を突き出し、謝罪させられたのだ。
その日以来、彼女は俺を見る度に移動に使うようになった。花を踏まないように、監視だと言って。十中八九、楽がしたいだけである。乗ってもらう分には構わないのだが……
「そちらの彼女は?貴方より余程、風情が分かりそうな子ですけれど」
「本当にすみませんでした……フラン様」
風見幽香の出現に気付き、此方を向いたフランドール。俺の掛けた言葉に対し、小さく首を縦に振る。紹介しても、いいということか。
「此方は、フランドール様。私の今の主で御座います」
「あら?貴方の主は……ああ、なるほど」
幽香が、何か納得した風にフランドールを見る。
「吸血鬼のお嬢さんの、妹さんね。はじめまして、風見幽香と申します」
スカートの端を摘み、丁寧にお辞儀をする幽香。対するフランも、少しぎこちないながらも礼をする。
片や吸血鬼、片や大妖怪。挟まれる俺は、戦々恐々とするばかりで。
二人の間で戦闘が起きれば、死人が出る。俺とか。
「吸血鬼が、昼間にも関わらず花見だなんて」
「お姉様が寝てる間に、抜け出して来たの」
「あらあら、それは。そうまでして、花が見たかったのね」
「地上にある綺麗な物と言えば、花かな、って」
満足そうに頷き、目を細める幽香。花を踏み潰すような輩には問答無用で挑み掛かる幽香であるが、花を大事に扱う相手には終始紳士な態度で接するのも、この妖怪の特徴である。
この分ならば、諍いなく終えることが出来るかと、思った時であった。
風見幽香が、こんな問いを投げかけたのは。
「貴方は、椿がどんな花か知っているかしら」
幽香は、その整った顔に笑みを浮かべたまま、問う。しかし、その裏に隠した凶悪さは、美しい笑顔に禍々しく影を落とす。
この問い掛けは危険だと、本能が叫び狂っている。しかし、この問いに俺が口を出せば更に危険だと言うことも分かっている。
「……綺麗な、花」
「そう。雪の冷たさに負けずに咲き誇る、とても綺麗な花。でも、この花はとても、不吉な花」
幽香が、椿の前に立つ。フランドールとの距離が、手を延ばせば届くほどに縮まる。
「この花は散る時、花首が折れて一気に落ちるの。そう、それはまるで、人の首が落ちるように、ね。だから、この花は人々に忌み続けられてきた。貴方は、そんな花を見て――」
「煩いな」
フランが、幽香を睨み付ける。
「貴女も周りの言葉に惑わされて、罪の無い者を閉じ込めるのね。縁起とか、禁忌とか、本当、下らない」
フランドールは、静かにその怒りを風見幽香にぶつける。しかし、その目にあの時の狂気は無く。そこに映るのは、真っ直ぐ、芯の通った紅。彼女の姉によく似た、瞳。
「私は、この花が好き。それは、私と似てるからと言う同情でも、地上に出て始めて見た花だからと言う思い入れでもない。私は、この花が、純粋に好き。唯、好き。それじゃいけないのかしら」
崩れること無く笑い続ける妖怪に、彼女は、真っ向から挑み掛かる。
二人の間に、沈黙が生まれる。しかし、この沈黙の間にも、状況は大きく動いていっている。
幽香の笑みから影が消えて行っているのが、最たる例で。
「……そう。なら、私は、この辺でお暇するわ」
あまりに、あっけなく。風見幽香は、此方に背中を向ける。
「私も、この花は好きよ。忌み嫌われ、雪に埋れてもなお咲き誇る気高い花。貴女の言うとおり、この花はとても綺麗な、素晴らしい花……だから、こうして見に来たの」
最後に、また会いましょうと付け加えて、風見幽香は歩き去る。
肩透かしを食らったように立ち惚けるフランドールと、心から安堵する俺を残して。
「……何だったの?あいつ」
「まあ、深くは考えなくてよろしいかと」
「ふうん……え?」
また、椿の方に視線を向けた彼女が、驚嘆の声を上げる。釣られて、俺も椿をみれば……
「……これは、また」
そこには、満開の椿。雪を押しのけて開花した、無数の椿。つい先程までとは比べ物にならないほどに鮮やかな、風見幽香の置き土産。
そして、また、目を輝かせるフランドール。風見幽香も、最後に良い仕事をしてくれる。今度会った時には、礼を言わねばならない。
俺は、フランドールが飽きるまでずっと、椿の傍らで待ち続けた。
「で、どうだったのかしら。フランは」
「ええ。冬服もとても似合ってました」
「うん、ああ、そう」
前にも同じような受け答えをしたな、なんて。例にもよって、彼女が聞きたいことは、分かっている。
「大丈夫ですよ、フラン様は。思っていたより、ずっとしっかりしていらっしゃいました」
「そう。フランも、そろそろ外に出た方が良いと思ってたから……屋敷の中は、解禁ね」
嬉しそうに、レミリアが笑う。本当、よく似た姉妹だと思う。
「風見幽香と遭遇した件は」
「ん、まあ、いいんじゃないかしら。悪い運命は、見えないわ」
「そうですか。なら、良かった」
彼女がそう言うなら、きっとそうなのだろう。俺は安心して、車輪を左へ切る。
「お疲れ様。また、使われてやって頂戴」
「ええ。幾らでも使われましょう。では」
反時計回りに旋回し、レミリアにテールランプを向ける。今日は、心労の多い一日であった。機械の体とはいえ、疲れはする。今晩は、ゆっくり眠ろうと、レミリアの元から離れていっていた、その時。
「今度は」
投げ掛けられたその言葉に、ブレーキを掛ける。微かな金属音と共に停止した俺に、レミリアは続ける。
「私も乗せて頂戴。最近、乗ってないから」
「……いつでも、どうぞ。私は、願ったりですから」
こうして、レミリアと約束を交わして、俺は。
紅魔館の紅い廊下へと、車輪を進めた。
花を覆う雪と、溶ける狂気。