最終話まで書ききってから投稿したかったのですが、戦後の描写に時間がかかりそうなので一話だけ放出します。
時は鄴近辺の造船所に曹洪が運ばれて数日後にさかのぼる。
「しばらく席を外しますね~」とふらりと程昱がいなくなったので、ガイウスは例の貨物台車の製作をしていた。なんせ長大な台車が何台も必要になるのだ。興が乗って滑車を製作し、パーツの昇降を楽にしてしまったり、それを李典が造船に活かし始めたのも仕方のないことだ。一刀は異文化が爆発的に進化していく様を呆けて見るしかなかった。
その数日後、ひょこりと顔を出した程昱が「お兄さんを連れて行く」と言い出した。新しい船を造るのに造船所を離れてどうするのかと思ったが、どうやら機密上ここで作ってはいけないらしく、新たな小規模の造船所を建ててしまったらしい。
さて、そういうわけでガイウスは秘密の造船所に籍を移すことになった。
場所は漢水からさらにガイウスの工兵たちから信頼できる面子によって掘り進められた内陸にある。
その場所は、漢水を遡った先、秦嶺山脈の懐深くに穿たれた、地図にすら載らぬ谷間にあった。
昼なお暗いほどにうっそうと茂る木々は、天蓋のように空を覆い隠し、俗世からのあらゆる視線を拒絶している。谷底を流れる川は、人の手によって奇妙に堰き止められ、その脇に掘られた新たな水路を、白く泡立つほどの急流が轟音と共に駆け下っていた。
湿った土と、切り出されたばかりの木材の匂いが立ち込めるその秘密の造船所で、魏の、そして中華の運命を左右する、前代未聞の計画が動き出していた。
「で、どうして俺もここに?」
「今後報告のために通ってもらわないといけないのと~、知恵をもっと捻りだしてほしくてです」
程昱、素直である。
しかし実際のところ、ガレー船にスクリューを取り付けるのは失敗している。何か策が必要なのだ。しかし生憎と程昱は生まれも育ちも漢なのでアイデアが浮かばない。頼りにできるのはこの二人しかいないのだ。
「そもそも船って言っても天の船もここの船も形は似てるんだよなぁ」
一刀の頭にあったのは、手漕ぎ船やクルーザー、フェリーなどである。どれも尖った先端をしており、船尾は平らでスクリューがついているかオールで漕ぐ。観光地では船頭が櫂を操る場合もあるがあれは速度は出ないだろう。
映画では機関室が描かれていることがあるが、あれはエンジンによる発電だろうから除外する。では大航海時代はどうだろう。三国志の時代の船よりずっと大型でフェリーに近い。しかしあの推力は帆船由来のものであり、既にこの時代に存在していることを一刀は知らなかった。
「あのさ、船の上に布を大きく張って風の力で進むっていうのはどうだ?」
「ウェルム・クアドラトゥムのことですか?」
「……もうあるんだな。さすローマだ」
ウェルム・クアドラトゥム(正方形帆)は紀元前後に発明された帆だが、地中海では基本的にオールでの操舵がメインだったので、もっぱら補助的にしか用いられていなかった。むしろこの帆をより実用的に使っていたのがアラブやインドといった外洋国家である。
「なるほど、ダウのようなウェクスィルム・トリアングラーレを使えばあるいは……」
「なんだって? ウェクスリム……?」
「つまりはローマではなくアラビウムのような帆です。追い風でなくとも推力を得られる優れた帆ですよ。私はクシャーナでそれを学びました」
ガイウスほど数奇な運命をたどった男はこの場に、いやこの国にはいないだろう。故郷ローマで奴隷商につかまって以来、アラビア海を抜けてクシャーナで戦争に駆り出され、再び奴隷をしてシルクロードを踏破した男だ。
「ふむふむ。お兄さんの知る帆は私の知るそれとは違いそうですね」
「そのようです」
あらためてウェクスィルム・トリアングラーレ(ラティーナ帆)の説明をしよう。ラティーナ帆は三角形で風向きに柔軟に対応できるので、狭い河川や沿岸の航行、方向転換が多い航海に向いている。この帆を使って季節風に捉われずにインドやアラビアの海をインド地域の人たちは航海していた。
さて、話についていけなくなった一刀は再び現代の船について思い出していた。それはTVで見た進水式の出来事だ。巨大な運送用の船――タンカーを横滑りに川に送り出して大きく揺れてヒヤリとした映像があった。
「なあ、ガイウス。ローマ帝国にも大きな船ってあるんだよな?」
「もちろん」
「あれって波で倒れたりしないのか?」
ガイウスは巨大な商船のポンタ船や、三段櫂船やそれ以上の大きさの軍船を想像した。
「その危険はあります。だから砂や土を入れた袋を船に積んで倒れないようにしているのです」
「ああ、重心を下げてるのか」
しかし、と一刀は思った。現代の船で砂などで重心を調整している様子は見たことがない。だとすれば――。
「そうか、水だ。水を入れて重さを変えてるんだ」
「ほほう。水、ですか~」
ガイウスには程昱の目がきらりと光ったように見えた。
実際船に水を入れるというのは可能だろうか。可能だ。船室の一部に皮を張って、そこに水を入れればいい。櫂を操る船員に水が降り注ぐこともないだろう。
「お兄さん、その水は抜いたり入れたりすることはできますか~?」
「組み上げたり、管を通してやれば出来ると思いますが」
「ほうほう。それなら面白いことが出来そうですね~」
今度こそ、程昱はにっこりと笑って明らかに何かを企んでいる様子だった。
***
ここは秘密の造船所。従って忠誠心の高いガイウスの部下や臣下の縁戚など少数の人間だけが働いている。
新たな船――ガイウスの故郷のガレー船を元にした船は彼らが製作する。木材の伐採も彼らで行い、板材を曲げて船の縁を形作るのも彼らが力を合わせた。当然将軍のガイウスは故郷の船を作れるとあって、率先して作業に勤しんだ。
特に大変だったのはリムと呼ばれる船の先端に取り付ける金属製の部品だ。これは船を衝突させる際の攻撃力と防御力を高めるためにローマでは必須だ。粘土質な土で型を作り、轟々と燃やした青銅を流し込む。男たちは半裸になって作業をした。青銅が液状化するまで造船所はかつてない熱気が立ち込め、型に流し込まれたときには皆の肌から汗が噴き出した。いつもは冷静沈着の程昱の額にも汗がにじむほどの暑さだ。
報告のために訪れる一刀も時折それに参加した。力のない彼に課せられたのは帆を組み立てる綱を編むことだった。
木材が組み上げられ、リムや帆が装着され、磨き上げられた櫂が設置される。
数か月が経過した。
「これで完成か」
ガイウスはいかにも感慨深げに腕を組んで船を見た。
舟自体は10メートルほどの小型~中型船だ。ローマでも漢でも見たことのない様相になっている。特に目立つのは本来立ててある帆の柱が折りたたまれて船の甲板に寝かせられていることだった。これは程昱のアイデアである。一応どのように働くのかは聞いているが、実際に目にしないことにはガイウスも半信半疑だ。
「はいはい~。我が子が出来て嬉しいのはわかりますけど、時間がないので調練をしましょうね~」
「はい、風さん。では一刻の休息の後に装備を整えさせて再集合させましょう」
彼らはまず、船の櫂を息を合わせて漕ぐことから始めた。元来の漢の船とは異なり、二段櫂船となっているこの船は上下に二段のオールがある。したがって揃って漕ぐのも一苦労だ。
「おい貴様ら! 全然なっちゃあいねぇぞ! と彼は言っている」
ガレー船での戦いはさすがに未体験だったガイウスは臨時顧問として使節団に所属していた元海軍兵の力を頼ることにした。名をティトゥス・クラウディウス・マリヌス。
魏の水兵として訓練を受けてきてもなお彼の合格点は得られない。数日の間、彼らは運河を上方から下流へ。下方から上流へと行き来するばかりだった。そしてようやく次の段階に進むことになると、何度もその場を左右に旋回させられた。
しかしこれらは決して本番ではない。基礎の基礎の運用である。なぜならこの運河は怪軍師程昱が設計したものだからだ。
「それじゃあ始めますね~」
運河の入口で、男たちが程昱の合図に合わせて滑車を回し始める。すると太い木の板がハの字になるように動き始めた。すると河の入口はぐんと狭くなり、その勢いは今までとは別の河にいるかのように荒々しく変貌する。
長江は黄河と異なって川底が深く入り組んだ地形をしている。そのため、長江での戦に備えるためには急流で訓練しなければならない。しかし秘密の船を曝け出すにはいかない。そこで程昱が考えたのが急流に変貌する運河だった。
「ほほう! これは面白い!」
ティトゥスもこの技術には目を見張った。
ガイウスはこれを知っている。なぜなら宛城を守るために用いた技術だからだ。しかし自分にも秘密で程昱が一人でこれを応用したことには身震いした。こぶしが握られ、輝かんばかりの眼差しが程昱へ向けられる。
「そうら! 櫂を漕げ! 旋回だ!」
長い訓練を経て、ティトゥスの言葉は兵たちに浸透していた。レマーテは櫂を漕げ。ウェルティテは旋回しろ、だ。時々複雑に変形するが、それらもたいていは身体が覚えてしまった。そうして1週間がたった後、次の工程に訓練は以降する。すなわち一刀とガイウスのアイデアを用いた機能の訓練だ。
まずは注水である。
「インプレーテ!(水を満たせ!)」
「注水せよ!」
「トルケーテ!」
「踏車を回せ!」
ティトゥスとガイウスが代わる代わる声を発する。恐ろしい教官と偉い将軍の声が並ぶことで、船員たちは身体が強張ってしょうがない。しかしやらねば船はただ流されるのみだ。踏み車がギィギィと鳴り出すと滑車が回り始める。すると管から水が組み上げられて船の内部の革袋を満たしていく。すると重心が下がり、船そのものが大きく沈み始めた。
「これがこの国のバラストですかい、旦那」
「いや。ここより東の国のものだそうだ」
「そりゃすごい」
ティトゥスは信じられない物を見た、というようにしばらくしげしげと眺めていたが、水を入れ過ぎていることに気がついて慌てて叫んだ。
「エウァクアーテ! アギテ!」
「排水せよ! 滑車を回せ!」
あまりに重心が低くなったことで、水面が接近してきたことに恐れおののいた男が悲鳴を上げて立ち上がる。そして排水が始まったことで船体が揺れ、彼は船から放り出された。
「うわああぁぁ!」
「スルトゥレ!!(愚か者!!)」
慌てて軽装のティトゥスが走り出して川に飛び込む。ざぶざぶと慣れた様子で泳ぎ、溺れかけていた男を救った。
ガイウスはその様子を川岸から眺めて兵の安否を尋ねた。
「旦那、俺を誰だと思っているんだ。ここじゃ誰も死なせないぜ。戦場まで全員連れていけ」
この頼もしい男の訓練と、迅速な救命活動によって兵士たちのやる気がみなぎった。荒々しい急流の中で船は重心を下げて安定して高い推力で前身する術を身に着けたのだ。
「お兄さん、これで華琳様の次の命令に間に合いそうですね」
「うむ。次はいよいよ南征ですね」
「私たちは呉の喉元に食らいつく牙になるのですよ」
「ええ」
***
「西将軍! 西王秀です! まるで水に潜むように船を隠してここまで来たみたいです!」
どこか遠くで上官らしき誰かの声が聞こえた。
しかし今兵士の彼の目を離さないのは、水面ぎりぎりに潜み近づいてくるまるでワニのような船だ。先端の黒光りした槍のような青銅がこちらの船体を狙っている。
「旋回しろぉおおお!」
しかし遅い。ガァンと船体の木材を貫く音と同時に船が激しく揺れ、何人もの兵が川へ投げ出される。
その悲鳴もまた一つや二つではない。数か所で起こっている。
「何事ですか!?」
先鋒の一人として小型船団を率いていた呂蒙は事態を把握しようと声を上げる。
「何者かが見たこともない船で体当たりをしているようです」
「ならばすぐに乗り移って切り捨てるのです!」
基本的に突撃は蒙衝と呼ばれる船の役割だ。しかし同時に突撃した船も破損してしまう。ゆえに呂蒙は闘艦も混ざっているだろうと考えた。船に乗り移って兵力と水軍力を減らすための船だ。
無事だった蒙衝もろとも始末すれば魏の切り札は失われる。しかし、魏の隠し玉はそれほど甘くはなかった。
「排水!」
ガイウスの命令によって、突撃を行ったガレー船たちが船底の革袋に貯めこんだ水を吐き出す。すると船は再び浮力を得て、先端のリムが敵船から外れた。
「帆の用意!」
加えてガイウスがダウ船から着想を得て、程昱が形にした帆の出番だ。折りたたまれていた柱が簡単に組み上げられ、綱を引くことで帆が展開される。あとはティトゥスの訓練によって選ばれた操舵手がそれを操ると、風向きを無視して船はぐん、と後退を始めた。
「わ、私は一体何を見ているのでしょうか」
呂蒙はモノクルを何度も弄っては平静を保とうとした。しかしガイウスは彼女の理解を待たない。
「再度注水! 突撃用意!」
一度安全圏に逃れたガレー船が、再び水面に身を潜めていく。まるで獲物を捉えたかのように。
そして一斉に櫂を漕ぐと、他の船とは比にならない速度で再度呉の接近を始める。無事だった船に狙いを定め、再びラムの槍が船体を食い破る。
接触するなりミシミシと音をたてて木が断裂する。10メートルは超える船によるここまでの勢いが呉の船体を一気に横方向へ揺らす。繰り返される悲鳴。
瞬く間に呉の船団の長江下流方面の小型船は壊滅した。
「ふっ。好機のようね」
曹操は遠くで活躍する男の横顔を思い浮かべて、にっと頬をゆがめた。
「誰か! 鏑矢を上げなさい!」
「私が」
夏侯淵が曹操の横についと踏み出し、流れるような所作で矢をつがえ、天高く打ち上げた。
ひゅぅぅぅううう、と風を切る音が戦場の上から鳴り渡る。曹操は自らも前線へと船を進めた。他の船団もそれに続く。呉の小舟をなぎ倒し、ついに魏の楼船は呉の下へたどり着いた。
「私が一番乗りだ!!」
夏侯惇の跳躍に木片が散る。隻眼が捉えた船には呉の武者の影があった。周泰である。この若武者は剣を構えて迫りくる剛剣の予測に唾をのんだ。
「者ども! 私に続けええい!!」
だん! と右足が船べりに着くや否や大剣が横凪に振るわれる。周泰はそれを受けずに地に伏せ、宙に弾けて夏侯惇に迫った。しかし彼女は船も傾くやという勢いで甲板に突進し、迫る周泰の剣を正面から受けた。
そこからの夏侯惇の剣戟は風を凪ぎ、船を割るかと思うほどで周囲の兵たちはどちらの勢力も近づぬ有様だった。ただ一人周泰だけが豪速の剣筋の隙間を縫い、夏侯惇の懐に入り込む。両手に握りしめた太刀が迫る。
「ちょこ、まかと!!」
無理やりに軌道を変えた大剣が振るわれる。甲板に刺さる周泰の刃。そして目前には再び夏侯惇の剣が吸い込まれるようにやってくる。周泰は身をバネのようにして船上から川に飛び込んだ。
「逃げるな! 卑怯者!」
「無理を言うな。狭い船上で猪を捕るのは難儀なのだ」
「む? 誰だ」
半ばから折れた帆柱に立つ影があった。頭上の陽光で姿は定かではない。
「孫仲謀様の刃が一、甘興覇」
風に乗って夏侯惇に耳に届くや否や、彼女は雷光の如く飛び降りて朱く輝く刃を甲板に突き立てた。
「ほう」
驚きに目を見張る夏侯惇の頬に、赤い筋が生まれる。
しかしそれ以上の時を与えず、甘寧は船内のあらゆるところを足場にして夏侯惇に迫っては刃を振るう。夏侯惇も大剣を豪快に捌いて、甘寧の攻撃を防ぐ。
地の利がある甘寧に僅かに分があるか。いや、夏侯惇の武に敗北はない。恐るべき学習能力で船上の体捌きを覚えつつあった。
「今です!」
短剣が一振り、夏侯惇の死角から一閃される。それは甘寧に加勢しにきた呂蒙のものであった。
眼前に甘寧、遠方から呂蒙の暗器が夏侯惇を襲う。それを鬱陶しそうに払いながら、彼女は相手を一撃必殺で倒す手段を考えていた。呂蒙は常に甘寧とは離れているから一太刀にはできない。しかし先にどちらかを狙えばもう一方が邪魔をしてくる。
「ああ、苛々する!」
しめた、と呂蒙は暗器をひとつ、ふたつを鋭く放りながら目を細めた。地の利に疎く、心乱されれば勝機はあると踏んだのだ。機は熟した。呂蒙はふわりと身を翻して夏侯惇の懐に近づいた。手には麻痺毒を塗った短剣。少し動きを鈍らせられればそれでいい。
しかし――。
雷鳴が轟いた。いや、正確には木材が断ち割れる音だった。夏侯惇が苛立ちまぎれに放った剣戟は――船を割っていた。
「ふむ。これですっきりしたな。鬱陶しいなら無理やり別々にすればいいのだ」
呵々、と笑う夏侯惇を相手に、同じ船に残された呂蒙の脚はにわかに震えを帯びていた。
一方こちらは膠着状態にある孫権の船である。迫りくる小舟に、近づけさせまいと孫権は兵に矢を射かけるように命じていた。なぜならば相手の将軍は――。
「対象の孫伯符やあらへんのは残念やけど、ここであの孫仲謀を討ち取るっちゅーのも悪くはないな」
飄々と矢を自慢の偃月刀で叩き落としながらからからと笑う張遼であった。
張来々。兵たちの心胆にかつての恐怖が蘇る。そしてそれは孫権も同じだった。采配代わりに振るう右手は強張り、声は異様に大きい。少しでも敵船の一つが近づこうなら敏感に察知して矢を注がせた。
しかし魏の船員は冷静だ。ガイウスの隊を真似て作った革で覆った木の盾を頭上に構え、矢の雨を物ともしない。時折櫂を漕ぐ手を矢がかすめては情けない声が上がるのを張遼がけらけらと笑う。
その笑い声が呉の兵を余計必死にさせた。
「接近を許してはダメよ! 矢を切らした物は槍を持ちなさい!!」
もはや孫権の楼船に魏の小船が到達するのは時間のものだった。
梯子がかかればあの張遼が来る。
「やあああああっ!!」
孫権の大ぶりな太刀筋が梯子の一つを切り落とす。しかしそうしている間にも他の船から投げられた梯子が二つの船を繋いでいく。張遼のいる船はいずれかと血眼になって探す。孫権絶体絶命のときであった。
また一方では戦場の中でも一等緊張した空気が張り詰めている船があった。
「やはり貴様もいたか。黄漢升」
一矢。
「無論です。私の弓が役立つのならどこへでも現れるわ」
二矢。
「今度こそ決着をつけさせてもらう」
三矢。
戦場とは思えぬほど平静な会話が続けられるさなか、二人は互いに必中の矢を放っていた。しかし互いにそれを捉えて矢の応酬で川に撃ち落とす。揺れる船上、互いに慣れぬ環境での技巧であった。
その様子を黄忠のそばで暇そうに聞いている人がいる。太史慈である。
「なあ漢升。私が行って斬ってきてもいいんだよ?」
「結構です」
「だよねぇ……」
武人と武人の勝負である。無粋なことはできない。ぼんやり周囲を眺めていたとき、夏侯淵の船の後ろを通り過ぎようとしている船を見つけた。太史慈の口が弧を描く。
「それじゃ、私はあれを落としてくるとしよう」
船の主がその姿に気が付いたのは、夏侯淵を援護しようとその船を回り込んで接近したときだった。船の頭が大きく揺れ、船尾が水面すれすれまで浮き上がる。何が起こったかと屋形から飛び出したところ鉢合わせてぎょっとした。
「て、太史子義……!」
「そういうお前は確か李曼成というやつ? まぁ小物でもこの際いいか」
「私もいるぞ。楽文謙だ、二対一だが卑怯とは言うまい」
屋形にはもう一人、将が乗っていた。太史慈はようやく愉快そうに笑った。
「それじゃああいつが三人目? 面白いじゃない」
李典と楽進の船に隠れていた、もう一隻が姿を現す。楽進も知らなかったのか急いで振り向いて正体を見た。
「私なの! 三羽烏一緒に戦うの!」
「沙和!!」
軽やかに于禁が飛び出して楽進たちの船に乗り移った。
ようやく楽しいことができそうだ。太史慈がぶるりと身を震わせて右手で槍を弄ぶ。背後では夏侯淵と黄忠の一騎打ちが続いてる。
「さあ、楽しもう!!」
先頭に楽進が構え、左右を于禁と李典が守りに備える。三位一体の構えに太史慈の槍が猛獣のごとき一閃を放つのであった。
***
戦場が膠着している。しかしそれは互いに目が他に向けられぬほど緊張していることの証でもある。
その隙こそが、程昱が待っていたもの一つだった。
「おうおう、お前ら火船を流すぜい」
程昱は一人船を降りて川岸に舞い戻っていた。
川岸からは幾艘もの艇が水面を走り出し、彼女の指示で列をなす。艇は川を縫う形で整然と並べられた。
宝譿の声色で命令を流すと、丸い船が次々と川に放たれていく。直径一メートルにも満たない小ささだ。水流によって自然とそれらが流されていくと、次の小舟が投下される。川の南側は無数の小舟が群れをなして蠢いていた。
いつしか風も西の風に戻っていた。程昱はこれもまた予想していた。いや、ただ風向きが東南に変わるなんて思っていなかっただけなのだが。
しかし短時間で風向きが戻ったことで、程昱の放った船がゆらゆらと水流に乗ってある地点をめざしていく。呉の船団がある水域である。
船上で繰り広げられている数々の将兵の戦いの中、何人かの兵たちはそれを見かけたが、敗れた船の木片としか認識できなかった。
「今だ! 敵船に押し戻せ!」
上流の呉の兵は疲弊した魏の兵を槍を叩いて突いては船から追い出すことに成功した。
そして足下にまでやってきたソレを目にして呆然と目を見開いて固まるのだ。
――硫黄が敷き詰められた円形の船。その中央には不安定な甕があり、火が立ち上っている。
ゴン、ゴンといくつもの場所で木が衝突する硬質な音がする。いや、甕が倒れた音かもしれない。しかし呉兵にとってそれはどちらでもいいことだ。その数俊後に炸裂した爆炎にとっては。
「うわぁああ!!」
「ぎゃっ」
近くにいた兵は焼ける肌の痛みに耐えかねて川に飛び込んだ。少し離れた兵は爆風にはじけ飛んだ。遠く離れた兵は消化しようと近づいて、川の上流からさらに小舟が接近しているのを見て絶望した。
漏れ出す油に何もないところで炸裂する炎によって、瞬く間に川は火の海と化した。
「放て!!」
曹操の乗る旗艦船がいつのまにか呉の楼船を射程に捕らえるほど接近していた。水面を撫でるように下流へと移動していく油から発せられる火の面を曹操は見逃さなかった。
急増の布を巻いた矢を油に浸し、それぞ次々と火の壁を通して鋭角に放つ。それは呉の船体に食い込み、呉兵が矢に怯んで近づけないうちに火の手をあげることに成功した。
油を積んだ船が衝突しなかった船体もが火に包まれる。
「はああああっ!!」
ついには孫策に到達した夏侯惇が南海覇王の鋭く描かれた弧を避けると、あたりを見渡して強気に笑う。
「どうした? 仲間を助けに行かなくてよいのか?」
「あんたが、邪魔なのよっ!!」
総大将である孫策の乗る楼船は見事なものだ。しかしそれがかえって彼女の動きを妨げてしまっている。船室をはじめ複数の階層からなる構造が船の中央にあるため、最下層の通路で戦う彼女はどうしても夏侯惇を超えていかなければならない。
「いやぁ! はっ!」
「ははは! まさかあの孫伯符とこうしてやりあえるとはな! 嬉しいぞ!」
「私も普段ならそうなんだけど、ねっ!!」
孫策の素早い剣戟が夏侯惇の急所を狙う。明らかに焦っている。夏侯惇は大剣側面で身を守り、時折嵐のような大凪で孫策の脚を縫い留めた。
しかしそうしている間にも、流れる火の海は刻一刻と孫策の船にも近づいている。夏侯惇の背後には焔の壁が現れ、もはや孫策はそれを超えていくことはできないように思えた。
「ふむ。潮時だな」
そう言うと、夏侯惇はひらりと身を翻して船を飛び降りた。流れる船の破片を器用に足場にし、焔の壁の外側への退避していく。
「勝負はいずれ! 華琳様の世になってからだ!」
***
焔は周瑜と諸葛亮の乗る指揮官船にも近づいていた。既に艦隊の半分は壊滅している。挽回するには火の手の及ばない曹操側の水域に退避するしかない。それは途方もなく危険な行為だ。
激しい攻防戦が予想される。こと接近戦に至っては策も体をなさない。ただ将兵の力量がものを言う。幸い船上の戦いにおいてはこちらに分がある。しかし主な武将は既にそこかしこで戦に入っている。今手が空いている最上の将は、護衛を命じている程普くらいのものだ。若い淩統や朱才、歩騭らがいるがどこまで有利に事を運べるだろう。
周瑜は脳裏の戦術に没頭していた。諸葛亮は陸に控えている劉備軍をいかにして運用すれば事態をひっくり返せるかを思考していた。しかしそれがいけなかった。
轟音とともに楼船が揺れた。何事かと周瑜が音の正体に近づく。
左舷の船底にある艇に、一隻の船が突き刺さっていた。さらに悪いことに、船はさらに後方から楼船に接近している。弓兵に指示を出す間もなかった。
「あっ」
手すりに身を乗り出していた周瑜は、重なる衝撃に耐えかねて身を宙に放り出してしまった。
落ちていく身体。周瑜は職務を全うできなかったことを悔いた。回転する視界の中、彼女は碧い瞳の男を見た。
(あれが西王秀か……)
火の柱を超えて、注意の薄れた下流から奇襲を行った胆力、知力。なるほど諸葛亮が警戒するわけだ。
そんなことを考えて、彼女は水面に身を叩きつけられて意識を失った。
指揮官を失った呉はもろく、間もなく呉の船団はほとんど壊滅することになった。
魏の勝利である。
残すところ2~3話です。
出来るだけ質を保ちつつ風呂敷を閉じていければいいのですが。
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