獅子たちのいる国へ。
重苦しい空気が一刀の肩にのしかかっている。
城内の兵に声をかけられてやってきた謁見の間、主に君主たる曹操が臣下から重要な報告を聞いたり命令を下す際に使われる。ここに呼ばれたというだけでも重要な案件だということはわかる。さらに集まっている面々が荀彧に郭嘉、夏侯惇、夏侯淵という魏の重臣ばかりなのだ。
「それで?」
短いながらも圧倒的な覇気をまとった声が場に静かに降りた。
「恐れながら……やはり呉は合肥攻略を一時中止し、長沙へと狙いをつけた模様です。その長沙はご存じの通り劉備の支配下にあります。ゆえに――」
「私を差し置いて戦争をしようというのね。愚かな劉玄徳と孫伯符は」
言葉を遮られた郭嘉はびくりと背を震わせて一歩退いた。同時に荀彧が羨ましそうな目で見ていたが、一刀はそれは見ない振りした。
「華琳様! ならば私たちもその戦争に加わってはいかがでしょう!」
夏侯惇は戦の気配に生き生きとしている。一刀は全く性質の異なる彼女にため息の一つもつきたくなった。
「駄目よ。魏と蜀、魏と呉。私と劉玄徳、私と孫伯符は同等?」
「そんなわけありません!」
「そうよね。私は覇王曹孟徳。ならばそんな小競り合いに付き合ってはいけないわ。分かった?」
小声で同意しながら夏侯惇が子犬のような情けなさを見せて下がる。夏侯淵が慌てているが他人事だ。
「一刀。あなたからの報告をなさい」
「わかった。軍船の件だな」
ガイウスを主導として動いている水軍強化班は、スクリューを検討していた頃とは打って変わって好調といえる。ガイウスの草案から生まれた新型の軍船は李典が設計し、建造まで至った。今は水上で微調整をしているところだ。同時に程昱が調練の準備を進めている。
「そう。それは重々ね――ところで凱羽の様子はどう?」
「え? 元気だけど。あ、でも最近は調練計画のほうにも精力的だしちょっと働きすぎかも?」
「……自愛なさいと伝えておいてちょうだい」
なんだろう。一刀は今一瞬だけ軽くなった曹操の圧を不思議に思った。
「では今後の方針を告げるわ。私たちは速やかに烏林に移動し陣を築く。呉と蜀に我々の存在を今一度思い出させましょう」
これから忙しくなる。ガイウスへ今回の報告をしに行こうと駆け出しながら、一刀は迫りくる大戦、赤壁の戦いへ背筋を流れる汗を感じていた。
***
建業の城で確実に領内の異民族たちを鎮圧し、西へと勢力を広げていたことに満足していた孫策は、その知らせに不満げな声をこぼした。
報せを持ってきたのは断金の誓いを交わした友であり臣下の周瑜である。
「それ本当に言ってるの? 劉玄徳が長沙を支配した? 蜀の山中に籠ってたんじゃなかったの?」
「いつの話だ……。漢中を魏に取られた以上、南蛮か荊州にしかやつらの行く道はないだろう」
「うーん。それもそっか」
しかし長沙というのがよくない。漢水と長江によって北と隔てられた南荊州の四州のうち、長沙郡は最も呉の領地に近い。これから荊州全土を獲ろうというときにこれはよくない。そもそも長沙は母孫堅ゆかりの土地だ。
周瑜としても魏へ攻めるためには夏口に加えて江陵も欲していた。その足掛かりになるのが長沙である。南荊州四郡を手中にして後輩の憂いを絶ち、江陵を攻略。その後襄陽を攻める。合肥との二方面作戦も使える。
「それじゃあ長沙の民には思い出してもらおっか。孫家の存在をね」
その孫策の命令からわずか一日。江夏に駐留していた水軍が長江を遡り、洞庭湖に到達。南岸に停泊した軍から兵たちが続々と大地に降り立ち、瞬く間に陣を築いた。
「長沙を不当に占拠したる者および愛すべき長沙の民に次ぐ。長沙は我れらが先代孫文台が帝から直々に賜った領地である。亡き袁公路の策略によって一時この地を離れずにはいられなかったが、今力を取り戻した主君孫伯符の命によってこの地に安息をもたらしに来た。疾く城門したまえ」
孫家重鎮、程普の言葉である。女一人から出たのかと疑うほどの怒声が長沙の街に響き渡った。そしてそれは街を任されていた関羽の耳にもすぐに届く。
「なに!? ここは紫苑(黄忠)が信頼を経て統治を任せてもらった街だぞ!?」
瞬く間に沸点に到達した彼女は、慌てる兵を振りほどいて城門へ向かう。残った兵も急いで彼女の元に向かう。もちろん同行するためではなく制止するためだ。もしも彼女が刃を振るってしまったら、それは開戦の合図になる。
当然ながら関羽のこうした性質を知っている劉備と諸葛亮は彼女に補佐をつけていた。
「ま、待ってくだしゃい。愛紗さん! せめて軍師の私に考えるじ、時間をくださいっ」
兵に背負われて息も絶え絶えにやってきた龐統の言葉にはさすがの関羽も一度立ち止まった。
「何を考えるというのだ、雛里」
「これは既に戦です。舌戦です。したがって策が必要でしゅ。あわわ、また嚙んじゃった」
「……それは道理だな。しかしそれならば私が呉の前に出てここは紫苑の徳と功を伝えて正当性を伝えればよいのではないか?」
「あぅ」
関羽は大真面目にそれで呉は退くと思っていた。もしも渋るようなら決闘の一つでも仕掛けてやればいい。大儀と力を示せば勇士集う呉なら理解を得られるだろうと。
もちろん呉にその気はない。長沙を奪取することは当然の一手なのだから、関羽が歯向かえば戦争を行うのは当然の理だ。龐統はそれを理解していたから関羽を止めたのだ。
戦争だけは回避しなければならない。諸葛亮と考えた秘策、天下三分の計を完遂するためには呉も蜀も疲弊してはならず魏を削がなければならないのだ。
「で、では桃香様に誓ってください」
「内容によるが……」
「決して城門の外には出ず、城内から姿を見せて舌戦を挑む。必ず外には出ない! でしゅ!」
今までに見たことのない龐統の気迫に関羽がたじろいだ。しかし内容は簡単で用は敵と接触しなければいいだけで、やはり劉備と黄忠の徳と功を論じればいいだけなのだ。
「いいだろう。雛里、それならば桃香様に誓おう。では行ってもいいな?」
「はい……大丈夫かなぁ」
一方程普は悠々と長沙を前にして酒を飲み、相手の反応を待っていた。さて、今城内にはどのような将が詰めているのやら。黄忠や厳顔といった老兵であればなかなかに愉快なのだが。そんなことを思いながら盃の中で酒を転がしていると、城壁から誰ぞの姿が現れた。
絹の如き黒い髪。鋭く吊り上がった眼。そして龍の意匠の偃月刀。間違いなく関羽の姿である。
「小娘か……」
関羽には聞こえない声量で程普は呟いた。
「聞けぃ。孫家の将兵たちよ。この地は孫文台殿が去った後、長く黄漢升が平和をもたらしていた。そして愚かな劉景升に追いやられた後も彼女はこの地を案じ続け、我が主君に請い願いようやくこの地に再び帰ってきた。民草の安堵はいかほどのものか! この劉玄徳と黄漢升の徳と功にはさすがに孫伯符どのも母君の縁と言えども口を出すことは憚られよう!」
上手いことを言う。力だけでのし上がった猪武者かと思えば存外に頭も回る、と程普は盃を懐に仕舞いこんで関羽の目を睨みつけた。
「天下の趨勢も分からんような者ほど徳などというものに頼るのだ。まずは義を以って長沙を孫伯符に明け渡し、信を以ってそなたらはそなたらの民草に仁を施せ。我々はこの都市が欲しいのではない。孫呉の民が案ずるところなく暮らせる世のための一手としてここにいるのだ。長沙の民ももちろん孫呉の民として存分に豊かに暮らせるよう我が君主とその妹君たちが尽くすだろう。それが分からんのならば、次はこれらの船がちっぽけに思えるほどの大軍を寄越してやろう!」
勝ち戦のつもりで挑んでいた関羽は、そのあまりの暴虐な演説に絶句した。あろうことか相手は劉備の第一の臣下である自分に五常を説いてきたのだ。徳深い劉備を敬愛する彼女は、その言葉が自らを通して劉備に向いていることを理解して抑えきれない怒りに支配された。
「あぁ……まずいです。あわわ、どうしよう朱里ちゃん……」
城壁の下で見守る龐統の視界から関羽の姿が消える。関羽は城壁を飛び降りて程普にまっすぐに突っ込んでしまっていた。
「きさまぁぁああ!! 桃香様を侮辱したなぁあ!!」
「ふん、面白くなってきたわ」
風を切って青龍偃月刀が振るわれる。狙いは程普の首。だが程普とて孫堅の時代から戦い抜いてきた猛者だ。背後にあった槍を剛腕を以って振るい、巨大な刃を自らの首元に添えて関羽の一撃をびくともせずに防いで見せた。
「これは宣戦布告とみなしてよいな?」
「うるさいっ!」
「はははっ。皆の者、撤収だ。目的は果たしたゆえな」
激高したまま偃月刀を振るう関羽を程普は兵に指示を出しながら凌いでみせた。いや、それも彼女の本気ではない。関羽が呼吸をする間を見計らって、ぐっと脇を捻って溜めた力を解放した。
「これでも食らって説教の一つでも受けてこい!!」
不意を受けた関羽は偃月刀の柄の部分でなんとかその一撃を防ぐことが精いっぱいだった。脚に力が不足していたため、関羽は後方に一気に滑り城門まで後わずかというというところまで後退させられた。
「ではさらばだ、小娘。また会いに来るぞ」
慣れた手つきで兵士たちが船を操り、程普の姿はあっという間に遠ざかっていった。
関羽であれば追いつけただろう。しかし船に飛び乗ったところでどうすればよいのか見当もつかない。これが一武将関雲長の限界なのだろう。
「雛里に謝らなければ、な」
***
「誰に行ってもらおうかしらねー」
玉座の間で足を組み、酒を飲みながら孫策が品定めをする。そこに集った重鎮たちはその光景には慣れたものだが、その中でも孫権は姉の醜態に苛立っていた。
「まぁ私は当然だろう? 蜀も関雲長一人だけには任せまい。あと数人手勢がほしいな」
「まぁ粋怜はそうよね。じゃあ……亞莎と穏にも行ってもらおうかしら? あと私」
「お前はここにいろ」
周瑜のにべもない否定で孫策の参戦は却下された。
特に怒りもしないのは想定済みだったということだろう。孫策は続いてうーん、と声を上げた。
「じゃあ梨晏か祭が行く?」
「あ、私行きたい! 行きたいでーす!」
ぴょんぴょこと跳ねて主張したことで最後の一人は太史慈となった。槍の名手が二人に軍師の陸遜。そして今まさに智を磨いている呂蒙ならば心配ないだろう。軍船は周瑜と陸遜がうまい具合に手配してくれるはずだ、と万事順調に事が済んだと再び孫策は酒を浴び始める。
「あ、蓮華。長沙が落ちたら南荊州はあなたに制圧を任せるわ」
孫権は無言で頷く。そのまま部屋を去ろうとした彼女に特に疑問を抱くことなく、孫策は酒を飲んでは周瑜と張昭に怒られるのだった。
「このままじゃ……」
自室へと急ぎながら、孫権の口からは否応にも先ほどの軍議の不満が漏れ出た。
「魏は危険なのよ。隙を見せたらどうなるか姉様は分かってないんだわ」
魏が危険だということは臣下を含めて共通の認識だろう。しかし孫策を含めた大部分はその国土と兵数に危険性を抱いている。一方で孫権は人に危機感を抱いているのだ。
一騎当千の将である張遼。彼女クラスの人材はおそらく他にもいるだろう。それにこちらの虚を突く、正しくは虚を作り出した策士の存在。さらにはあの不思議な青年、北郷一刀。彼には将としての強さも軍師のような智謀も感じなかったが、何か不思議な魅力のようなものを感じた。
こんな人材が魏には大勢眠っているのだろう。いや、私たち呉の人間が知らぬところで働き、魏という国を巨大にしているのだ。
「劉玄徳なんかと争っている場合じゃないのよ。江夏からでもすぐに江陵を得て守りを強くしないといけない。そうに違いないわ」
「そうなの?」
自室の扉を開いた孫権の耳に、幼い呟きが届いた。
「あ……シャ、シャオ?」
ちょうど扉の陰に孫尚香がいた。孫権は集中しきっていたし、孫尚香は背も低い。それゆえの出会いだった。
「戦っちゃダメなの? 魏に負けちゃうの?」
「いや、えっと……それはそうなのだけれど、姉様の命令に反するのはよくないから……」
「えー? でも負けるって思うならよくないってシャオは思うなぁ」
孫権に孫尚香を否定はできない。自分だって否定したいのだ。しかし姉を継ぐ立場はその一歩を縛っている。一方、末妹にそれはなかった。
「じゃあシャオが説得してきてあげるよ。待っててね!」
「あっ、ちょっと!?」
「行ってきまーす!」
風の如き速さで去ってしまった孫尚香。孫権はそれをどうすることもできずに、それともどうにかなればいいのにと無意識に願いながら自室に入って寝台に突っ伏した。
当の孫尚香は、まず第一に魯粛の元へ向かった。若くて話しやすいし、あまり孫策の言うことに絶対というわけでもなさそうだからだ。
「考えすぎじゃないですかねー? 包は荊州を完全に制圧してからでも大丈夫だって思いますけどー。あと上司に逆らうのはまずいので」
しかし彼女は基本的に楽観的なので魏は早々に攻めてこないと考えている。いくら大国でも二方面作戦は難しいだろうし、そもそも呂蒙が今回の任務に抜擢された時点で気分はちょっとナーバスなのだ。
がっかりした孫尚香は珍しくも張昭の下へ向かった。彼女はとても口うるさい。しかしだからこそ孫策の方針が間違いならそうだと言ってくれる気がしたのだ。
「まさか小蓮様がそのようなことを考えておられるとは……わしの聞き間違いか?」
「違うもん!」
「ふむ。たしかに王景興(王朗)との文からも人材の豊富さが窺える。衆寡敵せず。ここで兵を損耗するのは馬鹿らしいとはわしも思っておった。むしろ兵を増すために蜀から人材を得るくらいの気概でなくては――」
「蜀と仲良くなればいいんだ?」
そうは言ってないのだが、一度思い込んだら修正できないのが孫家の血筋だ。張昭が誤りを正そうと腰を上げたところで孫尚香はさっさと部屋を去ってしまった。小さな体躯の張昭はそれを追わずにどうせ孫策に進言して怒られるだけだろうと高をくくった。
しかし孫尚香の実行力はそんなものではない。なんと彼女は長沙へ赴く程普たちの船に密航していたのだった。小さな木箱が一つ増えたところで兵は誰も気が付かない。甘寧や周泰でもいれば気取られただろうが、彼女たちは孫権の下にいる。
さて、船団は再び長江を遡上して洞庭湖へたどり着いた。長沙側もさすがに無警戒というわけではない。物見櫓の兵がすぐに船団を発見し、新たに駐留していた兵を大量に将とともに城門付近に待機させた。同時に城壁には舌戦のために劉備が登る。いよいよ蜀側の準備は整った。
一方の程普たちも船を岸壁に接近させると素早く船を固定し、板を渡して次々と兵を上陸させる。もちろん一番槍は太史慈だ。
「今度は私が舌戦してもいいかなー?」
「ダメだ。若造は後ろで見ておれ」
程普の横で控えていた呂蒙は、太史慈の言葉に、密かに感嘆の息を漏らす。よくも自ら舌戦に志願できるなぁ、と尊敬の眼差しを太史慈に向けていたのだ。しかし、そんな彼女の背後で、ふと何かが飛び出す気配を感じた。
孫尚香である。彼女は木箱から勢いよく飛び出すと周囲を確認。長沙の城壁の上に人がいることに気づくとこれはあの舌戦に違いないと確信した。そう思ったのもつかの間のことで、彼女は素早く船から文字通り飛び降りて、程普より前に飛び出してしまった。
「劉玄徳さんはいますかー!? 孫尚香が来ましたー!」
***
(そ、孫尚香さん!?)
劉備はなんとか声になるのを我慢しながら驚きを露わにした。もしかしたら、いや間違いなく戦闘になるだろうと諸葛亮が助言していたのだ。大量の船、そして程普や太史慈たちのような武将が船から降りてくるのを見てこれはもう駄目だと思った矢先に彼女は現れた。それもずいぶん平和的に。
慌てて下にいる諸葛亮に合図を送る。わたわたと両手を振って、自分を指すジェスチャーと外を指さすのを繰り返して、どうにかこうにか自分には手に負えないことを諸葛亮に伝えた。
「これは……どうも相手も読めていなかったようです」
眼下で叱られている様子の孫尚香を即席の台に上って見て諸葛亮は判断した。
「相手は君主の妹君。どんな将より権力は絶大です。彼女を説得できれば戦闘を回避できるかもしれません」
「本当?」
「まずは桃香さまがいらっしゃることを伝えましょう」
なんだか舌戦らしくなくなってしまったけど、敵意をぶつけ合うのでなければそのほうが得意だ。劉備は少し気が楽になって眼前の兵から一人の少女に向かって声を発した。
「劉玄徳です! ここにいます!」
我らが幼姫が馬鹿な行動をした。そう思っていた呉の将兵たちは同じトーンで返事をしてきた劉備に呆気を取られた。そのため抑えてられていた肩の力が抜けたことで、彼女は再び前に進み出ることができた。
肩にかけられた手を払いのけ、すっと数歩前に出て手を高く掲げ、孫尚香が叫んだ。
「今日は劉玄徳さんにお願いがあってきました! 呉と仲良くしませんかー?」
「は、はい! 喜んで!」
劉備としては争いたくない一心だったので、相手から戦争はしないという提案があったのでうっかりそのまま受けてしまっただけであった。後ろで諸葛亮が頭を抱えた。
程普たちも頭を抱えた。長沙奪取のために戦争をしにきたというのに出鼻をくじかれてしまった。どう仕切り直したものか。程普は陸遜を呼んで策を献じさせようとした。
しかし諸葛亮の判断力はそれよりも早い。
「城門を開けてください! 桃香様、孫尚香さんを城内に招いて歓談しましょう。そして正式に約を結ぶのです」
「約?」
「はい。蜀と呉の同盟の約です。これを以って曹孟徳さんに当たりましょう」
曹孟徳は力を示さなければ納得してくれない人物だ。孫伯符は分からないが、孫尚香はおそらく違うだろう。世を平和にするためには、必ず一度曹孟徳を破らなければならない。
劉備は頷いた。
「よかったら、一緒にお茶でもしませんかー?」
***
会談の場はあまり城門から離れていない民家を借りることとなった。敵の懐に入ることを程普が断固として拒絶したからだ。しかし諸葛亮とて城外の天幕なんて怖くて仕方がない。その折衷案として、褒美を餌にして場を整えたのだ。
円卓に向かい合うように劉備と孫尚香が席に着く。互いに接触できない距離だ。そして劉備の傍には諸葛亮と馬岱、孫尚香の傍には程普が控える形で立っている。馬岱は猛将と一対一で向き合うことになり心の中で泣いた。
「蓮……権姉さまがね。魏はとても恐ろしい国だから蜀と仲良くしなさいって教えてくれたの。劉玄徳さんはどう思う?」
まず話を切り出したのは孫尚香だ。劉備が言葉を選んでいる間にふわりと懐に入る。この小さな虎の得意技だ。
「えっと、私たちも曹孟徳さんはすごい人だと思います。臣下の人たちも一人一人が強くて、曹孟徳さんへの信頼があるなって思いました」
「信頼なら私たちだって負けてないけど……でも国が大きいってことは人も多いってことだもんね。それだけたくさんの人から信頼されるのはシャオには難しいかも」
「はい。私たちは徐州から益州に来るまで、曹孟徳さんの軍を見てきました。とても規律の行き届いた軍だってうちの軍師も言ってます」
話が諸葛亮に振られる。これは事前に諸葛亮が指示していたものだ。あまり二人で会話に没頭しているとどのように話が転ぶか分からない。その主導権を預けてもらうべく劉備に進言したのだ。諸葛亮を信頼する彼女は当然のように頷いた。
「ええ、軍の末端まで管理が行き届いています。それは涼州や漢中での戦いでも明らかです。特に定軍山の戦いでは……あの規模の山を囲む兵を巧みに操る将が相手にはいます。これは非常に驚異的です」
孫尚香や程普には定軍山の規模は分からない。小高い山なのかと思ったが、それが複数の山からなる連峰であることを知ると事の深刻さに気が付いた。
「しかし魏のやつらは敵を常に二つ抱えている。わしらと貴様らだ。全ての力を一国に投入できるわけでもあるまい」
「そうかもしれません。では、程徳謀さんは魏が呉を攻めてくる中、私たちが後背を必ず突くと言い切れますか?」
む、と程普がうなる。確かに蜀の選択肢はいくつもある。攻撃中の魏の後背を突いてもいいが、疲弊した魏を攻撃してもいい。魏を無視して呉の領土を切り取ってもいいのだ。同じことは呉側にも言える。
「お判りいただけたと思います。我々は最低限でもいいので盟約を交わす必要があるのです。少なくとも魏の力をある程度削ぐまでは……」
「なるほど、なるほど。貴様らの目には呉がそこまで弱いと見えるか。長江において我が軍に負けはないぞ」
一進一退。同盟派の諸葛亮と好戦派の程普の間では話は平行線を辿る。
「ふんっ。魏の危ない人なら権姉さまが他にもいるって言ってたもん。合肥で戦った相手で、人の心を掴むのが上手い人だから気を付けたほがいいぞって言ってた」
一刀のことだろう。しかし孫権はそこまで言っていない。心を乱された孫権を見た孫尚香が勝手に思い込んでいるだけだ。
それはさておき、魏の危険人物が夏侯姉妹や張遼以外にも複数いることが判明して、いよいよ劉備の顔が青くなった。陽平関の守りがあるとはいえ、堅牢さには限度がある。それに益州に通じる道は大小いくつか存在している。智将や人心掌握能力の高い将の存在は恐ろしい。
「あ、あの! 私、まだすっごく若い孫尚香さんが来てくれたことをすごく勇気があって、仲良くなりたいって言ってくれたことが本当に嬉しいんです! だからせめて、せめて孫伯符さんにお手紙を届けてもらえませんか?」
程普がじっと考え込む。どうせ棄却されるに違いない。内容に気をつければ幼姫も満足するだろう。
孫尚香も考えた。長姉は気さくで優しいが立派な王だ。生半可な内容では頷かないだろう。隣の程普とてそうだ。――しかしここには諸葛亮がいる。
諸葛亮。彼女は呉の周瑜に勝るとも劣らない智の権化。きっと今の状況も彼女の手のひらの上なのだが、孫家は虎だ。あとでいくらでも暴れて檻なんて敗れる。
「うん。じゃあ一緒に考えようか」
「本当!?」
「シャオは賛成だよ。劉玄徳さんと諸葛孔明もだよね? 程将軍もいいよね?」
若い獅子が見せた牙に程普は愉快なり、と承諾することにした。
***
程普から怒られ、孫権からも叱られた孫尚香は当の姉の抱擁でほとんどを帳消しにされた。孫権は彼女の無計画な行動にこそ心配を抱いていたが、その素晴らしい成果に我を忘れて妹を抱えて「よくやったわ!」と叫んではぴょんぴょんと彼女らしくもなく子供らしいふるまいを見せた。
豊かな胸に顔を包み込まれた孫尚香は苦し気に呻いて、これも一つの罰の形かと観念した。
次の壁は周瑜である。孫堅と孫策に次ぐ政務者で、軍都督という再重要職務に就いている。彼女を通さずして孫策に意見はできない。
「これも孫家の血の一つの形か……」
眉間にしわを寄せて書状を読む。書状は主に諸葛亮と程普が監修していて、ところどころに二人の攻防の跡が見られる。優勢なのは諸葛亮だと一目それを見て彼女は判断を下した。
すなわち、同盟関係は魏と会戦を終えるまで継続する。その後の継続の如何はその時に判断する。戦場が合肥か漢中近辺になる場合はもう一方が作戦を決行し多方面作戦を行う。荊州が戦場になった場合、得られた領土は戦時中はどちらにも所属せず、戦後に決定する。
これらの内容はいささか船団を多数用意する呉に対して不利な条件だ。多方面作戦を展開する場合はまず同盟締結を主導する蜀が漢中に攻め入り、それに呉が呼応する形にしなければ割に合わない。曹操次第では呉の戦場は合肥だけではなく襄陽を起点にする可能性だってある。いや、むしろ高い。
「粋怜殿もずいぶんと言いくるめられたな」
「すまん。子供と思って侮ったつもりはないが、知恵はさすがに亞莎にも及ばん」
呂蒙。阿蒙とも呼ばれていた彼女は度重なる出兵を経て昇進し、今や呉の軍師の一角を担うまで成長している。その彼女を同席させなかったのが程普の第一のミスだ。しかし彼女をしても諸葛亮をやり込めたかは不明である。
「そこは仕方がないでしょう。伏龍は既に大地に降り立っている。それに対峙するのは私でも五分か……経験の差で僅かに私が優勢になるというくらいです」
「なんと、それほど……」
「ここまで形になった書状をなかったことにするのは小蓮様の顔――ひいては孫家そのものの信用を損なうことになってしまう。雪蓮を間近に見ていた私がこんな事態を招いてしまうとはなぁ」
椅子の背もたれに体重を預け、熱でも出そうになっている彼女にさらなる頭痛の種がやってくる。
「なーんか面白そうな気配がするわ!」
孫策である。今日は珍しく素面であるようだが、猫のように興味のあるものにしか関心を抱かない彼女がまさかの事柄に寄ってきてしまった。
戦場で先頭を走る異色の君主らしい素早さでさっそうと書状を手にした孫策は、近くの椅子に座ってふんふんと書状に目を通した。流し読み程度だが概要は理解した。
「これを作ったのは劉玄徳とシャオなのね。ふーん」
温暖な建業の室温が間違いなく数度は下がった。
「母様は躾の仕方を知らなかったのよね。自由には責任が伴うってこと、小蓮はちゃんと理解していないようね」
「うぅ……」
「蓮華も母様の甘いところを受け継いだのかしら?」
「確かにシャオの行動の見通しは甘かったと思うわ。でも蜀と同盟を結んで魏に立ち向かうことは決して間違ってないはず。姉様は孫家の獅子の嗅覚を失ったの?」
孫策が睨めば孫権が噛みつく。幼い孫尚香は怯んだ様子だったが一歩も退こうとはしていない。まさに獅子の血筋が相対した結果だ。
「言うようになったわね」
「私に合肥を任せたのは姉様よ。そこで私は成長したの。魏には兵力や将兵以上のものがある。軍師の奇策に孫呉に勝るとも劣らないかもしれない士気。冥琳なら劣勢の状況で士気を維持する難しさは知っているはずよ」
周瑜と孫策はそれを正論と判断した。しかし孫家は長江の下で育ったのだから、最も有利な土地をまず掌握しておくのは必然だ。そこを死守すれば負けることはない。そして勝機は必ず作れるものだ。
「駄目よ。この書状は破棄しなさい。私自ら詫びの書簡を送ってもいいわ。本当に大切なのは――孫家の悲願を叶えること。江東に安寧をもたらし、曹魏を降して天下を孫呉のものにすることよ。目的を誤るにあらず」
「うむ。私も同感だ。むしろ蜀は我らの敵だ。魏と決戦をする前に荊州からやつらを追い出して、完全に山中に追い出す必要がある」
さて、君主まで集まって騒げば人も集まろうというもの。何があったのかと執務室の入口から顔を覗かせる人々が増えていく。太史慈、甘寧、周泰、魯粛らはその場で立ち止まり推移を眺めている。一方で黄蓋や張昭のような重臣は勢いよく部屋に入り込み、その論戦に加わった。
「ははは! 小蓮様も成長なされたということよ。今回はあまり厳しく叱らずともいずれ理解されるものだ」
「ええい、酒臭いわ祭。わしはついさっき同行していた穏から良からぬことを聞いたぞ。劉玄徳は魏との戦の中できな臭いやつらを見たというではないか。わしも友からの文で魏に怪しい異国のやつを見たと聞いた。城内にも出入りしているんじゃぞ!?」
むん、と腕を振り回して息巻く張昭。しかし周瑜とて父は太尉を務めたほどの人物だから魏領内にも多くの伝手がある。大秦人の将軍がいることくらい既知だ。
「私も合肥で摩訶不思議な人にあったわ。思春や明命だって見てるんだもの」
突然名を呼ばれた二人はびっくりしたが、大殿を前にしても主の孫権の言に頷いた。
「ふーん。包はどう思う? 梨晏?」
「わ、私は雪蓮様に賛成です!」
「私はよく分からないからお任せかなぁ」
孫策に与するのは周瑜、黄蓋、程普、魯粛。反するのは孫権、孫尚香、張昭、甘寧、周泰という形になった。数では孫権が優勢だが決定権の重さでは孫策に比重は傾いている。
この内紛はどうすれば幕を下ろすことができるのか。孫堅の一声を要するか、孫策が押し切るか。孫権が意志を貫けるのか。
仮に天の国からこの光景を覗いていたとしてもその趨勢を見極めるのは困難だろう。この部屋に近づく最後の一人に気が付いていなければ。
「お、遅れましたぁ~」
どたばたと。両手に抱えた書簡を胸の上にまで乗せてふらつきながら現れたのは陸遜だった。扉の周囲にいた人物たちが、不器用な彼女のためにと道を開ける。
「どうした穏。別に呼んではないぞ。こやつらは勝手に集まってきただけだ」
周瑜の切れ味抜群の一言に、賛成の意を示した黄蓋までもが一蹴される。魯粛に至ってはまたしてもミスを犯してしまったかと一気に青ざめてしまった。
「いえいえ。そうではありません。私も一言進言しなければならないことがあったんです。ちょ~っとそれが遅れたということで……。つまりはこの書簡を見ていただきたいと思います」
それはいくつかの書簡で、どうやら一人の人物が四人の人物それぞれと交わした文のようだった。その人物とは陸瑁。陸遜の弟で呉に仕える若き官吏である。そんな小人物の文に何があるのかと周瑜は順番に目を通す。
まず陸瑁からの書簡は共通している。孫呉と曹魏が敵対して久しく、会えないことを寂しく思うというくだりから始まり、昔の縁と慈悲の気持ちを持って陸瑁を信じて一度限りでいいので魏のことを教えてほしい。そのようなものだった。
「ふむ」
これは周瑜もよく使う情報収集の一つだ。陸遜もさすが陸家の者だけあって上手い。
文のやり取りは個々人によって異なるが、四人の人物が陸瑁の提案に賛成した。すべて陳留に近い魏領内の人物だ。いくつかの成果を目にしたが、陸遜がわざわざ持参してくるほどのものではない。しかし最後の一通に重要な文言が書かれていた。
『陳留のそばにある黄河支流にて釣りに興じていたところ、最近噂の異国の将が船を弄っては兵と競争をさせていた。実に興味深く君も読書だけでなく、外に出る趣味を持つことを勧める』
まさしくこれはガイウスが李典らとスクリューの実験を行っていたときの様子だ。もちろんその詳細は不明だが、ローマの技術を用いて軍船が改造されようとしていることを周瑜はすぐに理解した。
「なるほど。これは確かに厄介だ。穏、この文はいつやり取りされたものだ」
「襄陽が曹孟徳の手に渡る前には」
「かなり前だな……。ということは曹孟徳は長江での戦に向けて着実に準備を進めているということだ。先に攻められるのは蜀ではなく孫呉だ」
周瑜の手から書簡を奪った孫権も、ガイウスを示すくだりを見て腕を組んで考え込んだ。
「これは……たしかに決断が必要かもしれないわね。孫呉の力を信じるべきか、小蓮の功績を実らせるべきか」
誰もが孫策の次の句を待つ。事ここに至っては孫権や周瑜ですら意見をはさむ余地はない。
しかしそのとき、重臣たちの隙間を縫って城兵が部屋の入口まで走り込み、すぐさま平伏して声を上げた。
「報告します。曹孟徳南下の報が入りました。襄陽から漢水に出て烏林・夏口方面が目的地かと思われます」
その言葉で孫策が纏う空気が一気に熱を持ち、室内に奔流した。
「決めたわ。誰か南海覇王を持ちなさい。すぐに長沙に向かうわよ」
孫策、劉備と同盟す。その報は曹操にもすぐに届く。
物語で初めての孫呉の出番でした。
没になったタイトル
・三姉妹、それぞれ
・孫家のお家事情
・史実の夫婦意気投合す
・机上の舌戦、城下の天然
次は再び魏に視点が戻ります。