秦・恋姫†無双   作:aly

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前話のあらすじ
 ついに三国を制した魏。その論功行賞の場でガイウスはローマへの帰郷を願い出る。曹操の私室に呼び出された彼はいくつかの条件とともに許可を得る。


旅立ちのはじまり

 多くの人が故郷へと旅立った。

 この国の変容――革命とさえいえる進歩を近辺の人々に伝えるためだろう。中には集賢臺への推薦状を携えて馬を駆る者もあった。大陸には未だそういう人が眠っているのだ。

 孫権もまた陳留から北に向かい、陸沿いに揚州へと帰る船へと向かおうとしていた。伴には甘寧と周泰、張昭がいる。孫策や他の重臣はもう少し曹操と議論がしたいという主の声に従ってまだ残るらしい。

 露出の多い衣服には少し寒い風に長い髪を成されるがままにして、孫権は滞在していた屋敷から見える陳留府を振り返った。

 大男が一人立っている。ここまで駆けてきたのか、少し息を弾ませて彼女を見ている。

 

「何か用か」

「あなたと少し話がしたい」

 

 告白のような真っすぐな言葉に、孫権は一瞬たじろいだ。しかし冷静さをすぐに取り戻して、乱れた髪にさっと手櫛を通して踵を返す。

 

「入れ。中で話そう」

 

 蜀と呉の人員に宛がわれた屋敷は他と比べると随分大きい。呉には二つの屋敷が必要になるほどだった。曹操の目にはそれほど高く評価されていたのだろうか。

 評議が終わった後になっては、処刑すべき者をすべて集めるためではなかったと理解できる。呉の重臣たちに集賢臺への門戸を開いていたのだ。

 曹操に名を呼ばれたとき、孫権は他の面子より先に呼ばれたことが不思議でならなかった。天下を目指した孫策や周瑜とは違う。蜀を率いた劉備や皇室を守ろうとした董卓にも及ばない。出来るのは精々揚州とその民を守ることだけだ。

 孫権はただそのためだけに足を踏み出した。未だ屋敷で書簡を綴っている張昭は中華を見下ろして物を考えられるだろう。彼女もまた集賢臺の一員として認められた。当然のことだ。

 いくつかの部屋を通り過ぎ、孫権はさきほど片付けを終えたばかりの部屋の戸を再び開いた。

 

「少し待て。何か茶を用意させよう」

 

 茶を待つ間、二人は無言だった。ようやく周泰が茶を載せた盆を運んできたとき、彼女はぎょっとしながら二人の前に茶を置いて静かに駆けて行った。甘寧にでも報告に行くのだろう。

 ガイウスは茶を手に取って唇を湿らせると、ぽつりとこぼした。

 

「貴女のことは一刀から聞いたことがあります。護国の人だと」

「ほ、本郷一刀が?」

 

 孫権が羞恥にかっと顔を赤らめた。

 

「普通の少女のように見えて責任感が強く、孫仲謀だと知って納得したと」

「それは私もそうだ。ただの優男かと思えば妖術師のような人間ではないか」

「人たらし、と私たちは呼んでいます」

 

 ガイウスは言外に孫権もたぶらかされたのだろうと茶化したが、孫権はそれに気づかずに、一刀の力の源泉になるほどと頷いている。少し楽進に似ているな、と思った。

 

「私はついに揚州に足を踏み入れることがなく帰郷することになりそうですので、どんな地なのか聞かせてください」

「ええ。でも、どうして私に?」

 

 揚州の支配者であった孫策や知の砦である軍師たちに聞く方が正確だろうと孫権は疑問に思う。しかしガイウスは首を横に振った。

 

「孟徳様があなたの名を最初に呼んだからです」

「そう。貴方は心底華琳――主のことを信じているのね」

 

 集賢臺発足の場で、曹操は数人にだけ真名を許していて、孫権もまたその一人だった。

 

「私は涼州と雍州、司隷、兗州に長くいました。西涼は異民族に満ちた混沌の地です。しかしとても自由だ。そのため漢という枠に収まりきらないことが何度もありました。揚州にも異民族はいますよね?」

「山越のことね」

「はい。なぜ貴女たちは彼らと融和を目指さなかったのですか?」

 

 孫策が揚州平定を袁術から命じられたころ、その地は山越族が跋扈する土地だった。しかし孫策は袁術からの独立のために揚州を何としても地盤として獲得する必要があった。そこで孫策は武の地からで揚州で旗揚げをしたが、山越からは今なお恨まれている。

 そんな経緯をガイウスが知らないはずはない。

 

「確かに、現状を見れば私たちが誤っていたわ。山越を武力で追いやらなければ兵は増え、戦の趨勢も違ったかもしれない。今後の統治にも遺恨を残さなかったかもしれないわ」

 

 曹操は異民族を恐れない。魏のためならば重用することはガイウスを見れば明らかだ。山越族が集賢臺に入ることさえあり得るだろう。孫権は茶を含んで深くため息をついた。

 孫策は焔だ。薪を絶やさない限り轟々と火を灯し、高らかに広大に進んでいく。しかし我が家やその住民さえも傷つけかねない危うさがある。

 それに対して――ガイウスは孫権を流し見て庭を眺めた。彼女は熱した鉄だ。これからどんな形にでもなれる。強いが柔軟だ。素直に誤りを口にした彼女に、ガイウスは尊敬の念を抱いていた。

 

「大秦では常に異民族を寛容に接します。そしていずれ同化するのです」

「同化?」

「彼らが進んで魏の民になるように手助けをするのです。あなたや孫尚香の代では終わらないかもしれませんが、果て無く魏が平穏であるためにはその道が最善でしょう。その一歩はおそらく貴女にしかできない」

 

 いつしかガイウスの目は孫権を射抜いていた。その圧力に怯みそうになって、孫権はぐっと膝の上の拳を握りしめた。

 

「それが江東の民のためになるのね?」

「なります」

「わかったわ。……推薦状を用意しなければね」

 

 いつしか杯は空になっていた。

 もう一杯、と立ち上がったところで孫権は戸の向こうを這う黒い影を見た。

 

「明命!!」

 

 ダン、と開け放たれた扉の両脇には三人の姿があった。今まさに逃げようとしていた周泰と、その先にいる甘寧。反対からそろりと忍び足で去ろうとする張昭だ。

 

「雷火まで!?」

「い、いやぁ~。たまたま通りかかったらついのう。いや、しかし蓮華様よ。このような見事な男は他にはおらんぞ。どうだ、婿に。孫家のために婿に!!」

「えぇ!?」

 

 開き直った張昭が背伸びをして孫権に迫る。

 

「なりません、雷火様。蓮華様の相手は私に勝つことが第一の条件……」

「思春も何を言っているのよ!?」

 

 周泰はどちらに加勢したものかと目を回し、ふと当のガイウスを見た。やたらと長身で碧い目で仏頂面の男。何を考えているのか分からず怖い。孫権と二人並んだら怖い顔が二つ並んでしまう。

 周泰はそっと甘寧に歩み寄った。

 

***

 

 続いてガイウスは孫権の滞在する屋敷からほど近くにある劉備の屋敷を訪れた。ガイウスは魏の陣営の中でもとりわけ蜀とは因縁の深い将だった。

 扉が開くと、幼子に間違えるほどに小さな武将、張飛が姿を現した。彼女はガイウスを見るや否やきっとまなじりを釣り上げて高らかに叫んだ。

 

「むっ! 夷荻校尉が何の用なのだ!?」

 

 あまり聞きなれない呼び名にガイウスが首を傾げる。

 

「ここは通さないのだ。帰れ!」

 

 しかし張飛は番犬ならぬ番虎のごとく大地に足を踏みしめてガイウスを通す気配はない。これは困ったと首をかいていると、屋敷の中から慌ただしく誰かが駆けてくる。

 

「鈴々!? 何をやっているんだ!」

「愛紗! 早く鈴々の武器を持ってくるのだ! こんなやつけちょんけちょんに伸してやるのだ」

「よさんか!」

 

 ごつり、と鈍い音が張飛の頭から鳴る。涙目になって崩れる彼女の上には美しい黒髪が冠を衝きそうな関羽の姿があった。

 

「義妹が済まない。――翠に用か?」

「ああ、いや。それもあるがまずはあなたの義姉君と話がしてみたかった」

「桃香様に?」

「思えば一度も言葉を交わしたこともない。いい機会かと思いまして」

「なるほど」

 

 地べたに座り込む張飛をそのままに、ガイウスは関羽の案内を受けて屋敷の中に立ち入った。いくつもの部屋が隣接している回廊を歩きながら中庭を見やると、ちょうど向こう側に誰かが歩いているのが飾り窓ごしに見えた。

 今日はここで会わなければならない人が多くいる。回廊は途中堂のある空間を跨ぎ、東庭の脇を通る。そして関羽は屋敷の最も北側の部屋の前でぴたりと制止した。

 

「すまぬがしばし待っていてください」

 

 関羽はするりと開いた戸に身を隠して部屋の中に入る。ガイウスはよく手入れされた桃の木がある庭を眺めてしばらくそこで待った。

 しばらくして、扉が中から開かれた。扉の傍に立つ関羽が、手をかざしてガイウスを内へ招く。

 

「は、初めまして――じゃなかった。えと、お久しぶりです!!」

 

 来客用の机に備えられた椅子に座って待っていればいいものを、劉備は入口のすぐ前に立って緊張した面持ちで待機していた。ガイウスが部屋に入ると同時に深く礼をするものだから、主賓客と認識していたガイウスもこれには戸惑った。

 

「桃香様。賓客が困っております。どうか、顔を上げてください」

「へっ? あ、ご……ごめんなさいっ」

「いえ。こちらこそ使いも出さず急な訪問になって申し訳ありません」

 

 劉備が謝ればガイウスが謝る。これでは日が暮れてしまいそうだ、とかつて自軍を苦しめた敵将の意外にも謙虚な姿に驚きながら、関羽は劉備たちをそれぞれの席へと促した。それから自分自身は劉備から少し離れて立っていようとしたところを劉備に促されて隣の席に座ることになった。

 最初に話を切り出したのはガイウスである。

 

「先の戦では主だった将に大傷などはないと聞いております。無事に陳留にいらしたことをお喜び申し上げます」

 

 赤壁の戦いでは関羽たち蜀の武将の多くは船上ではなく陸上にいた。元々呉と船上で連携するのは難しく、まず呉が川戦で魏軍を破り、陸へ逃れたところを劉備たちが追撃するというシナリオだったからだ。船上には諸葛亮とその数名の護衛だけがいた。

 諸葛亮の乗る船にはガイウスのガレー船が衝突したものの、背丈の低い諸葛亮は偶然にも積み荷にひっかかって川に落ちずに済んだのであった。

 

「あ、あの……西王秀さんは集賢臺に入られないと聞いたんですけど、本当なんですか?」

「はい」

「どうして……。あんなに素敵な制度なのに、雍州牧だった王秀さんが加わらないなんておかしいと思います」

 

 曹操が考えた新制度に最も関心を抱いて賛同の意を示したのは劉備であった。覇道を貫いてきた曹操なら、きっと厳格な法の下に中華を管理するのだろうと思っていた。

 しかしその口から出たのは、民衆の声を代弁する有力者たちが集って国の行く末を決めるという初めて聞く共和政ローマ初期の元老院の在り方だ。

 集賢臺という評議会に我こそはと手を挙げる人たちの中、劉備もまた夢中になって手や背を伸ばして参加の意向を示していた。

 

「はい。桃香様の言うとおりです。孔明からも聞いている。敵ながら優れた統治者であったと」

 

 関羽もまた真っすぐとガイウスの目を見てどうにかこの男を説得しようとしていた。その実直な忠義に、ガイウスはかつて魏の領土を通過する際に遠目に見た頃と何も変わらぬ彼女の本質を見る。だが、その期待に応えることはできない。ガイウスが返答に窮していると、劉備がじっと己を見ていることに気がついた。

 

「あ……ごめんなさい! 朱里ちゃんや翠ちゃんから、山の形まで変えちゃうすごく恐ろしい人だって聞いてたから……ちょっと、緊張しちゃってました。でも、実際に会ってみたら、なんだかすごく優しい目をしている人なんだなって……」

 

 思わず本音が口をついて出たのだろう。劉備ははっと我に返ると、「あっ。ご、ごめんなさい! つい、思ったことを口にしちゃって……!」と、顔を真っ赤にして両手をぶんぶんと振った。そのあまりに裏表のない様に、ガイウスの口元が、ほんのわずかに緩む。

 

「……恐縮です」

 

 魏の陣営で彼にそのような評価を下す者は、もはや誰もいなかった。重臣からは気安く扱われ、若い兵からは鬼か神、あるいは計り知れぬ何者かと畏れられている。ただの「人」としての評価が、彼の心に不思議な温もりを灯したかのようだった。

 

「でも、あの集賢臺のこと、本当にすごいと思います!  華琳ちゃんって本当にすごい。どうしてあんな素敵なことを思いついたんでしょう?」

 

 劉備の問いに、ガイウスは静かに頷いた。

 

 「……ええ。まさか一晩にして私の故郷――大秦の元老院をこの中華に合うように考えられるとは。優れた智を持つ方です」

 「元老院?」

 

 劉備の瞳が、子供のような好奇心にきらきらと輝き出す。彼女の興味は、複雑な政治システムそのものではなく、もっと根源的な部分に向けられていた。

 

 「あの、もしよかったら教えてくれませんか? 大秦のことを。そこに住んでいる普通の人たちって、どんなふうに暮らしているんですか?」

 

 その問いは、為政者としての純粋な探究心に満ちていた。ガイウスは、彼女の真摯な眼差しに応えるべく、故郷の風景を記憶の底から掬い出す。少しばかり瞳を閉じ、ゆっくりと語り出した。

 

「……そうですね。私の故郷はとても賑やかで、そして人々が安心して暮らせる国です。帝国の中心から、遠く離れた私の故郷の街にまで、石で舗装された立派な道が続いていて、商人や旅人が昼も夜も安全に行き交います。街には誰もが使える大きな公衆浴場があり、そこでは身分の高い者もそうでない者も、湯に浸かりながら今日の出来事や政治の噂話をしています。子供たちのための学校もあり、誰もが文字の読み書きを学ぶことができます」

 

 それはローマの五賢帝時代末期の都市であればどこでも見られる光景だった。劉備はガイウスの語る異国の街を空想を交えながら、手を胸に当てて聞き入っている。

 

「広場に行けばいつもどこかで音楽が奏でられ、芝居が演じられています。遠い国から運ばれてきた珍しい果物が並び、人々はそれを買い求めて家族との食卓を彩るのです。大きな争いごとは法廷に持ち込まれ、弁護士たちが言葉の力で解決します。力で全てを決める必要はありません」

 

 暴利をむさぼっていた塩商人を倒したことから立身した関羽は、法が民を守るために用いられていることに深く感心したのか、ただの同席者ではなくガイウスの語る物語の聴衆の一人となっていた。

 

「もちろん、国を守るために軍人が辺境で戦っています。しかし、そのおかげで、帝国の内側ではもう百年以上も、大きな戦乱のない平和が続いています」

 

 ガイウスが語る光景に、劉備はうっとりと目を細めた。民が、国の主であるという自覚を持つ世界。それは、彼女が追い求めてきた理想の、一つの完成形だった。

 

「すごい……。 誰もが、国のために。はぁ、私も一度でいいから見てみたいなあ。そんな、みんなが笑って暮らせる国……」

 

 ぽつり、と漏れた本音。それはこの戦乱の世に生きる彼女の、魂からの願いだった。そのあまりに純粋な響きに、ガイウスも、そして隣の関羽すらも、言葉を失う。

 

「と、桃香様! 何を……! 異国へ行くなど、そのようなことはあってはなりませぬ」

 

 我に返った関羽が、慌てて主君を諌める。劉備は、しまったという顔で、慌てて手を振った。

 

「あはは、ごめんね、愛紗ちゃん。本気じゃなくてついうっかり、というかなんというか。 私が皆を置いてこの国を離れるわけないよ」

 

 快活に笑ってみせる劉備。しかしその瞳の奥には、笑いとは裏腹の遠い理想郷への本気の憧れが、消えることなく揺らめいていた。

 ガイウスはこの心優しい少女とその身を案じる義妹を見て、曹操が平らげたこの中華であれば良い統治者の一人になるだろうと、劉備に会いに来た意義を実感した。

 

「私は――祖国に帰るので魏で働くことができないのです」

「えっ?」

「祖国というと……大秦か」

 

 二人ともローマの詳細は知らないが、途方もなく遠い国だということは理解している。滅多に、もしかすれば一生会うことが叶わないかもしれないと気が付いて、はっとした。

 

「翠ちゃんたちにはもう会いましたか?」

「いえ、これからです」

 

 劉備が勢いよく席を立つ。

 

「じゃあ、すぐに会ってきてあげてください! あの、今日だけじゃなくて帰るまでたくさんお話してあげてください!」

 

 深々と頭を下げて、劉備はガイウスに懇願した。関羽がすぐに窘めたが、劉備はガイウスが返事をするまでてこでも動かないつもりのようで、膝の上で握りしめた拳をいっそう固くした。

 

「わかりました」

 

 本当は劉備から益州のことを聞いてみたかったのだが、ガイウスは諦めて承諾するしかなかった。

 劉備の部屋から追い出されるようにして出たガイウスは、再び関羽の間で回廊の西側、さきほどガイウスがちらいと見た人影のあったところの一室を訪れた。

 部屋の中に招かれると、どこかむっすりとした様子の馬超と、苦笑いの馬岱が席について待っていtた。馬休と馬鉄は別の部屋にいるらしい。古馴染みの二人だけで良いだろうと席を外したようだった。

 

「先日ぶりですね。猛起殿」

「お、おう……」

 

 馬超の目線が右に左にと揺れる。

 

「お姉さまったら仕方がないなぁ」

 

 なぜ馬超がそのような様子なのか手に取るように分かっている馬岱が呆れて大きくため息をついた。

 

「聞いてよ。お姉さまったらさ、もう敵でもないしおば様も手厚く弔ってくれたから、前のように親しくしたいなんて昨日は話してたんだよ」

「た、蒲公英お前っ!!」

 

 過敏に反応した馬超が馬岱の口を封じようと手を伸ばす。しかし馬岱は既にひらりと座席から離れていて、ガイウスのすぐ隣に移動していた。

 

「戦以外じゃ久しぶりだね。……また凱植粛(ガイウス)って呼んでもいい?」

「はい。私の真名は凱烏にしましたが、どちらでも構いませんよ」

「そっか。じゃ、蒲公英のことも蒲公英って呼んでね」

 

 屈託なく笑う馬岱に、ガイウスはまだ漢に連れられてきたばかりの頃を思い出した。あの頃は馬超と馬岱、ガイウス。それにへラシュクというパルティア人の立派な男がいた。

 ガイウスの私室には西の方角の壁に一つの棚が設けられている。その上には一つの箱がある。その中身は西涼の土だ。木箱の表面には二つの武器が交差するようにナイフで刻まれている。よく見るとそれはローマ式とパルティア式の剣のようにも見えた。ガイウスは毎日のように新たらしい麦を供えては彼の魂が故郷とともにあることを祈っていた。

 

「あ、アタシのことも翠って呼べよな」

 

 顔は背けて表情は見えないが、間違いなく馬超の頬は桃のように赤く染まっているだろう。馬岱はその様子を見てくすりと笑ってガイウスの脇をこつりと突いた。

 

「分かりました。翠殿」

「どのは余計だ」

「では、翠と。本当に懐かしい。あの日寿成様に無理やり連れていかれなければ、今頃どうなっていたのでしょうね」

 

 きっと馬超たちとともに西涼連合の一員として魏に立ち向かったに違いないだろう。しかし自分一人が加わったところでは何も変わらなかっただろうと、もしかしたらこの屋敷に滞在することになっていたのではとガイウスはもしもに思いを馳せた。

 

「そりゃきっとお姉さまと凱烏がくっ付いちゃったり? あ、私ってこともあるかなあ?」

「な、なななな」

「蜀の中で唯一のおしどり夫婦として有名になってたりして」

「なんてことを考えているんだ蒲公英!! あ、アタシがこいつとく、くくくくっ付くなんてあるはずないだろっ!?」

 

 ようやく正面を向いた馬超はやはり顔を真っ赤にして唾を飛ばしながら馬岱を指して大声で悲鳴を上げた。「ふーん、どうかなぁ」なんて馬岱はガイウスの顔を下から覗き込む。小悪魔のような笑みがこの冗談に付き合えとばかりに漏れ出そうな笑い声を堪えてぴくぴくと震えていた。

 

「ふむ。翠と私か……」

 

 ガイウスもさすがに馬岱の意図に気が付きはしたが、それ以上の言葉は出てこなかった。

 

「なんだよ。文句あるのか?」

 

 さきほどまでの必死の否定はなんだったのかと、馬超が低い声を出す。さすがに男のほうから躊躇われてはプライドが許さないのだろうか。ガイウスは慌てて言葉を紡いだ。

 

「いえ、翠はたしかに美人ですし夫婦になりたいという人はいるでしょう。しかし私は――」

 

 美人、夫婦とガイウスが口にしたあたりから馬超の耳から顔が次第に赤く染まりだす。馬岱も初めて女性について語るガイウスの姿に見入っていたが、続く言葉に瞬く間に熱が冷めた。

 

「大秦に帰る予定なのです」

 

 今の今まで乙女として扱われることを恥ずかしがりながらも喜んでいた馬超とその様子を見て楽しんでいた馬岱は、最初何を言われたのか分からなかった。ただ帰るという言葉だけが耳の奥で木霊する。

 

「ど、どういうことだっ」

 

 先に我に返ったのは馬超だった。卓上に身を乗り出してガイウスに迫る。

 

「先の戦いでの褒賞を頂けることになったので華琳様にお伺いを立てましたら、許可を頂けました。海路で帰ろうと思っていますので、今は船の建造をお願いしているところです」

 

 平静に話すガイウスが静かな空間を満たす。馬超も馬岱も何も言わずにその言葉を反芻していた。

 

「そうか……。よかったじゃないか。うん、アタシはそう思う」

「お姉さま?」

「西涼は任せておけ。って今の州牧がいるけど、アタシたちも力になれるだろ」

 

 さきほどまで狼狽えていた乙女は消え、そこには代々土地を守ってきた勇士の姿があった。二人の目が正面から合う。透き通った琥珀色の瞳に、ガイウスは彼女の覚悟を見た。

 

「でしたら、私から提案があります」

 

 ガイウスが懐に手を入れる。からからと音を立てて取り出された竹簡が馬超の前に広げられた。

 

 「――西涼慰霊祭?」

 

 竹簡はほんの数枚だけのものだったので、馬超は手早くそれらに目を通して疑問を口にした。馬岱もその言葉に反応して竹簡を見ようと馬超の元に寄ってくる。

 

「はい。まだほんの草案ですが……長く混乱の中にあった西涼は久しく平和を享受しています。戦乱の終結を機にその混乱の中に散っていった方々の魂を鎮める儀式を執り行えればと思います。それには中原からは張州牧、西涼からは翠が代表となって取り仕切るのが良いと思います。寿成どのを公に弔って差し上げましょう」

 

 魏を去ると決めたとき、ガイウスの脳裏に過ったのは二つの墓であった。一つは人里離れたところにある馬騰の墓。もう一つはどこへあるとも知らぬ他の兵士とともに埋められてしまったへラシュクの墓である。

 かつては漢、そして魏の敵であった西涼連合の将兵の死など多くの者は目もくれない。しかしローマは融和の帝国である。既に魏の一部となった彼らの墓が毎年のように親族が弔問に訪れることのできないことの違和感がある。

 そもそもガイウスは漢という土地の死者の扱いに慣れるにはとても苦労した。北宮伯玉は平気で死者を野ざらしにし、曹操もまたあえて死者を大地に広く晒すこともあった。衛生観念に優れたローマでは決してあり得ない光景だった。

 

「実はこの案は私ではなく、軍師の風さんに手伝ってもらって考えました。大秦には毎年祖先の墓を訪ねる日があります。西涼の人にもそうして死者をゆっくりと想い出にしてもらいたいと考えていたところ、それでは漢の儀礼に従って戦勝の記念に西涼も魏の一部として分け隔てなく弔うことにすればよいと教えていただきました」

「おお、あの程仲徳とかっていう奴か。――でもアタシに務まるかな? お前のほうが異民族のやつらも言うことを聞くだろ?」

「いえ、翠でなければなりません。私の寿命はいずれ尽きます。後代につなげるためには翠が取り仕切って異民族を受け入れる姿を見せなければ」

 

 これがかつて我が家で明日を憂いていた男の目かと馬超は熱く語るガイウスの双眸を呆然と見た。将としての才覚を表して飛躍したのは戦って知っていた。しかし政のことを語るガイウスを見るのは初めてだった。

 これほど西涼を思う人間が中華を去ってしまう。そのことが惜しくて堪らなかったが、母が連れてきた泥だらけの男たちの姿を思い出して馬超は静かに息を吐いた。

 

「承った。お前がそれだけ言うならアタシに任せろ。だからお前は安心して家に帰れ」

「はい。お任せいたします」

 

 勢いのまま卓に頭を打ちかねないほど、ガイウスは深く礼をして馬超の元を去った。

 ただ一人、馬岱だけが不満げに口を尖らせていることには馬超もガイウスも気がついてはいなかった。

 馬超の部屋の扉を開けると、小さな少女たちが給仕姿でちょこんと立っていた。赤い眼鏡が印象的な釣り目の少女と、反対に柔和な目をした少女である。ガイウスはすぐに二人の正体に思い当たった。

 

「まだ時間ある?」

「もちろんです。文和殿、仲穎殿」

 

 二人は屋敷の入口近くの部屋を一緒に使っていた。隣には呂布の部屋があるというから安全面で心配はいらないらしい。

 董卓自らが淹れた茶を手に取ると、熱はほどよく冷めていて指先がじんわりと温まるほどの気の利いた加減になっている。ガイウスが洛陽の彼女の邸宅にいたころから全く変わっていない。

 

「お二人が無事であることは聞いていましたが、こうしてお姿を見られてようやく実感を得ました」

「ふん。せっかくアタシたちが逃がしてあげたのに、外の軍に捕まってるなんてバッカじゃない? ま、袁本初や公路のとこじゃなかったのは褒めてあげる」

 

 いきなり胸の前で腕組みをしながら賈詡がガイウスを詰る。とはいっても本心から言っているわけではないのは明白だった。

 

「詠ちゃん、本当は桃香ちゃんのところに来ていればよかったのにってずっと言ってたんですよ」

「月!?」

 

 劉備の下に拾われていても、おそらく悪い扱いはされなかっただろう。しかし数に物を言わせるローマ流の戦いは出来なかったであろう。また、程昱のようにガイウスを支える人物にはきっと恵まれなかっただろうから、今のような将としての活躍はできなかったに違いない。

 そうガイウスが告げると、賈詡が腕を振りかざして反論した。

 

「お前の才を最初に見出しのはボクなんだ! いくらでも補佐をして桃香の下で一番の将にしてやれたんだ! ふんっ」

「文和殿は仲穎殿から離れないでしょう?」

「当り前じゃない。あんたなんてついでよ、ついで」

 

 それでも何かと世話を焼いてくれそうだ、とガイウスは茶を啜りながら董卓の方を見た。いつものように怒りのポーズを見せる賈詡を微笑みながら窘めている。

 さきの洛陽の戦いで、あれほど諸侯に踏みにじられたというのに今なお民衆のためにと劉備の下で働いていたというのだから頭が下がる。

 そのとき、ガイウスの脳裏に一つの妙案が浮かんだ。

 

「仲穎殿」

「はい?」

「よかったら大秦に特使として来ませんか? 大秦は民衆の教育に優れ、政も法も中華より先に進んでいます。あなたのような方が大秦の制度に触れればきっと魏のためにもなるのではないでしょうか」

 

 ガイウスの帰郷の船には魏の特使も同乗する予定である。これを機に東西の大国が国交を結ぼうという曹操の魂胆である。

 

「はぁ? 月をあんたと一緒の船になんて乗せるわけないでしょ?」

 

 すぐさま噛みついてきた賈詡に対して、董卓はしばし目を伏せて考え込んだ。その様子に賈詡が意外に思って振り上げていた拳をすとんと下ろした。

 

「――ごめんなさい。やっぱり、私は華琳様から託されたお仕事があるから行けません」

「そうですか。いえ、華琳様の命に逆らうような提案をした私が悪いのです。お許しください」

 

 董卓は集賢臺へと曹操から最初に名を呼ばれていた。それだけ期待をかけられている。実際、その後の会議でも何度も話を振られてその意見を求められていた。

 長く劉備の影で働いていた彼女は、ようやく陽の当たるところで民のために働けるようになったのだ。

 

「代わりに詠ちゃんが行ってみる?」

「嫌よ。月の頼みでもお断り」

「これは手厳しい」

 

 三人は湯の尽きるまで茶を飲み語らった。結局、劉備の邸宅からガイウスが帰るころには宅門にいた張飛の姿はなく、路の果てに日が沈もうとしていた。




ガイウス、過去を辿る。
原作よろしく董卓ルートや馬超ルートもあったかもしれない。
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