地獄華異聞・皇紀弐千六百五年   作:ごまぬん。

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こんにちは。もしくははじめまして。

目次ページにも書きましたが、本作は筆者の過去作『萌え声人類種の天敵系ロリっ娘リコリス vs 俺たちのちさたき vs ダークライ』の番外編として投稿していた『#-100? Long,Long Ago』を再編集し、個別に投稿し直したものとなります。ご了承ください。



#1 Long,Long Ago

 

 その一円に足を踏み入れた時、彼は遠方に見えるあの建物を()の首魁が統治事業の最前線に指名した理由が解せたように思えた。

 日比谷第一生命館は、かの米国の大統領府であるという建造物(ホワイトハウス)と、概ね再従兄弟(はとこ)程度には似ている。

 

 かつて帝都に満ちていた文明の喧騒は最早遠く、道行く人影はどうにも(まば)らだ。

 誰もが何かに怯え、(ある)いは追い立てられるように、足早に通り過ぎていく。

 それは、九月も半ばに入って唐突に冷たくなった秋風の所為(せい)かも知れなかったし───彼らに混じって街を闊歩する金髪碧眼の異人(外国人)と、それが駆る軍用輸送車(トラック)の威容の所為かも知れなかった。

 

 土埃(カーキ)色の甲号国民服は、昨今の寒波に対してはまったく頼りない薄さであったが、その青年は肌寒さなど微塵も感じていなかった。

 肩掛け鞄の中に入った()()()()()()()()()()()()()が、彼の臓腑に淀むような熱を伝えている。

 行き交う人々の内、その青年だけが俯くこと無く顔を上げていた。進駐軍の英米人を除けば。

 

 我が物顔で帝都を練り歩く異人に対し、内心忸怩たる思いを募らせながら、青年はあくまで厳粛な態度で歩いた。

 ───ふと、物陰の隘路に目が留まる。あの空襲を焼け残った、背の低い建物に挟まれたその暗がりには、ひとりの少女がぽつんと座り込んでいた。

 

 糸のように細められた双眸。夕焼けめいた、もしくは血液にも似た臙脂色の和装。

 一見すれば良家の子女の如き佇まいだが、その表情は恐ろしく暗い。何かよほど(むご)い目に遭ったようで、西洋人と紛うほど蒼白な肌はまだしも、三つ編みにした髪の毛までもが白く染まっていた。

 年の頃は十六、七あたりだろうか。若く美人でこそあるものの、明らかに尋常ではない様子で、不逞の輩とて易々とは近づけまい。

 

 さしもの青年も気味悪く思い、そもそも今は斯様な些事に(かかずら)っている暇は無い。

 足早に、通り過ぎようとして─────。

 

「……かふっ」

 

 奇妙な咳と共に、少女がその場に崩折(くずお)れた。

 胸を押さえて浅い呼吸を繰り返す少女を見て、青年はひどく動揺した。それが、南方諸島戦線の地獄において、疫病に侵された小隊の仲間たちの姿と重なったからだ。

 

「おい、君」

 

 青年は意を決して少女に近づき、声をかけた。

 己が靖国に往くのが数刻遅れたところで帝国の行く末は変わるまいが、彼女の病状は数刻の遅れが命取りになる。

 天涯孤独の敗残兵たる青年とて───(いく)さに参じること(あた)わぬ女子供らに代わり、祖国と主上(おかみ)を列強諸国の脅威から守護すると誓った身である。これを見棄てることは出来なかった。

 

「こっほ……。……こほ。どなたか……そこに、いらっしゃるのですか……?」

 

「君……そうか、目が。案ずるな、いま助けを呼んでやる。いや……それよりも、俺が医者に連れて行こう。立てるか?」

 

「お若い……ですのね。兵隊さん、ですか?」

 

「そうだ。……立てないなら無理をするな、負ぶって行ってやろう。体力には自信がある」

 

「まぁ……、こほっ。でしたら、すみませんが……お言葉に甘えて……」

 

 ───青年は、少女を助け起こし、跪き、背を向けた。

 もうずいぶん前の話だが、彼には歳の離れた弟妹が居た。兵役で培った体力を抜きにしても、この程度は慣れたものだ。

 少女の柔らかな手が首に回され、背中に体重がかかり、そして。

 

「御免」

 

 肩口に異様な冷感を覚えた一秒後、すべては終わっていた。

 手巾(ハンカチ)が口を塞ぐ。預けられていたはずの体重が移動して、青年の身体を引き倒す。

 鉄火場で鍛え上げられた兵士の本能は、混乱の最中にあってなお唐突な暴力に対処しようと藻掻(もが)いたが、無意味だった。少女を振り払うより早く全身の筋肉が硬直し、悲鳴を絞り出すより早く喉が締まり、鼓動が加速するより早く心臓が破れる。

 

「…………」

 

 排撃対象(ターゲット)が完全に動かなくなったのを見計らって──尤も、彼女の視覚が封じられているのは事実なのだが──、白髪の少女は手を離した。

 細長い(きり)型の暗器を抜き取り、()()()と小さく音を立てて血振るい。然る後、死体の懐から拳銃と手榴弾を回収する。

 

「……、やれやれ。この国はどこまで物騒になるやら」

 

 昼間でも仄暗い横道に、静かな呟きと哀れな屍を残し、少女はさらなる闇の奥に消えた。

 

 

 

◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 ─────大日本帝国・国家安全保障調査局。

 

 古くは明治政府の樹立以前、日ノ本の枢要にて創始された影の衆『八咫烏(ヤタガラス)』を源流とする諜報組織。

 国体を脅かす犯罪者、あるいは悪逆の兆候を闇の中で討ち、以て平和の礎と為す秩序の剣。

 

 かの組織によって各地から集められた孤児(みなしご)は過去を抹消され、健康的な生活と高水準の教育と引き換えに、国家の安寧を守護する刃としての使命を課される。

 

 陰謀と流血の荒野に拠って立ち、世に蔓延る悪意を人知れず誅殺せしめる憂国の烈士。

 陽の当たらぬ裏社会にて、彼女たちはこう呼ばれていた。

 罪人の魂を、冥土へと流し渡す───現世(うつしよ)の『彼岸花(ヒガンバナ)』と。

 

 

 

◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 皇紀弐千六百五年───昭和二〇年、或いは西暦一九四五年。

 後に第二次世界大戦と呼ばれる戦禍と狂乱の時代が終わりを告げ、大日本帝国(われわれ)は一敗地に(まみ)れた。

 

 あの八月十五日の無線電波(ラヂオ)放送に対して、生き残った七千万の国民が如何なる感情を抱いたかは、私の関知するところではない。

 極東の小さな島国の身には余る野望。その()()を精算するためだけに、我々は犠牲を払い過ぎた。本来尊ばれるべき人の命、嘆かれるべき死の喪失が、統計上の数字へと堕してしまうほどに。

 

 

 

 ─────さて。

 余人はともあれ、私個人はこれをどのように受け止めたのかと問われれば……存外、さして深刻に思ったわけでもない。

 無論、相応の苦悩と悲嘆はあったが、それ以上驚くことも憂うことも無かった。

 それどころか、()()()は、この国が"より善く敗けられる"ように誘導した側なのだから。

 

 

 

◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 秘匿組織『八咫烏』───今上の世での名を、大日本帝国・国家安全保障調査局という。

 古くは明治政府の樹立以前、日本の枢要にて創始された影の衆であり、起源を辿れば徳川の世(江戸時代)にまで遡る暗殺部隊。

 国体を脅かす犯罪者、あるいは悪逆の兆候を闇の中で討ち、以て平和の礎と為す秩序の剣である。

 

 平和で安全、美しき日本。国民はみな規範意識に長け、心優しく温厚。

 亜細亜(アジア)に名だたる先進国家、大日本帝国。帝都・東京には危険など無い。

 社会を乱す者の存在を許してはならない。存在していた痕跡も残さない。

 消して、消して、消して、綺麗にする。危険は元々無かった。

 今日の泰平と繁栄は、我ら日本国民の気質によって成り立っているのだ。

 そう思えることが一番の幸福。それを作るのが、私たち影の衆の役目───であったのも、しばらく前までのこと。

 

 『八咫烏』麾下、国家安全保障調査局には『金鵄(キンシ)』と総称される三つの部署がある。()()()、と言うべきかも知れない。

 一つ。『鴉』が率い、男児を中心として構成される重装備兵団『君影草(キミカゲソウ)』。

 一つ。『雅』が率い、女児を中心として構成される暗殺者集団『彼岸花(ヒガンバナ)』。

 一つ。『(カラス)』が率い、隠蔽工作と組織外交を担う利害調整部門『花葵(ハナビシ)』。

 

 この内、『君影草』は開戦早々に軍部へと迎合し、一億玉砕の尖兵と成り果てた。

 『八咫烏』は無分別な肉切り包丁に(あら)ず、主上(おかみ)とその治める民にこそ仕える守護の剣である……という金科玉条は、実のところ何の戒めにもならなかったらしい。

 

 『花菱』はそんな血の気の多い連中の抑えに回っていたが、軍閥の一員を任じながら戦地にも赴かず、政治闘争に明け暮れる狸爺(たぬきじじい)共に目をつけられたのが運の尽きだった。

 彼らはこの国の中枢たる皇家との繋がり(コネクション)、並びに軍や警察といった他機関に対する優越権を徐々に蚕食(さんしょく)され、気づけば逆に主上を傀儡(かいらい)とする政治上の包囲網に加担してしまっていたのである。

 畢竟(ひっきょう)、そのような有様では利害調整部門の本分など果たせるはずも無く、組織としては空中分解したも同然であった。

 歴史を紐解けば、『花菱』は元々、幕府や政府の要人の影武者として働く滅私奉公の部隊だったそうだ。それが今や、命を賭してでも守るべき主人の立場を脅かしているとは、何と皮肉な話だろう。

 

 では、斯様な時世の中で、残る『彼岸花』は何をしていたのかというと─────。

 

 

 

◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 東京都本所区は錦糸町の一角、先の大空襲の傷痕も癒えぬままの界隈に、奇跡的にも焼失を免れた建物がある。

 戦前は昔ながらの茶屋を営んでいたという以外は、これといった特徴も無い古民家。───この吹けば飛びそうな荒屋(あばらや)こそ、国家安全保障調査局・臨時東京支部。

 信じ(がた)いことに、我ら『彼岸花』の前線拠点なのだ。

 

「只今戻りました」

 

 前線拠点とは言っても、ここに詰めている構成員(エージェント)は数える程しか居ない。

 ……というより。マコトと花火(はなび)はそれぞれ神奈川と京都に出張、結華(ゆいか)は負傷のため富士山麓の『彼岸花』本部にて療養中で、吹上(ふきがみ)の奴まで長期任務で留守となると、手空きの人員は私だけということになるまいか?

 

「───あぁ。戻ったか、海里(みさと)

 

 引き戸を開けつつ条件反射で呟いた私に、奥でふんぞり返っている女が返事を寄越す。

 この日本人離れした長身の美人は、現在の『彼岸花』司令官・御蔵座(みくらざ)木綿喜(ゆうき)

 偶然ながら、私が組織に勧誘される……つまり視力を失う以前から近所に住んでいたので、人相は記憶している。沖縄出身らしくやや色黒で、これまた日本人離れした赤毛の持ち主だ。事務仕事の時は眼鏡をかける。

 

 元々は『花菱』に属する外交官であり、また利害調整部門として『八咫烏』全体の動向を監査する裁定者でもあった。

 しかし、その古巣が軍部との権力闘争(パワー・ゲーム)に巻き込まれ、呆気なく霧散したのを機に独自行動を開始する。

 前任の『彼岸花』司令官を()()してその座を移譲されるや否や、かつての身内(『君影草』や『花菱』の高官)を含む国内の継戦派を片っ端から抹殺して(まわ)った。

 こうして政府の空洞化を達成した後、停戦派が結束するのを陰ながら支援して裏の支配者(フィクサー)の地位を確立。

 連合国側との戦後交渉に際しては、日本が占領した外地のみならず北の共産主義(ソヴィエト)連邦や英国(イギリス)領植民地の叛乱(テロル)促進をちらつかせ、いよいよとなれば国土と独立主権を切り売りしてでも世界秩序に亀裂を入れてやる───などと、どちらが敗戦国なのか(わか)らぬ程の脅迫を仕掛けた疑いまであった。

 

 結果だけ見れば救国の英雄と讃えられてもおかしくはないが、その業績は敵対者を文字通り鏖殺(おうさつ)した上で成り立っているもので、女傑と呼ぶにはあまりにも血腥(ちなまぐさ)い。

 しかもそれらの所業を、愛国心からというより半ば趣味で遂行している節があり───つまるところこの女は、人狩りと権謀術数を生業(なりわい)とする生粋の"政争狂"なのだ。

 

「この頃にしては楽な仕事でしたね。吹上と替わってあげたいくらいです」

 

 で、こちらが私こと百束(ももつか)海里(みさと)

 幼い頃、流行り病によって両親を亡くし、自身も高熱で死にかけていたところを『彼岸花』に拾われ、治療と暗殺者になる教育を受けて育った。

 この開かぬ目と若白髪は、そのとき患ったものだ。幸いにして(聴覚)(触覚)(嗅覚)を鍛える機会に恵まれたので、他人(ひと)に心配されるよりは不便ではない。

 

「お前には簡単過ぎる相手だったな。まぁ、この程度は朝飯前に(こな)して貰わねば困るが」

 

「あら、ということは次が本命ですか。今度は一体、どんな厄介な仕事を押し付けてくれるんです?」

 

「その前に……紹介しておきたい者が居る」

 

 ほう? 二階から聞き慣れぬ足音がするとは思っていたが、御蔵座に報復するためやってきた『君影草』の兵士ではなかったのか。いや、もし奴らであったならば、とうに目の前の司令官殿が叩き殺しているか。

 

「ゆきな!」

 

「───はいっ、はい、はーい!!」

 

 どたどた、ぴょこぴょこ。

 昨今なかなか聞くことの無い元気な、悪く言えば阿呆のような女の声が響き渡った。

 背丈は私と同じくらいだろうか。人間の体格など、直接見て取るには及ばない。声や足音から頭と脚の位置を割り出せば容易く知れる。

 

「彼女は?」

 

「えへへ……はじめまして! 滝川(たきがわ)ゆきなです!」

 

 確認を取るまでもなく、その少女───ゆきなは、進んで自己紹介をしてくれた。

 (かんざし)と髪の擦れる音がする。それに、よく隠されてはいるが、ごくわずかな血の匂いも。どうやら私と同じ彼岸花らしい。……御蔵座が連れてきた時点で当然といえば当然だが。

 

「階級は乙号、出張中の花火との交換で京都から呼び寄せた。扱い(にく)い彼岸花という話だが、今は猫の手も借りたい時期だ。今日からしばらく相棒となる、お互い仲良くしろ」

 

「ん、そういうことっ。よろしく相棒〜!!」

 

「あぁ、どうも。百束海里です」

 

 普通に握手しようとしたところ、こちらの五指を()()と両手で掴まれた。

 ……筋肉こそしなやかだが、手の皮が厚く硬くなっている。剣術(やっとう)の修練を重ねた者の手だ。

 乙号と言えば、甲号に次ぐ優秀な彼岸花(暗殺者)であることの証。特に不思議というわけでもない。

 

「ももつかみさと! 良いお名前だね。生まれはどの辺り?」

 

「生まれも育ちも東京です。そういう貴女(あなた)は」

 

「私は生まれも育ちも京都だよ〜。あ、失礼かもだけど歳はお幾つ?」

 

「十七ですけど……」

 

「わ~!? 私より一個お姉さんじゃん! 海里お姉様って呼んだ方がいい?」

 

「いえ、結構です。そこの司令官殿曰く、年功序列なんて悪習は豚にでも食わせた方が建設的らしいので」

 

「そっかぁ! 良いこと言うね木綿喜さん!」

 

 本気(マジ)かよこの女、()()御蔵座司令を下の名前で? 心臓に猫でも飼ってるのか。

 あと近い。顔が近い。見えてなくても息と体温でわかるからなそういうの。

 

「顔合わせは済んだな。では、これより任務を下命する」

 

 そしてこの人はこの人で、きっと心臓が玉鋼(たまはがね)か何かで出来ているのだろう。

 おまけに、友人を茶会に誘うが如く政府要人を暗殺してこいと(のたま)う上司にしては、随分と丁重な物言いなのが引っかかった。

 

「百束海里、滝川ゆきな。諸君等に行方不明の元・陸軍少佐、松下蘭堂(まつしたらんどう)の捜索と排撃を命じる。かの怪人物の居所を探り当て、(すみ)やかに誅殺(ちゅうさつ)せよ」

 

 

 

◇ ◆ ◇ ◆

 

 

 

 会談の場所を建物二階に移す。

 一階は御蔵座の居城(オフィス)だが、こちらは()()領地(テリトリー)だ。

 

「松下蘭堂男爵───松下家第十四代当主、日露戦争で急増した戦功叙爵者の一人ですね。名古屋帝大(帝国大学)では西洋医学を専門としていましたが、他にも機械工学や博物学など幅広い知識を持つ才人だったそうです」

 

 波打つような焦茶(らしい)の癖毛と、やや舌っ足らずな声音が特徴の少女───御蔵座が既に死に体の古巣(『花菱』)から引き抜いてきたという情報官、米津胡桃(よねつくるみ)である。

 私やゆきなより七つか八つは年下の童女だが、若輩ながらにその見識眼の冴えは隔絶しており、御蔵座の豪腕と彼女の情報蒐集能力無くして『彼岸花』の活動は有り得ない。

 

「医学者なのに陸軍将校? 軍医として出征したならわかりますが」

 

「えぇ、実際に初めて軍役に就いた時はそうでした。戦場を経験して考え方が変わったんでしょう。軍医時代に培った人脈を活かして将官に転向した、異色の経歴の持ち主ですよ。兵站(へいたん)の確保と人的資源の温存を最優先とする姿勢ゆえ部下の信頼は厚く、それでいて出世に興味の無い現場主義者。還暦を過ぎ、周囲が慌てて退役を促すまで、ずっと最前線で戦い続けたというのですから……筋金入りの前線症候群ですわ」

 

「ですわ~」

 

 ゆきなが胡桃の語尾を繰り返す。どうも話に着いて来れていない様子だ。

 まぁ、私だって所詮は組織に属する手足の一つであり、政治や戦略の方面に明るいわけではない。そんな面倒なものは御蔵座に任せておけばいい。

 

「しかし、どうして今更、退役済みの老人などを追わねばならないのです? 評判を聞く限り──確かに、現場の兵卒には顔が利くでしょうが──軍部の中枢に食い込んでいるという風情でもない」

 

「出世欲の有無なんて結局は当人の胸三寸ですから、図抜けた戦功と下々からの人気を兼ね備えた古強者(ふるつわもの)とか、他の派閥からすれば潜在的脅威の権化みたいなものですよ。実際のところ、水面下ではそれなりに手を打っていただろう、というのがぼくと司令の推測です」

 

「で、その水面下で手を組んでいた相手が問題だと」

 

「はい。現状、退役後の松下男爵の動静は(よう)として知れない。三月の空襲を経て生死すら不明というのは明らかに異常で、これは何らかの暗部組織の協力が無ければ考えられないこと。男爵が頼る伝手(つて)となれば……恐らく軍部」

 

「とはいえこのご時世、軍部お抱えの暗部組織など『君影草』を筆頭に数十は下りません。特定できるのですか?」

 

「そこで、海里さんとゆきなさんの出番ですわっ」

 

「出番!」

 

 人型の漬物石と化していたゆきなが跳ね起きる。私は未だ顔貌(かおかたち)も知らぬ新たな相棒の頭と尻に、犬の耳と尾を幻視した。

 

「幾ら紙の資料を葬れても、人の記憶は容易く消し去ることが出来ません。お二人には市民の皆さんから直接話を聞き、男爵の足跡を辿っていただきます!」

 

「おー!!」

 

「……その途中で何らかの()()()を踏んでしまうことも考えられるので、残念ながらぼくはここに居残りなんですけど」

 

 成程(なるほど)、そういう事情か。

 大抵の下調べは胡桃と御蔵座が方々(ほうぼう)走り回れば済むし、平時なら吹上か結華あたりが護衛に就くところなのだが、人員不足の現状ではそれも叶わない。

 何より、それらの負担が非戦闘員の二名に集中しているのは()()()ない───今後は暗殺稼業のみならず、諜報活動にも通じた身になれということだろう。

 

「委細承知しました。では、行ってきます」

 

「胡桃ちゃん、色々説明ありがとー。行ってきまーす!」

 

 ……ところで、此奴(こいつ)にちゃんと諜報活動など出来るのか?

 

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