この数ヶ月は激動の日々だったらしい。
ガイウスは漢の西端を越えて西域まで赴いていたので情報に疎かったが、別駕(副官)として雍州全土を差配していた郭嘉の元には漢中や陳留からひっきりなしに情報が飛び込んでいた。
陳留までの道中でそれらを共有する。
「なるほど、孫呉が動きましたか」
「はい。まさか十万もの軍勢を投入する余裕があったとは……私も予期できませんでした」
曹操軍随一の戦略家と名高い郭嘉の意表をついた。彼女としては痛恨の極みだった。結果的に曹家の三人が援軍に向かったことで兵力差は縮まり、張遼という将の質によって撃退できた。しかしそれは軍師の望む展開ではない。
何かを言いよどむ一刀から彼の不安を感じてはいたが、結果的に彼のほうが孫呉を正しく評価していたのだ。
「なに、風さんがいたのです。凛殿は見事雍州の人事から漢中の支援までこなしていたではありませんか。それ以上は抱え込みすぎです」
「……そうですね。もっともその仕事の多数はあなたが行うべきものでしたが」
「ははは。適材適所ということで何とかなりませんか?」
「なりません。華琳様や桂花にしっかり絞られてください」
ぷいと顔を背けた郭嘉の弁護は望めない。あの荀彧の怒涛の口撃に晒されることを想像して、ガイウスは肩を落とした。
***
荀彧から間髪入れずに罵倒の嵐を受けた後、曹操によって西域との交易はいずれ役立つから不問とされてガイウスは曹操の執務室を後にした。どうせ不問とするなら荀彧を止めてくれればよかったのにと思うが、曹操には嗜虐の趣味があることを思い出してため息をついた。
とにかく外の空気を吸って気を晴らそうと中庭を歩いていると、何やら轟音が聞こえる。誰かが鍛錬でもしているらしい。
「おや、これは珍しい」
鍛錬をしていたのは一刀だった。しかし彼に遠くまで響かせる轟音を生み出せるはずはなく、相手は楽進だった。地面に空いた穴を見る限り、轟音の正体は彼女の気弾のようだ。
「な、凪! ちょっと休憩しよう! ガイウスも来たことだしさ」
「……隊長。凱烏殿を口実にするのはどうかと」
「でも凪の攻撃は春蘭より的確すぎて俺にはまだキツいんだって!」
相変わらず武を鍛えることは苦手らしいが、どうも様子が異なる。いつも鬱憤を晴らす名目で彼を鍛錬に付き合わせる夏侯惇が相手ではないことから、無理やりというわけではなさそうだ。
不思議な光景に目を丸くしているガイウスのもとに、身体を重そうに引きずりながら一刀がらやってきた。楽進は涼しそうな顔で後ろをついてくる。
「ようやく帰ってきたんだな」
「はい。報告を終えたのでまた雍州に戻りますが……それよりも一刀は何を?」
「ああ、実は合肥で蜀の武将に追いかけられてさ。いつも春蘭に追いかけられてたのが役に立ったから凪に少し鍛えてもらってたんだ」
これにはガイウスも驚いた。この地の武将は人をばったばったと薙ぎ倒す怪物である。それと相対して文官の一刀が生き残ったのは幸運としか言えない。
「まぁ相手が春蘭以上の猪で攻撃が大ぶりだったからなんだけどさ。それで凪に手加減してもらって少し速い攻撃からも逃げられるように特訓してたんだ」
「隊長がやる気を出してくれて嬉しいです。……休憩が多いのは真桜や沙和と同じですが」
楽進は警邏を行っているはずの友人を思い描いた。どうせ二人とも監視の目がないことをいいことに悠々自適に過ごしているのだろう。後で詰め所に寄って勤務態度の確認をしなければならないことに頭が痛くなる。
一刀もそれに思い至ったようで、「あの二人と同列に扱ってもらっては困る」と口をとがらせた。
「では鍛錬の再開を」
「すみません調子に乗りました! もう少し休ませて」
曹操という優れた頭を持つこの国ではトップダウンの指示系統が基本だ。中には夏侯惇や曹仁のような例外もあるが、これでは楽進が主のようだとガイウスは笑う。
「そういえば風が雍州では人材登用をしているって言ってたけど、見つかったのか?」
「間もなく私と凛殿が離れても良い程の人物が」
ガイウスは楊沛や閻温の名を挙げ、さらにそれらを統括する張既や杜畿の名を挙げたが一刀はピンとは来なかった。しかし旧知の成公英に会ったという話にはおっと思った。彼の三国志の知識では魏領の西涼といえば蜀は姜維に馬謖、魏は司馬懿、張郃、鄧艾くらいしか覚えていなかったからだ。しかし実際にガイウスたちが登用した中には対北伐で活躍した人物もいる。
「俺には人の善し悪しは分かんないなぁ」
「隊長は妙な妖術で女性を引き寄せるだけですからね」
「ははは。たしかに」
部下の三人のみならず、城内の女性複数と関わりがあるともっぱらの噂だ。
「ガイウスも否定してよ!」
彼の軍師の程昱を毒牙にかけたら笑って済まされていないことを一刀は安堵すべきだろう。
「それで、合肥ではいかに呉の大軍を退けたのですか?」
「うん。それが最初は酷いものだった。俺は御使いの知識に翻弄されていたし、霞は死に場所を求めていたから手に負えなくて……」
武人というのは難儀な生き物だとガイウスは思う。戦場にこそ生きがいを感じ、戦場で散ることを美徳とする。崇拝する主のいる夏侯姉妹ならともかく、本来の主を一度失った張遼は何が何でも主人の元に戻る意欲が薄い。
「そしたら風が変なことを始めたんだ。これが彼女の計略だと気づいたのはほとんど最後のことだったよ。こちらに余裕があるようにみせかけて、逆に霞に敵陣を散発的に攻撃させる。相手は随分警戒してたみたいだ」
「なるほど。有利な状況を作り出すのは兵法の常道。風殿の鬼才は将兵の心を巧みに操ったところですね」
ガイウスは自らの軍師の活躍を聞いて大いに喜んだ。今回は張遼という超一流の武将がいたから大胆な策を使えた。自らも彼女に万全の策を揮わせることができるだろうか。否、やらねばならない。
彼は二人に礼を言うと再び城内へと戻った。
***
再び鍛錬に戻った一刀たちを後にして、ガイウスは再び城内を闊歩していた。次第に楽進の目が鋭くなっていたが、気にしてはいけない。
合肥のことは聞けたので、今度は中原や河北のことを知っておきたい。おそらく程昱が全てを把握しているのだろう。しかし何も知らないのは大将としてあるまじき姿だ。
ガイウスが向かったのは陳留の全てを把握している荀彧の執務室である。かつては険悪だったがノックをして名乗ると彼女から入るようにと返答ガすぐにあった。
戸を開けると中には思わぬ来客がいた。冀州牧の陳珪に金庫番の曹洪が荀彧の机を囲んで茶を嗜んでいる。
「呼ぶ手間が省けたわね。ちょうど今領内の慰撫の進捗と新法への適応、そして財政について話を聞いていたの。西涼についても聞かせなさい」
荀彧に問われても、政はほとんど郭嘉と張既に任せている。ガイウスに話せたのは豪族を説き伏せて現地の有望な人材を登用したということだった。
「張既に杜畿は聞いたことがあるわね。中原以西の整理によって雍州にいたのね。でも他の奴らは大丈夫なんでしょうね。華琳様の臣に相応しくない小物だったら承知しないわよ」
「みな馬孟起の誘いに乗らず首を狙っていた者たちです。西涼の安寧は如何にして成るかが見えています」
「そう。ならいいわ」
つん、と鼻息荒く胸を張る荀彧に陳珪がくすりと笑みをこぼした。荀彧は彼女を睨みはしたが何も言わない。こういうときに限って老獪な話術でやり込められたことは何度もあったからだ。
「河北は如何でしたか?」
場の空気を変えようとガイウスが新たな話題をふる。同じ州牧となった陳珪の働きは気にもなっていた。
「やはり一度鎮圧したとはいえ残党が各所で現れました。これを討伐するための糧食の工面が大変で……栄華様には苦労をかけました」
「もともと最初の制圧は喜雨の農政改革によるものが大きかったのはご存知ですね? ですが冀州はさきの黄巾の乱で農村が壊滅的でしたので、現地調達はできませんでしたわ」
さらに袁紹の親戚たちが河北を守ろうと防衛戦を行ったため、僅かな食糧も城へと運ばれていた。
そこで荀彧は青州と徐州の土地を整理し、劉備とともに逃げた民が所有していた土地と引き換えに糧食を都合。黒山賊や反乱を起こした高幹らを撃破し、幽州に逃げた袁家の者を破って完全な平定を遂げた。
現在は陳登に冀州での農業を見てもらいながら、烏桓族に備えて軍屯を行っているという。しかし荒廃した土地が再び豊かになるまでには時間を要する。
「しばらくは大規模な軍事行動を控えてほしいのですが、お姉様のことだから無駄ですわよね……」
曹洪がため息を吐く。先ごろまで劉備と孫策はそれぞれに漢中と合肥で北上の姿勢を見せている。曹操軍はこれを退けたが、彼らが再び軍備を整えるために時間を置くとは考えづらい。両陣営とも兵糧に余裕はないだろう。しかし時間は国土の大きな曹操に最も味方するからだ。
「西域からの買付は極力食糧を優先させましょう」
「頼みますわね」
とりあえずガイウスに出来ることはその程度だった。
***
陳留での報告を終え、十分な休息をとったガイウスは一週間も経たずして雍州に帰還することとなった。
往路と異なるのは長安で装備を生産するための李典お手製の最新式の釜や治具を積んだ積み荷がある。しかし最も変わったのは人員だ。
「お兄さんお兄さん。少し離れていましたが風のことが恋しくて涙で枕を濡らしていましたか?」
「涙はしませんてましたが想いは馳せていました」
「おおう……! 思わぬ切り返しに風のほうが照れてしまいました」
一人はガイウスの軍師程昱。奇策を得意とするため合肥に貸し出されていたが、無事ガイウスの下につけられた。
そしてもう一人、徐晃が雍州に加わった。
「張翼徳が攻めて来ても守ってあげる」
「頼もしいです」
「あと漢中周辺は山が多いから雲のことも知りたい」
「空を飛ぶ計画ですね。承知しました」
ガイウスと徐晃は袁紹との戦い以来だ。曹操と夏侯姉妹、一刀と三羽烏のような明確な武官がいないガイウスにとっては彼女が最も馴染みのある武将だ。
「まずは長安で凛ちゃんと交代して、それから涼州に向かうんですよね?」
「はい。まだ栄華殿から食糧の買付を頼まれていますが、西域の民から最も信頼されているのは未だ私ですから直接顔を出さないといけません」
「州牧なのに……」
徐晃がぼやく。しかし魏の重鎮たちはフットワークが軽い。冀州牧の陳珪はかつて沛国を預かっていたとき、曹操を見極めるために自ら動くこともあった。総大将である曹操はどんは戦でも必要とあらば先陣を切る。
ここはそういう国なのだ。
***
郭嘉を陳留に返すと、程昱は小一時間ほど張既や杜畿といった高級官僚と話をしていた。そうかと思ったら、補給を済ませたガイウスの馬の脇にちょこんと立っている。
「風さん?」
「おや? お兄さんはもしかして風を置いていくつもりだったんですか? おおぅ。なんて薄情な……」
とんだ大根芝居だ。扇の上からちらりとこちらを見ては反応を待つ程昱を見て、ガイウスは同じく準備を終えた護衛の徐晃に救いの視線を送る。
「……?」
それが通じていないことを確認したところに、追い打ちとばかりに程昱はよよよと嘘泣きをもらした。
「凱烏様、風様を泣かした?」
「違います! ほら、二人とも早く出立しますよ」
ガイウスは観念して、徐晃の視線から逃げるように程昱の脇を抱えて馬の背に乗せた。それからその後ろに自ら跨り手綱を握る。
その腕の中で程昱は背をガイウスに預けると誰にも気づかれないようにこりと笑った。
それから途中で何度か休憩を取りながら、三人は敦煌へと向かった。この辺りまでくると馬超派――あるいは韓遂派の多い地域ではあるが、交易相手の安全を図る西域人たちによって無事に目的地に辿り着くことができた。
「ふむ。利によって戦を牽制するのは孫子の教えですね? お兄さんも随分お勉強を頑張ったようですねー」
「いえ、偶然です」
「こういうときは嘘でも肯定しておくものですよ。でもそういうところがお兄さんの美徳ですからそのままでいてくださいね?」
途中いくつかの都市で休息を取りながら、三人は敦煌に到着した。最初は馬二頭に三人だったが、今や二台の大型の馬車と大量の人足が付き従っている。これは事前に通達していたものを各拠点で集めて行ったものだ。
敦煌を越えた陽関まで着くと、すでに彼らは天幕を張って待っていたようだった。
「西雍州牧である」
兵の一人が声を上げる。するとひと際立派な天幕から年かさの女が一人と兵が二人姿を見せた。楼国の長である。
ガイウスはその姿を認めると下馬し、程昱へと手を伸ばした。徐晃もそれに倣って馬を降りる。三人と三人はそれぞれの集団の中間あたりまで進む。
「賭けは儂の負けか」
「我が主は即断即決のお人と申し上げたでしょう」
「ふむ。たしかに乱世で最も勢いのある人物というものを侮っていた。非礼を詫びよう」
前回ガイウスが楼国で商いをし、交易のやりとりをしたのがこの人物だ。二つの条件をつきつけたが、まさか一月も経たぬうちに戻ってくるとは思いもしない。ガイウスの背後にある荷駄と彼の堂々とした佇まいから、その条件が呑まれたことは容易に察せられる。
「では先日の続きを話しましょう。まず後ろにいる人足は陽関の整備とその後に常駐する兵を担います。危急の際は彼らが匈奴と戦います」
「ほう」
「騎兵としての訓練はしていますが、馬はそちらで用意してください。漢人が彼らと戦うには質の良い馬が必要なのはご存じのはず」
「定住せぬ奴らは常に馬と共にあるからな」
西域の住民も高原に住み、その豊かな牧草から馬を育ててきた。幼少の頃から馬に触れているという点では漢民族より優れている。しかし定住した彼らより移動して暮らす匈奴は他の集団との衝突や食料の確保のための略奪のために馬を用いた戦を日常的に行っている。ガイウスや楼国の首長の懸念は最もである。
したがって、農業に向いた漢の豊富な人と優れた西域の馬を併せて対処することは両者異議はない。
陽関はいわゆる関所であり、手続きを行う場だった。防衛拠点としてはさほど優れていない。これは漢の最大の敵が匈奴であり、長城が防衛の要だったからだ。
かつて陽関の周囲には西域の民と漢人両方の市が開かれていた。商人たちはそこで各々商いをして国内に品を持ち込んだ。ガイウスたちはその復活を考えている。
「兵の差配は酒泉出身の者をつけます。市の手配はかつて交易に携わっていた一族をあてがいましょう」
「うむ。こちらもかつて交易に参加しておった一族がおる。此度の話にも随分乗り気じゃから適任じゃろう」
「では証書を作成しましょう。あと、後ろの荷駄を検分してもらいたい。あなたのことだから馬を用意しているのでしょう? 交換といきましょう」
「お主は話が早くて助かる」
馬車の中身は多くが紙と絹だ。西域での需要はさほどではないが、これらを西へと運ぶことで利益を得られる。食物に関しては曹操の治める領土が中華の北側ということもありあまり変わりはない。先日防衛した合肥がある揚州の最北部や北部荊州はまだ人心の掌握の最中で農業にまで手が回っていない。曹操軍の糧食はほとんどが河北で生産されたものだ。
長の天幕で契約を交わした後、正式な交易が始まった。本来は商人同士でやり取りされるが、今回は交易再開を祝してガイウスの名の下で行われる。もちろん実際は官吏たちの出入り業者が交渉を行う。
「なにぶん想定外の速さじゃったのでな。貴霜へやった商隊は間に合わんかった。ここにあるのはうちの織物と家畜くらいじゃ」
「次回に期待しましょう。家畜はすべて買います。なにぶん戦続きでして。次回は乾果や米などを貴霜より取り寄せてもらえますか?」
「それくらいなら安く調達できるじゃろう」
曹洪から頼まれていた糧食問題を依頼したが、はたして次の交易までに曹操が戦を展開しない自信はガイウスにはなかった。
「おお、馬の乗り心地はどうじゃった?」
「素晴らしい、と乗ったものたちは申しています。今実用化されているのは伝令ですが長く速く走れます」
「ふふん。あれらがあるからこそ我らは土地を守れておる」
これは馬のセールストークだ。ガイウスが最も求めているものを的確に見抜いている。
程昱が腰のあたりを引くので、ガイウスははっとして商人を呼んで交渉を代行させた。西域は商業で栄えてきたのだから、その街の一つを担う長ともあれば素人のガイウスでは損をするに違いない。
商人の言動は程昱に任せ、ガイウスは「そうせよ」というだけに留めた。
***
交易の帰路、往路とは異なり好きな行程を選べるとあってガイウスは再び寄り道をしたいと程昱に相談した。張掖郡を抜けるまでは非漢族が多く危険もあることから武威郡に入ってからという条件を飲むと彼は進路を北にとった。
一度ガイウスは涼州の豪族を巡ってはいる。しかし涼州の人口は郡によって大きな開きがある。州を統治する州治所が置かれていた漢陽郡は全体の三割もの人口を占めている。
ついで二割の人口を占める武都郡は、異民族の多い土地だ。名馬や牛などが豊富で麻も潤沢にとれたことから従事するものが多かったのだろう。
残る郡は一割未満で、ガイウスが説得にあたったのは先に挙げた二郡と馬騰の拠点であった武威郡がほとんどだった。
西域までの道中、ガイウスをはじめ同行した将兵は中原や雍州との違いに大きく驚いていた。まさに西涼は漢の領土にあって漢ではない土地だった。
中原の都市は城壁の外にあっても住居が立ち並び、田畑が広がっている。街道には邑があり、農民が暮らしている。一方西涼は麦畑が都市の外域を覆っているが、その外側には自然豊かな草原が広がっている。邑では馬が育てられ、草原に放牧されている姿が見られる。
さて、ガイウスが今目指しているのは武威郡北部にあるオアシスだ。彼の目的は長城だった。彼が知ることではないが、ローマ帝国でも二人の皇帝によって長城が築かれる。本土とは遠く離れた僻地の防衛には必須だったのだろう。長く北方民族と争ってきた大陸の国家にとっていかに損害を少なくするかは重要な課題だった。しかし今、その機能は大部分が失われている。
ガイウスたちが訪れたオアシスにある街。本来ならば恵まれた立地により畜産や農業で栄えていてもおかしくないそこは、住居は荒れ果て住民は疲れた表情をしている。
「長城は王莽の乱以降放置されていますからね。国境に近いここは度々匈奴の襲撃を受けているのかとー」
長城といっても元は土塁だ。適切なメンテナンスを続けなければ壁は脆くなり、自然に穴も生まれる。韓遂や馬騰は国境の現状を理解していただろう。しかし改善するための資金も軍も十全ではなかった。
「他の国境地帯も同じ状況ですか?」
「概ね似たりよったりですね」
ガイウスは国境付近に住む少年だった。だからこそ奴隷狩りに遭い、今漢にいる。
(しかし私は今雍州牧だ。華琳様には漢中への支援を命じられているが、安定した統治と州民の慰撫もまた私の役目)
「風さん。私の我儘を聞いていただけますか?」
「お誘いはもっと甘い空気で……というのは置いといて、長城の補修なら領内に限ればなんとかー」
「いえ、私の頼みはもっと困難です」
程昱の予想を上回る提案があるというガイウスに、彼女は彼の隣で眠たげな目を密かに開いた。
「奴婢を西域から買いたいのです。彼らに修復作業を任せる一方で、予備軍としての訓練を課します。対価として土地を与えましょう。さきの反乱や戦で減った人を増やし作物も賄いましょう」
「むむむー。これは栄華ちゃんが怒りそうな提案ですね。予備軍というのは大秦の制度ですか?」
「はい。屯田兵に相当します」
実際には西域で扱っている奴婢には遊牧民もいるから難しい面もある。しかし極北でなら馬はよく育つだろう。上手く住み分ければ良馬の国内生産もできるかもしれない。あるいは――。
「凱烏様は同じ奴婢になった人を助けたい?」
隣で話を聞いていた徐晃にガイウスの鉄仮面はびくともしない。しかし人の心に敏感な馬が地面をかいて尾を振り乱した。
「別に私情が混じっていても成果が見込められるなは華琳様は無碍にしませんよ。怒られたら風が慰めてあげましょう」
「……お願いします」
この軍師に虚勢は通じない。ガイウスは大人しく白旗を挙げた。
そうして国境の現状を視察した帰りのことである。近隣の邑で一泊がてら夕食を取っていると、一人の女人が酒瓶を片手にガイウスの傍らに立った。
「州牧様と存じ上げます。私邑長の使いのものです。ぜひお耳に入れたき事がありますゆえ、一度邑長の宅にお越しいただきたく」
それだけ言うと女人は去っていった。念の為酒を下げさせたガイウスは程昱の顔を見た。
ガイウスとしては賄賂、推挙、援助、騙し討ちなどの可能性がありそうだと考えている。非公式な接触なため推挙や援助は考えづらい。何も聞かなかったことにするのもアリだろう。
「お兄さんの懸念はもっともですがー、虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言います。なによりこちらには香風ちゃんがいますから」
「ん。任せて」
山積みになった空き皿の向こうで徐晃がむふーと鼻息を鳴らした。少なくとも十全に力は発揮できそうだった。
***
一度宿に帰った三人は思い思いのときを過ごした。程昱は部屋に籠もってこれからのシミュレーションを行い、徐晃は武器の手入れを入念に行っている。
ガイウスもまた剣の手入れを行いながら、成政者としての考えを纏めていた。程昱に頼んだ奴婢による屯田兵が成れば、劉玄徳討伐に全力を注げる。しかしこの村が曹操と馬孟起のどちらに組みしているかによって前提は大きく変わる。もしも馬孟起派だった場合、それはどこまで浸透しているのか。どの程度の処罰が必要なのか。最悪村一つを潰さなくてはならない。ガイウスは静かに来訪者を待った。
陽が落ち、邑民が眠りについた頃に老婆が一人宿に訪れた。護衛はない。ガイウスは程昱と徐晃を伴い、少し離れて目立たぬ格好をした兵をつけさせて老婆の先導に従った。
邑長の邸宅は邑の中心にある。大きな広間は集会所を兼ねていて、その周囲をぐるりと建物が並んでいる。一行は北門から入り、建物の中でも一際広いところに通れた。普段は邑の権力者が集会の際に座すところであり、宴会では客をもてなす重要な場所だ。
座敷は四方が閉じられており、燭台の灯りで薄ぼんやりと各々の顔が判別できる程度だ。
老婆の侍女が数少ない出入り口から現れる。すっと老婆の側に侍るとその耳に何某かを囁いた。
「兵が十二。うち六名はこの屋敷のそばで斧を持って潜んでおられる。四名は門を固め、二名は高所で弓矢の準備をなされておられる」
「……」
「気を悪くせんでくれ。国境が近いと物騒な気配には敏感になるものよ」
老婆は笑顔を絶やさずにほほほと笑った。
「風たちの戦力と対応を見ていたわけですねー。ではでは、それはお眼鏡に叶いましたか?」
老婆の笑みが固まる。
「邑長さんは荒涼した西涼の中でもさらに隔たれた邑は単独では守りきれないと考えてます。国境の街は備えも十分でしたが、迂回されてこの邑を襲う懸念は捨てきれません。さて、ではこの邑は誰を頼りにすべきでしょうか。お兄さん、いかがですか〜?」
「まず匈奴はもっとも信用できません。劉玄徳は義に厚く孫仲謀は曹孟徳様の牙城を崩すためなら喜んで手を貸すでしょう。しかし貴殿らにとって必要なのは危急の際の援軍。ならば我らが主をおいてほかならないでしょう」
ガイウスの言は正論だ。しかし程昱は軍師である。わざわざ彼の考えを確認したことには意味がある、
「ですが彼らはお兄さんたちの実力と性格を図ろうとしましたね。これは比べる相手がいるという証。ここ西涼で軍備を集められるのはもう一人います。反曹家統治の方々とそれを動かせる馬孟起。違いますか?」
一通りの推論を述べた程昱は飴細工を口に含んだ。これ以上語ることはなく、あとはガイウスの仕事だと原外に伝えているのだ。
「貴殿らは馬孟起と繋がっているのか」
ガイウスの地から響くかのような低い声は、普段の彼を知る者にとって驚くほど冷たいものだった。
長身で彫りの深いガイウスは容姿だけでも恐ろしいものがある。邑長はしばしの沈黙の後、重い口を開いた。
「決してご想像なされているようなものではありません。先ごろ馬家の方がいらっしゃって、いずれ起こる蜂起に参加するよう要請があったのです。参加した暁には国境の街の県長を約束されました」
馬超が西涼の豪族を訪ねて回っているのは周知のことだ。しかし予想以上に広範囲で行われている。郭嘉は劉備傘下に加わるにあたり戦力を示すための兵を募っているのだと考えていた。
しかし西涼での反乱が目的であれば話は異なる。兵力は劣っていても各地で反乱が起こればこちらも兵を割かずにはいられない。その隙に本丸を叩く心づもりなのだろう。
「さて、お兄さんならこの状況を如何に覆しますか?」
「この邑に兵を常駐させるのは非効率です。ならば近隣の都市から迅速に援軍を送れる体制と速やかな敵の侵入の察知が要でしょう。すなわち、私は西涼への大規模な道路網の敷設を提案します。これは馬孟起の企てる大規模反乱にも有効となり得るでしょう」
これはローマがモデルとなっている。彼らが戦に強かったのは補給線や援軍が迅速に届けられたためであり、その要が舗装された道路だった。
「これには利点がまだありますねー。交易の活発化や農作物に乏しい西涼への輸送を解決します。問題は敵軍にも利用されてしまうことと費用や人足。なにより一朝一夕とはいかないことですが……」
「敵の電撃作戦は脅威ですが、都市の守りさえ十分なら迅速な援軍による挟撃が可能です。補給線の寸断も有効でしょう。人足は先の戦で生業を失った人を雇いましょう。費用は商人から集い、関税を用いるとして、あとは栄華様にご理解いただきましょうか」
邑長そっちのけで議論を始めた二人。邑長や侍女は困惑を隠しきれずに残る徐晃に助けを求める視線を送る。
「気にしなくていい」
「しかし我々は馬家の話を報告しなかった咎があるのでは……」
信賞必罰で有名な曹操の騎都尉時代のエピソードは西涼でも有名なようで、彼女たちはいかに処罰の対象を減じてもらうかを考え始めていた。
「華琳様は汚名返上の機会を与えてくれる度量があるよ。それに凱烏様たちの話を聞いてたら西涼の人口は減らさないからたぶん大丈夫」
さすが洛陽で官僚を務めていただけはある。彼女は邑長をなだめながらガイウスたちの話も理解していた。
いずれ三度目の馬超との戦がある。曹操は陳留で全体を俯瞰し、張遼たちは濡須口での孫呉の監視を欠かすことができない。援軍の見込めない州牧ガイウスの手腕が始まろうとしていた。