目が覚めると、何故か見知らぬ男に押されていた。何を言ってるか分からないと思うが、俺にも分からない。
誘拐か。いや、物だから泥棒か。全く、碌でもない男である。
まあ、薮の中で寝ていた俺にも非があるのだけれど。
太子と出会ってから、ざっと二百年程の時が過ぎた。
少しずつではあるが妖怪としての力も強くなり、俺と同じく物の妖怪たる憑喪神達の間では、ちょっとした有名人となっている。えへん。
そこらの妖怪よりは強い妖力を持ち、馬力も速度も随分と上がったように感じる。
唯、生活は獣のそれに近い。走るは獣道。寝床は薮の中。昨日も、都に程近い薮の中で眠りに着いて……
今に至る。
男は依然として、懸命に俺を押している最中である。ハンドルに手をかけ、えっちらおっちらと。
見た所貴族だが、何を思って俺を運んでいるのか。汗だくになっている所をみると、かなりの時間、こうして俺を押しているのだろう。京まで押すつもりだろうか。一人では中々京には入れないし、折角なので運んでもらう事にしよう。
「ふぅ、ふぅ……なんと、重いんじゃ」
貴族は、見るからに辛そうだ。
……運んで貰っているのだし、少しくらいは自分で動くか。
エンジンを駆けずとも、歩く程度の早さまでなら自力で動ける。
俺は、貴族に悟られない程度に、車輪に力を込めた。
「おお? 心なしか、軽く……コツを掴んできたようじゃな!」
貴族の足取りが、幾分軽くなる。これなら、京に行くまでに倒れてしまうこともなさそうだ。貴族は口笛交じりに俺を押していく。
京が、見えてきた。
男の屋敷の庭。やはり、貴族だけあって広い庭である。その庭の端、屋敷の縁のすぐ近くに俺は停められた。
「よっこらせ、と」
縁に、水桶と丸めた藁が置かれる。持ってきたのは、貴族男。それにしても、貴族としては珍しく従者に任せるということをしない男である。
「さて……」
貴族が腕捲りをし、藁に水を付ける。そして、俺の横にどかりと腰を降ろした。
まさか、洗うつもりか。
「輝夜姫も、これならば喜んで下さろうて」
男が俺を磨き始める。
砂、土、泥、枯葉、埃、苔。男が手を動かすたび、透き通っていた水が不純物を乗せて伝落ちるたび、その心地良い振動がボディを通して身体中に響き渡る。溜まりに溜まった二百年分の汚れが、貴族の手によって俺から擦り取られていく。
この姿になってから……偶に水浴び程度はしていたものの……洗車されるのは初めてだった。水に浸かったり、雨に打たれた程度では取れなかった汚れが、どんどん落ちていく。
気持ちが良い。身体が、随分と軽くなった気がする。無論、重量的には大して変化は無いのだが。
水に濡れた体に風がぶつかり、少しだけ肌寒い。
「さて、後は乾かすのみじゃな。大分綺麗になったのう」
満足した貴族が、桶を抱えて離れて行く。
洗車されて、俺は、少々気が緩んでいたらしい。貴族の姿が消える前に。まだ、お互いに独り言でも言えば聞こえてしまうであろうで距離あったにも関わらずに、俺は痛恨のミスを犯してしまう。
つまりは。
「くしゅんっ」
静かな木造建築に、僅かな湿り気を含んだその音が響き渡る。
貴族が振り向く。くしゃみの主たる俺を凝視する。
やっちまった。なんでここでくしゃみなんてしちゃうかな、俺。めっちゃ怪しまれとるやん、俺。
てか、無生物なんだからくしゃみ必要ないだろ。何故出た。
……しかし、やってしまったものは仕方が無い。勇気を出して話しかけてみることにする。
「……こ、こんにちは」
びくり、と、貴族の身体が跳ねる。此方を警戒しながら、恐る恐ると口を開いた。
「……こん、にちは」
さて、何と切り出したものか。
「な、なあ」
「な、何でしょう」
何を話せば良いかなんて知らないし、どう接するべきかなんて分からないが、とりあえず。
「あ、洗ってくれて、ありがとよ…」
予想外の言葉だったらしく、きょとんとする貴族。しかし、それも束の間。若干引き攣り気味だった顔が見る間に解れ、その穏やかな笑みが浮かび上がるのにそう時間は掛からなかった。
「どういたしまして」
数刻後。
俺は貴族と世間話に花を咲かせていた。
俺が意思を持っているとばれた時は焦りに焦ったが、一度話してみれば不思議と気が合い、終いには酒まで持ち出して二人で飲み始める始末である。
ちなみに、俺は偶に酒を燃料タンクに流し込んでもらっている。昔は壊れやしないか心配だったが、どうやら、妖怪となった今はそんなことじゃ故障すらしないようだ。錆びも、焼き付きもしていない。
「そういえば」
「何です?」
先程から気になっていたことを尋ねてみる。
「さっき、輝夜姫、っていってたよな」
男が、はっとしたように此方を見る。
「……そうでした。貴方をここまで連れて来たのも、輝夜姫に献上しようと思って……」
輝夜姫。そういえば、時代は大体この時期だったか。
男が、苦笑混じりに続ける。
「本当は貴方を献上するつもりでしたけど、流石に友人を献上するわけにはいきませんね……」
友人、と言う言葉を聞いて面食らう。
会って間も無い、喋る鉄の塊という俺を、友人と呼んでくれるとは思わなかった。
実に人間らしくない、等と言うと些か失礼かも知れないが、無論良い意味で、であるので勘弁して欲しい。
「代わりの物は無いのかい」
「それが、何にも。彼女が喜びそうな物など」
「なら、俺を献上する他無いな」
男が俺を見る。その顔は、驚きに染まっていた。
「しかし」
「何々、洗って貰った恩もある。それに、だ」
男は俺を友人だと思っているらしい。
ならば、尚更。
「友人が困っているんだ、助けるのが当たり前だろう?」
友人ならば。彼が俺を友人だと思ってくれるのなら、俺も、喜んで彼を友達だと思いたい。
「……なら、貴方を輝夜姫に献上しましょう。あと」
男が、真っ直ぐに俺を見て言葉を紡ぐ。
「ありがとう」
「いいってぇことよぅ」
少し、胸を張って答える。胸に当たるパーツが何処かも分からないので、あくまで気持ち、だが。
「でも、そんなに美人さんなのか、輝夜姫」
「そりゃあ、もう。この世で、あれ程美しい方等、いる筈も無い程に」
そこまで言って、男が酒を煽る。月灯りに照らされ、頬が少し上気しているのが見て取れた。
「でも、正直な話、私はあの方に釣り合わない」
彼の話に話に頷くことも、遮ることもせずに、唯、改めて男の顔をまじまじと見る。際立って顔が良いという訳ではないが、整った顔立ちに切れ長の目。間違いなく美形の類に入るであろう優男である。少しばかり妬ましい。俺は最早このなりなので関係無いが。
「あのお方には、きっとこの世の男では釣り合わないのだろう。あのお方は、それ程に美しい」
諦め、に近いのだろうか。しかし、男の顔は吹っ切れたように爽やかである。その顔に、哀しみや憂いは感じられない。
「だから、せめて、いつも物憂げな顔をしていらっしゃるあの方を驚かせてみたい。笑わせてみたい。そのための」
「俺というわけか」
「呆れましたか」
「うにゃ、好きだぜ。そういうの」
そう言って、男と二人して笑った。
秋の中頃、宵の中頃。弓張の月が地上を照らす。俺の知る竹取物語の通りならば、かぐや姫の迎えが来るまでもう、あまり時間は無い。
あの男はもう眠ったことだろう。俺は、間違ってもあの男に聞こえることの無いように溜息を吐き、今頃迎えの準備をしているであろう月の都を思う。恨むでもなく、嘆くでもなく。只、ぼんやりと月を眺めて、其処に映る兎の影を見やる。
叶わぬ恋。ただただ一方的で、それでいて、ささやかな恋。彼の思いは、かぐや姫に届くのか。それとも、いとも簡単に振りほどかれて潰えるのか。
「……まあ、あいつ次第なんだけどな」
そう。全て、あいつ次第なのだ。俺に出来ることは、献上されて、使われるのみ。
「……運転の仕方くらい、教えとくかね」
俺に出来る、せめてもの手助け。友の想い人の前、少しくらい格好付けさせてやりたいものである。
人の手助けなど、実に妖怪らしく無い。そう、心の中で呟いて、俺は。
タンクに残った酒を、一思いに流し込んだ。