真昼の弟は転生者で、呪術師兼ララライの看板役者です。でも推しの子は知らない模様 作:水の虎
社会人になると趣味に当てる時間がなくなるのって本当なんですね。
そして今回の話途中から作者も何描いてるかわかんなくなってきたんでわかりづらいと思います。
けれどいつかの東堂が言ったように、読者の皆さまなら作品の想像した世界を理解してくれると信じてます。
考えるな、感じろ! です。
────領域展開。
言わずと知れた呪術の秘奥。
そんな領域展開において必要とされるのが生得領域の具現化だ。
自らの心とも言い換えられる生得領域を現実世界に引っ張り出し、そこに術式を付与する領域展開には、術式の深い理解の他に高度な結界術の力量も求められる。
本題に入ろう。
領域展開には結界術が欠かせないことを理解しただろうが、ここで一つの疑問を呈しよう。
────なぜ領域展開における
通常の場合、領域は内と外を結界で分断する。
領域展開が必中必殺とされるのはここにある。
領域内において自らの術式が必中になる上に、結界によって空間を分断し、逃げ場を無くすことは確かに戦闘における絶大なアドバンテージと言える。
ここまで聞けばわざわざ
一方で呪術には
領域展開を必殺としている要素は術式の必中もあるが、何よりもその必中の範囲から基本的に逃げられないという点だ。
つまり結界を開いて逃げ場を与えることは相当な足し引きの関係が成り立つ。
実際、かの呪いの王である両面宿儺は結界を閉じない領域展開を行使し、先に挙げた縛りの効果によって
なお同様の領域を可能とする椎名夕の領域は、あえて平均程度の範囲に落とし、本来そこにかかった呪力リソースを術式の威力や領域の展開時間に当てるなど、状況に応じて切り替えている。
話を戻そう。
以上のように領域を閉じないことはそれ相応のメリットがある。
それでもそれをやるもの、否、やれるものはまずいない。
そう、やらないのでなく、できないのだ。
結界を閉じずに領域を展開するのは、キャンパスを使わず空に絵を描くような、器もなしに水を貯めるような、そんな神業に等しい。
だが、その事実に椎名夕は疑問を持った。
キャンパスを使わす空に絵を描く? 器もなしに水を貯める?
確かに不可能だ。
けれど、そんな不可能を可能にする人智を超えた業こそが呪術ではないのか?
しかし、そう考えた夕自身も閉じない領域の習得は難航した。
故に考えた。そもそもなぜ領域の結界を閉じる必要があるのか。
そのヒントをもたらしたのは星漿体の一件。
天元、星漿体、そして六眼の因果による結びつき。
原作の呪術廻戦においてこれらの因果は破壊されている。
それをなした者こそ呪力ゼロのフィジカルギフテッド────天与の暴君である伏黒甚爾。
天元曰く、呪力から完全に脱却した彼は因果から外れた存在だと言う。
逆説的に言えば呪力とは因果を司る力と言い換えられるだろう。
そして、術師でなくても持っている
何せ世界に放出されたそれが澱み呪霊へと転じているのだから。
この考えに則るなら、術師は自らの持つ呪力をもって、かつ自らの術式に基づく形で因果の流れを変えていると言える。
しかし領域展開の場合、自らの世界を形成することでその強制力を高め、因果の流れではなく、因果そのものを書き換えているに等しい。
────だから領域展開は結界を閉じる必要がある。
術師の戦いをあみだくじで例えるなら、自分の望む場所に向かうためにお互いに許された範囲で線を付け足し合うのだが、領域展開は謂わばこのあみだくじ自体を新しく作り直して、行き着く先すべてを自分の都合のいいように改変しているとでも言えばいいのだろうか?
それは当然ながらその術師以外にとって到底許容できるものではない。
だから術者は
そうしなければ
つまり閉じない領域展開を邪魔するのは、世界とそこに生きる者たちの意志と言える。
しかし、それに囚われない者もいた。
世界からのノイズをものともすることなく、己の快不快のみに基づく圧倒的な自己と、それを押し通す絶対的な力を持った存在。
そう、それがかの呪いの王である両面宿儺とその他の差だった。
だが、その差は大きなものでこそあるが、決して埋められないものではない。
事実、宿儺以外に羂索もまた閉じない領域展開へと至っていた。
正解も方法も一つじゃない。
結界術において重要なのは具体的なイメージ。
だから夕は考えた。
これらを踏まえた上で、いかに閉じない領域展開を現実的なイメージとして持ってくるか。
そのイメージの軸は────
○ ●
世界はまあ······それなりに予定調和なものとなっている。
それは現実はもちろん、創作の世界だって変わらない。
むしろ創作の世界、それもとりわけ興行的なものとしての創作というのはそういう傾向が強くなる。
それで金銭を得る以上見せられる作品にするのは至極当然と言えるだろう。
だから舞台演技にしろカメラ演技にしろ、役者たちの裏方には様々な人間がおり、脚光を浴びる彼らを輝かせるため、そして繰り返しになるが見せれる作品にするため調和を図っている。
俺はこれを面白いと思った。
作品とは一つの世界だ。それは多くの人間の手によって作られる。
一方で、術師の
何人もの
僅かな
────世界を形作る意思がその世界のあり方に沿っていること。
何が世界を成立させているのか、何が必要なのかと問われれば、俺は多分こう答えるだろう。
「────役不足、といったところかな······」
今しがた撮影されていたシーンを思い返し呟く。
誤用で用いられる意味でなく、文字通りの役不足。脇役ではアイの輝きは強すぎた。
だから残念ながらアイのシーンはほとんどがカットされるだろう。
単純に
つまり作品のあり方的にも、作品の作り手的にもアイという存在は劇薬過ぎた。
(······まあ作り手にスポンサーやら所属事務所やらを入れていいのかは微妙だけど)
とはいえ制作に必要な資金や、その他諸々のバックアップをしているのは彼らである以上、その意向は無視できない。
だが一方で、そういった作り手の意向が必ずしも作品を良いものにしている訳でもない。
しかし芸能界はあくまでビジネスの場だ。
だから作品のクオリティが多少下がろうとも、それ以上の利益が出るのであればそれが優先される。
そうやって芸能界に浸透したその考え方はしかし、作品の調和を保つという意味では確かにやりやすい。
金というおおよそ普遍的な価値を持つもの、それを作品を作り出す際に目指す軸に据えることで、その
ああ、確かに合理的だ。
だが、そんな
人の心を大きく動かす何かは、言葉を失うような何かは、きっとそれまでの理屈の外にある。
予定調和ではなし得ない混沌の先に、まだ見ぬ可能性は存在する。
芸能、それは大衆的な娯楽のことを指す。
自分にはできないこと、自分にはいけない場所、自分にはないものに、大衆は魅せられる。
そんな未知の世界をもっと味わいたいから人々は金を出す。
────結局、本当の感情を写せてるかどうかだよ。
そんな言葉が脳裏によぎる。
人が
それこそいつだって人は、世界がそこにあるのであれば
それがどういう理由によるものかはその時々かもしれないが、突き詰めれば自らの理想の体現のためだと俺は思う。
人は誰しもが自分の夢見る
だから、少なくともその想いは決して嘘ではない。
そしてそんな
だから忘れてはいけない。
俺たちは
だって外の世界からどう見えるかが芸能界という世界では重要で、その評価によって芸能界というものはできていて、結果的に金も発生している。
だから
その
だが、独りよがりに始まった
だから俺たちは見つけてもらうために、その
きっとその瞬間、世界は自分だけの世界ではなく、誰かとの世界になるのだろう。
けれど、ほとんどの術師はそれを受け入れられなかった。
非術師よりも簡単に
自分の中にあるものだけを信じて、世界を歩こうとしたから、領域を開けなかった。
世界に生きる者は自分と同様に全身全霊で存在しているのに、自分本位に
だから俺は
俺にとって
その嘘があったから、俺は未来を
無数の
だから
必要なのは世界から受け入れられる
────ただ、用意すればよかったのだ。
世界から受け入れられ、そこにある人々の
それができれば────
「────·········何ですか五反田監督?」
「こっちのセリフだ。そろそろお前が出るシーンの撮影だから声かけたのに、うんともすんとも返事しねぇで」
「サーセン。······にしてもいきなり中年の顔が視界一杯に広がるってあれですね」
「こんのクソガキがっ······!」
「まあまあ、僕と監督の仲じゃないですか~」
「いいからとっとと準備しやがれクソ主演っ!!」
「へ~い」
────世界は閉じることなく広がり続ける。
今回は如何にして夕が閉じない領域展開に至ったかを深掘りして描いてみました。お陰さまで独自解釈マシマシの嵐です。正直本誌で新たな情報が開示されたらと思うとヒヤヒヤします。
一応の捕捉
世界には人々の
ならばその
とびきりの愛という名の
つまり閉じない領域に必要なのは愛。世界すら
はい、暴論ですね。異論は認めます。