――曰く、人一人が人生で与えられる「幸運」と「不幸」の量は等価であるという。
聖書にも、仏教の経典にもそういった説法が書いてあるらしいが、それは万人に当て嵌まる概念ではないというのが彼の自論だ。
自分自身の不幸を
一度に受けた不幸の量が多すぎた場合、小出しにされる幸運に気付くことは無く、結果的に我が身の不幸を嘆き続ける事になる。――成程、それも確かにあるだろう。
しかし、他ならぬその不幸がその人間の行動原理の根幹を担っていた場合、果たして不幸を上塗りできるだけの幸運を許容すべきなのだろうか?
中途半端な幸運の積み重ねが上回れるのであれば、ひょっとすると不幸そのものも大したことが無かったのではないか?
……その言い分があまりにも独り善がりな事は理解している。小さな幸運と幸福を積み重ねた末に幸せになれるのであれば、それで良い筈なのだ。辛い不幸を忘れてその後の人生を歩めるのであれば、それ以上に幸せな事など無い筈なのだ。
不幸で目が眩んだ愚者であるという自覚。折角享受できるはずの幸運を拒否する恥知らずであるという自覚。
誰に指摘されたわけでもなく、察せられたわけでもない。ただそれでも、心の中に巣食うそれらの強迫観念が常に彼の心を縛り続ける。
埋めても埋めても埋まり切らないある種の「飢餓」。それこそが、彼の《
混沌とした戦場で戦い続けてきたとある
ダブルクロス――それは、裏切りを意味する言葉。
―――*―――*―――
「I国D市支部へようこそ。私は、ここの支部長を務めさせてもらっているニザール・カッバーニという者だ。――君の戦歴は良く聞いているよ。よろしく頼む。ラウル・
中東某国。21世紀初頭であっても人間同士の紛争の火種が絶えない場所に存在するUGN支部の最上階で、高身長の褐色肌の青年――八神ラウルはそこの責任者との顔合わせをしていた。
肌の色自体は、自分と変わらないか、少し濃いくらいだろうか。アラブ系人種の顔の特徴を色濃く引き継いだ、顎に髭を蓄えた壮年の男。年齢は40代前半。僻地の支部とはいえ組織の長にしては少々若く見えるかもしれないが、一国の支部長でさえ同年代の人間がゴロゴロいる職場である。特段珍しいものではない。
一見して柔和。顔の雰囲気も、声の質も、こちらを敵視していたり、警戒していたりはしていない。ただ純粋に、ラウルという存在を歓迎しているように見えた。
「俺の事はコードネームで呼んでくれ。こちらもそうさせてもらう。それで良いか?《ヴァイパー》」
「あぁ、構わないとも。そういったイリーガルは多いからね。むしろその方が気兼ねないまである。改めてよろしく、《グリム・リーパー》」
そう言って差し出された手を、ラウルは握り返すことは無かった。その赤い双眸に、疑心の色が強く出る。
無礼とも思われても仕方がないその行動に、支部長室の入り口近くで警戒行動に当たっていた人物が口を開く。
「本部から来た
重厚なボディーアーマーに身を包んだ、吊り目の女性。その気性を表すような長い赤い髪は一纏めにされており、立ち振る舞いからそれなりの実力を持ったオーヴァードである事が分かる。
「生憎だが、《エグザイル》が差し出した手を握り返す程愚かではない。触れた神経系から感情と記憶を読み取るのは十八番のようなものだろう」
肉体変化を得手とする《エグザイル》のシンドロームには、【異能の指先】と呼ばれる
最前線で戦うオーヴァードであればともかく、支部長クラスのオーヴァードに求められるのは情報戦である事が多い。であれば、ラウルの行動にも利が生まれる。
「ラティーファ、やめなさい。……失礼した、《グリム・リーパー》。確かに軽々しく握手を求めるものではなかったね。許してほしい」
「アンタの立場というものもあるだろうが、こちらも色々な支部を回っている身だ。情報漏洩などがあれば、事と次第によれば何人かの上層部の首が飛びかねん」
「当然の警戒だ。流石、本部の幹部から紹介されただけの事はある」
そう言うと、ニザールは執務机の椅子に腰かける。
UGN本部にあるような、上等な代物ではない。平和な国であればいくらでも用意できそうな、スチール製の机とパイプ椅子。しかし紛争続きで物資が不足しているこの地域では、こういった物でも貴重品になり得る。
「さて、任務内容については本部の方で既に聞いているかな?」
「聞いてはいる。だが、現地の支部長の口からも聞かせてもらいたい。経験上、齟齬が生じる事もあるんでな」
「尤もだ。では、わざわざ来てもらった理由を話そう」
この地域の、この季節にしては珍しい窓の外の雨音を聞きながら、ニザールはまるで講義を行う大学教授のような口調で話し始めた。
事の発端は、UGN本部が中東某国でのジャーム出現率が高くなっている情報を現地協力者からの報告でキャッチした事だった。
元々中東は《
だがそれでも、直近における中東地域の出現率は異常であると言えた。オーヴァードの秘匿も使命の一つと言えるUGNは、すぐさま中東地域の国の支部長全てに対してヒアリングを行使。その際、I国の支部長が国内におけるジャーム出現率を一部改竄して報告していたことが発覚。すぐさま本部へと召集され、その後すぐ更迭される運びとなった。
しかし、支部長が更迭されたからと言って出現率そのものが減少するというわけではない。幸い、”表”にすぐさま影響が出る程の非常事態とはならなかったが、対応が必要だと判断したUGN本部が中東各国、各市支部にエージェントを派遣。調査をする形となった。
本部直轄の
「報告を見た限り、この支部の担当区域でもジャームの数が増加している。対処は?」
「無論、我々としても手を尽くしてはいるが……見ての通り僻地でね。先日もエージェントが一人、殉職してしまったばかりだ。残っている支部所属のエージェントはそこのラティーファだけという有様でね」
ラウルが視線をやると、当の本人は不快感を隠そうともせずフンと鼻を鳴らした。
「中東回りはどこも似たり寄ったりだとは聞いている。近いうちに本部から人員の補充はあるだろう。……新兵同然のUGNチルドレン達を、アンタ達が上手く使えれば、の話だが」
「UGNチルドレン、か。生まれながらのオーヴァードとはいえ、まだ十代前半の子どもたちを戦場に放り込まなければならないのは胸が痛むね」
「
無感情ながら僅かばかり強くなった口調に、ニザールは目を伏せて肩を竦めた。
「……そういえば、君も中東の生まれだと聞いているよ、《グリム・リーパー》。流石の君も、故郷に対しては郷愁の念があるのかな?」
「気にしてもらう必要はない。俺は仕事でここに来た。適切な報酬さえ貰えれば、私情抜きで仕事をこなすさ」
その言葉は機械的なようであり、しかしある意味で人間らしくもあった。
しかし、”周辺地域の事情などどうでも良い。仕事はこなすから報酬だけ寄越せ”とも取れる言い方に、大人しくしていたラティーファが再び牙を見せてくる。
「まるで傭兵だね。金に対しての嗅覚だけは一人前と見える」
「俺は元々傭兵だ。以前は北アフリカから南ヨーロッパ辺りをうろついていた。良く吼える首輪付きの狗だとばかり思っていたが、意外と目が良い」
「なんだとッ⁉」
「ラティーファ」
完全に頭に血が上ったように見えたが、再びニザールの一言で沈静化する。
僻地の支部長という事でひとまず様子を見ていたが、どうやら部下の統率力そのものは高いらしい、とアタリを付ける。
「ジャームの出現は自然発生なのか?」
「……いや、恥ずかしながら違う。UGN本部の監査後、支部の担当区域の山中に
UGNと実質的に敵対する組織、
しかしながらUGNと違い、組織内のセル毎に独自の命令系統を持つため、その動向も動機も神出鬼没。今回のように、UGNの監視下で秘密裏に活動している事も少なくない。
「
生まれながらのオーヴァードを保護、指導するのがUGNチルドレンであるのなら、
ジャーム化したオーヴァードも属する
そんな存在が、人目のつかない山中に研究施設を設けてジャーム化に際しての耐久実験を行っていた。もし手の付けられないレベルのジャーム化を引き起こしたとしても、施設内で処理するか、そうでなければ野に解き放ってしまえばいい。UGNの監視の目が強い北ヨーロッパや北アメリカ、アジア地域の一部であればそんな事をすればすぐさま捜査の手が伸びて鎮圧されるだろうが、慢性的な人手不足に悩む支部の区域であればバレずに済む可能性が高くなる。常日頃から紛争の火種が燻ぶって、治安状況が最悪な地域であれば猶更だ。
「流れてきた暴走状態のジャームの大半は
「シンプルな依頼だ。下手に調査をしない分、早く終わらせることができる」
「納得してくれたようで良かった。任務は、ラティーファと協力して行ってくれ」
様々な支部に派遣されるという都合上、監視の意味合いも込めて現地エージェントとタッグを組むというのは珍しい事ではない。ただし、今回は少し意味合いが違ってきた。
「支部唯一のエージェントを外に出すのか。場所さえ分かれば、単身で乗り込む事もできるが?」
「生憎とこの辺りは地形が複雑でね。地図も一応あるんだが、紛争時の爆撃などで道が大幅に変わっているところもある。GPSを使おうにも、基地局が麻痺している時間帯もあってね」
戦争ってのは全く以て厄介だね、と嘆息しながら独り言ちるニザールを見ながら、ラウルは背後から鋭い視線をグサグサと突き刺してくるラティーファの存在を一旦無視した。
「案内役か。確かに、現地の武装兵と揉めるのも厄介だ。提案に甘える事にしよう」
「……まぁ、その意味合いもあるね。それならば翌日から始めてくれ。本日の宿はこちらで用意する。――あぁ、安心してくれ。最低限の治安とサービスは保証できるところだよ」
傭兵生活が長かった影響で、大抵の場合屋外でも睡眠が出来るラウルだったが、屋内で寝れる選択肢があるのであれば、それを選ばない理由はない。
その会話を皮切りに、ラティーファに睨まれたまま支部長室を後にする。三階建てのコンクリートが剥き出しのビルは、とても全世界に手を伸ばす組織の支部には見えなかったが、カモフラージュという点では優秀だろう。
「明日は午前四時から出発するよ。宿の近くに車を停めておくから、そこで合流だ」
「意外だな。現地集合くらいの嫌味は言われると思ったが」
「……正直お前は気に食わないけど、任務である以上仕方がない。でも遅れたら置いていくよ。UGN本部にはクソ情けない抗議文を送ってやるから覚悟して」
「安心しろ。時間厳守は傭兵の嗜みだ。――そうだ、一つ訊かせろ」
「何?」
「アンタの事は何と呼べばいい。本部は、《ヴァイパー》以外の情報を碌に寄越さなかったんでな」
そう問うと、ラティーファはあからさまに面倒臭いと言った表情を見せた後、苦虫を噛み潰したような声色で言い放った。
「《ウィンディー》。アタシのコードネーム。名前で呼んだら殺すからね」
―――*―――*―――
国連機関が仲裁に入っての停戦など、ほぼほぼ意味を為さないに等しい。
その度にこういった緩衝地帯に近しい場所に存在する街は、爆撃や侵攻の標的になる。D市は、まさにそういった場所であった。
舗装が間に合っていない道路を、オフロードカーがひた走る。助手席に乗って窓の外から風景を見てみるも、マトモな建物よりも瓦礫の山の方が多い。
不機嫌そうな顔は昨日から全く変わらなかった。太陽が昇る前に合流して、用意された車に乗ってから意図的に一度も言葉を交わそうとしなかった。
しかしそれは、ラウルにとっても都合が良かった。元より、短期間しか滞在しない場所で殊更に有効な関係を築こうとも思っていない。あくまでも仕事上の関わり。最低限のコミュニケーションと連携が出来ればそれで良い。
無関心を体現したような瞳で代わり映えのしない外の風景を眺めていると、不意に車が急停止した。
敵襲か何かかと思い、反射的にコートの下の得物に手が伸びかけたが、隣に座ってハンドルを握っていた筈のラティーファが、車を降りて前方へと走り出していた。
その先には、朝早くから飲料水の確保のためにバケツを持って歩く子供たちの姿があった。その内の一人が瓦礫に足を取られて転んでしまったのを見て、駆け寄ったらしい。
水を零してしまい、最初は苛立ちを隠せていなかった子供も、ラティーファの姿を見るや否や一斉に花開いたように笑顔になった。会話内容までは聞き取れなかったが、「ラティー」と呼ばれ、随分と慕われているらしい。
その後数分ほど何も考えずじっとしていると、ラティーファが運転席へと帰って来た。
「……悪かったね」
まさか謝罪の言葉が飛んで来るとは思わなかったラウルは、珍しく少しばかり面食らったような表情になり、再び車が動き出すと同時に自然と口が開いた。
「子供が好きなのか?」
「……こんな有様の街でも、子供たちは必死に生きようとして頑張ってるんだ。ならアタシみたいな大人が気に掛けるのは当然だろう?」
その言葉に、偽善の色は込められていなかった。常人よりも遥かに強い力を持つオーヴァードでもある彼女は、しかし力の大小など思考の内にも入れず、ただ単純に子供たちの今と未来を案じていた。
人間は、危機的状況では本性が露わになるという。またいつ戦場になるかもしれないという緊張感の中、それでも彼女は己の信念の下に善性を失っていない。極めて貴重な人間であると言えた。
だから、だろうか。
ビジネスライクな関係を是とするラウルが、滑らせたような形で言葉を紡いだのは。
「アンタみたいな人間が、昔からいてくれたら良かったんだがな」
「……アンタ、もしかして」
返ってきたその言葉を聞いて、ようやく自分が
だが、ここで会話を止めて中途半端な雰囲気のままで仕事に入るのもそれはそれで厄介である。口を滑らせた自分自身への罰だと思う事にして、タイヤが小石を蹴る音が響く中、どこか他人事のように語り始めた。
――その少年は、現地民の女性と、日本から来たジャーナリストの男性の間に生まれた子供だった。
両親の出会いは、あまり深く訊いたことが無い。ただ、日本から紛争地域の取材に来ていた父が、現地で飲食店の店員をしていた母に一目惚れし、その後のアタックに根負けした母が婚約を了承したらしい。
ここいらの地域では、女性の結婚相手は父親が決めるものである。だが、幼くして両親を失って一人で生きてきた母は、自分の半生を憐れまずに真っ直ぐと自分を見つめてくれた父の事を好きになったらしい。
そのような人生を送った母には、学というものは無かった。代わりに少年に教育を施したのは父だった。
父は仕事でこの地に来ただけであり、遠くない内に日本に帰国しなければならない身の上だったが、母と婚約したその日に電話越しに会社に辞表を叩きつけたらしい。
そんな父であったが、国外に派遣されるジャーナリストであっただけあって、日本では著名な大学を出ていた人間だった。文字の覚え方や数字の数え方から始まり、音楽や歴史といった分野についても、少年が出来るだけ興味を持てるように教えてくれていた。
逆に、少年の生き方の根幹となるような倫理的な事を教えてくれたのは母であった。
決して良い環境で育ってきた訳ではないというのに、母は常に真っ直ぐな生き方をしていた女性だった。感謝を憚る事なく口にし、他者の善性を見抜き、周囲を常に笑顔にする。どこか荒んだような雰囲気があった街の中では、まさしくアイドルのような存在であったといえる。
「困っている人がいたら、手を差し伸べられる人になりなさい」――母は常々、そう言い聞かせてくれていたのを覚えている。
強い人たちであった、というのが思い返した時の感想である。将来は母のように多くの人に頼られる人になり、父のように博学な人になりたいと思うようになっていた。
やがて妹が生まれてからは、より一層、幼いながらの使命感が生まれたように思える。現地で仕事を見つけた父と、変わらず飲食店で働いていた母に代わって面倒を見る事も増えていたし、自分が父と母からもらったものを、今度は自分が妹に伝える番だという心意気があったのも確かである。
決して裕福ではないながらも、不自由は決してない満ち足りた生活。――そんな生活が壊れたのは、一瞬だった。
隣国の、停戦条約の一方的な破棄。
国際機関が武力介入をして来ない以上、「第三者からの非難」などという曖昧なものでは侵攻は止められなかった。
連日続く銃声と爆撃。余毎精神をすり減らしながら、しかし母と父は店を拠点に怪我人の治療や物資の管理に当たっていた。自分の命も危機に晒されているというのに、他者の命を救う事を優先した。
そんな時、少年の心は葛藤のさなかにあった。自分以外の誰かの為に動く両親を誇りに思う心と、その高潔さを捨ててでも二人に生きて欲しいと思う心。その胸中の天秤は長い事揺れていたが、最終的に前者の方に傾いた。
忙しい両親に代わってまだ幼かった妹の面倒を見ながら、少年も出来る限り両親の手伝いをした。父と母の心の清さに従っていれば、きっとまた穏やかに暮らせる日々が戻ると信じて。
――ふと気が付いた時、少年は瓦礫の下にいた。
否、この表現には語弊があった。瓦礫と、少年の間に母親の身体が挟まっていた。その小さな体を、庇う形で。
ぼやける視界の中、正面を見る。そこには同じような形で、幼い妹を庇うように父が瓦礫の下敷きになっていた。違う点を挙げるのであれば、妹の体にも深々と建物の梁が突き刺さっていた事だろう。
呻き声も、最期の言葉も聞けなかった。自分以外の三人は、何の慈悲もなく即死していた。
その事実を受け止めるまでに数時間。母が作ってくれた僅かな隙間を這うようにして脱出するまでに更に数時間。完全に廃墟以下の存在に成り果てた、店だった場所から這い出た時、少年の双眸から押し出されるようにして涙が溢れ出た。
どれくらい泣いていたのだろうか。それすらも曖昧だったが、遠くで聞こえた爆撃の音で我に返ったのは覚えている。
駆け、駆け、ひたすら駆けた。目的地も理由も分からない。或いは、母も父も妹も死に、しかし自分だけ生き残った。その事実そのものから逃げたかっただけなのかもしれない。
見知ったはずの街中ですら、完全に別の世界と化していた。崩れた建物の残骸、倒れたまま微動だにしない人間だったものの成れの果て。土煙と硝煙と人間が焼ける臭いが混ざり合った不快感の権化のような地獄の様相は、今もふとした時に瞼の裏に蘇る時がある。
『僕たちは何か悪い事をしたのか⁉ 母さんも、父さんも、妹も‼ どうして、どうして、どうしてどうしてどうして――――――――――――――――‼』
空に向かって慟哭をした後、喉の奥からせり上がって来た血の塊が口から噴出する。
少年の体も、無事ではなかった。体を圧迫していた瓦礫が内臓に深刻なダメージを与えていたが、死と生の境目に立たされて極限状態であった少年は、この瞬間まで己の死期を悟ることができなかった。
指先から冷たくなっていく感覚に浸されながら、しかし少年はそれに抗おうとはしなかった。
”このまま眠ってしまえば、家族と一緒の所へ逝ける”。その一縷の希望が、少年の最期に安らぎを与える筈だった。――その筈だったのだ。
太古の聖人にしか許されない筈のその奇跡が、少年の体に発現した。
少年は知る由もなかった。一年ほど前に、中東のとある場所の上空で撒き散らされた未知の存在の情報を。便宜的にウイルスと分類された、《
それは奇跡か、それとも呪いか、それとも罰か。
その意味を考えるにはあまりにも幼すぎて、しかしその幼い身の上に不釣り合いな力だけが残された。
どこにでもありふれている、という訳ではないが、少なくともこれは、少年が全てを失い、そして何かを得た残酷な人生の一部分であった。
無論、その全てを話したわけではなかった。
善人の両親がいて、しかし理不尽な戦火に見舞われ、自分だけが生き残ってしまった。事実だけを伝えるのならば、それだけで事足りる。
わざわざ自分の心情を
ここで憎まれ口の一つでも叩けるようであればいっそ清々しいものであるが、流石にそこまでの胆力は無かったらしい。ここから数時間の旅路をどうしたものかと思い悩んでいると、車の外に幾人かの兵士の姿が見えた。
兵士の姿自体は珍しいものではない。今でこそ暫定的に平和を維持しているが、元々は最前線に近い地域だ。駐屯兵くらいはいるだろう。
だが、その兵士たちがラウルたちの乗った車の方をチラチラと見ながら、通信機を使って何者かと連絡を取っている。余所者に対して警戒心を露わにしているのかとも思ったが、どうもそれとも毛色が違うようだ。
直後、ラウルの体から奔った微量な青白い電気を視認できたものは、誰もいなかった。
―――*―――*―――
市街地から車に揺られる事数時間。途中、昨日の雨で地盤が緩んだ影響で大木が道を塞いで迂回路を探していたせいで遅れてしまったが、作戦そのものには大した影響はなかった。
山間部に隠されるように建っていた、コンクリート製の建物。一見すれば何かの工場のようにも見えるが、この場所で非道な人体実験が行われていたなど誰も思いはしないだろう。
元々は小綺麗な建物であった事が伺えるが、D市支部のオーヴァードが制圧戦で相当暴れたのだろう。窓ガラスは大半が割れ、頑丈な筈の屋根部分も一部は剥げてしまっている。
一度は制圧され、完膚なきまでに破壊された建物というのであれば、成程、確かに身を潜めるには格好の場所だろう。犯人は現場に戻ってくるという犯罪心理をこの国の人間が知っているかどうかはまた別の話だが。
ドア諸共吹き飛ばされた正面玄関の前に立つと、まずラティーファが前へ出た。
「アタシは一階と地下を探す。アンタは二階と三階を浚って」
「戦力を分けて良いのか?」
「馬鹿にしないで。これでも生き残った支部の唯一のオーヴァードだから。そういうアンタこそ大丈夫なの?」
「
セキュリティの類は一切機能していない。どの扉もボロボロ。どこの部屋にも入り放題。
故に、本来であれば不意打ちの類は一番警戒しなくてはいけなかった。意志が破壊衝動に染め上げられたジャームが相手といえど、それは変わらない。
だと言うのに、ラウルは三階のフロアを何の躊躇いもなく進んでいた。既に二階の全部屋は確認し、最上階の探索を行っている最中であったが、その佇まいに警戒心の類は感じられない。
ここまでの道中で、屋内での人の気配は全く感じられなかった。出てくるものと言えば、ネズミや虫の類ばかり。
であるならば、残党とやらが潜んでいたのは地下部分であると想像はつく。この時点でラウルは上階の探索を打ち切ってラティーファの援護に行くべきだった。
だが、ラウルはそういった行動は取らなかった。ガラスの割れた窓際を、まるで散歩でもするようにうろついていた。
――直後、ラウルの側頭部近くで重い破裂音が鳴り響いた。
『
『油断するな‼ 仕留めろ‼ 相手はバケモノだ‼』
『死体を確認するまで気を抜くなよ‼』
ラウルの体がよろめくと同時に、屋上に潜んでいた数名の重装備の兵士が三階部分に降りてきた。その動きに一切の無駄は無く、相当練度の高い部隊である事が伺える。相手がただの人間であったのならば、十数秒後には為す術もなく蜂の巣にされて制圧されていた事だろう。
コートの内側から引き抜かれた得物の銃口から、死の象徴が躍り出る。
一発、二発、三発。放たれたそれらが
「……着弾と発砲音の感覚が広い。長距離狙撃か。良い腕だ」
そう賛美するラウルの側頭部には、
声にもならない呻き声を挙げながら地に伏せる兵士たちを、ラウルは無関心な目で見つめている。すると背後から複数人の足音が聞こえ、一つ、面倒くさそうに嘆息した。
その足音の先頭にいた人物は、死屍累々一歩手前といった状況を見て、歯噛みをする。
「いつから――」
「その質問は適切ではないな、《ウィンディー》。
苦虫を嚙み潰したような表情のままのラティーファを他所に、背後にいた同様の装備の兵士たちが一斉にラウルに銃口を向ける。数は凡そ一個小隊。問答無用で鉛弾を叩き込むという殺意がひしひしと向けられていた。
《グリム・リーパー》八神ラウルは、基本的に対象外の人殺しは行わない。
現地での処理が面倒だとか、治安維持組織との折衝が面倒だとか色々と理由はあるが、元々彼は殺戮に快感を見出すような人間ではないというのが大きい。その代わり、死んだほうがマシだと思えるような痛みを与える事は多いが。
しかしながら、例外はある。自分に対して純度100%の殺意を向けてくる相手。その上で殺し、殺される覚悟がある存在を相手にする時は、ラウルはその喧嘩を真正面から買う。
「一つ教えておいてやる。――水のある場所で《ブラックドッグ》を相手にすべきではなかったな」
ラウルの体内で増幅された電流が、足元の水たまりを伝ってフロア全体に波紋のように広がっていく。
時間にして、一秒も無かっただろう。瞬きする暇すらもなく、ラティーファ以外の兵士は全て、命を失った黒炭と化していた。
「俺をどのように仕留めようとするかについては、少し興味があった。街にいた兵士共がオーヴァード対策もしていない無線でペラペラと喋っていたからな」
するとラウルは、自分の足元近くで黒焦げになって死亡していた兵士の懐から何かが零れ落ちている事に気づき、それを拾い上げた。
「
出力をかなり落とした
凄戦を生き残ったオーヴァード。その表現は適切なのだろう。それが虚偽かどうか分からない程愚鈍ではないつもりだった。
「……アタシたちの事、どこまで掴んでるの?」
「だから、
「そんな事をしたら、アタシ達は少なからず本部に睨まれる」
「
そこまで言うと、ラティーファは装備の後ろ腰から二丁の
その行動が、今までのラウルの言葉の真実性を雄弁に物語っていた。二丁の大型ナイフを携えて佇む姿は堂に入ったもので、少なくとも素人が醸し出せる雰囲気ではない。
「アンタはここで止める。支部長の元へは行かせない」
それに呼応するように、ラウルも愛用の大型拳銃を構える。
常人では扱えない大きさと重さ。しかしそれに見合う破壊力を内包している。少なくとも、先程放たれた
「悪くない殺気だ。――来い、《
崩壊寸前の研究所の最上階で、人の形をした兵器たちの激突が始まった。