そしてようやくガイウスが恋姫キャラクターと接触します。涼州といえばもちろん……?
金城は荒れに荒れた。しかし朝廷が車騎将軍の張温を洛陽に呼び戻したことで、官軍の攻めは止んだ。
張温は荊州閥の人間だが曹操の祖父、曹騰の推薦を受けて司空に至った人物である。宦官との関係も深い。彼が呼び戻されたのは宦官がらみの事情も関係しているのだろう。
さて、話を涼州に戻す。さきの戦での功罪が問われることになった。首領である韓遂は辺章、北宮伯玉、李文侯の三名を斬首した。理由は明らかではない。
しかしこの処遇によってガイウスたち奴隷は新たな軍に編成されることになる。当然韓遂の軍である。扱いはただの奴隷兵と同じく、最前列で肉の壁として突撃することを望まれる。いよいよガイウスとヘラシュクにも本格的な危機が近づいてきたというわけだ。
さらに悪いことに、翌年刺史の耿鄙が任じた治中従事史(刺史の補佐)程球が不正を行ったことによって羌族が反乱を起こした。これに呼応して韓遂らも兵を隴西郡にむけることになり、ガイウスらもこれに従軍することになる。
***
闇が迫る大地で、火の粉が弾ける音を聞きながらガイウスは簡素な兜を脱いだ。先の戦で官軍から剥ぎ取ったもので、ないよりはましという程度の代物だった。
「とりあえず今回は生き伸びた。幸運だった」
それを聞きながら、物静かな益荒男ヘラシュクは、薄く不味い酒を舐めながら今後の展望を考えている。敵が戦わずに降伏したのは刺史の援軍が見込めないほど金城に近かったからだ。より深く入り込めば反撃もあるだろう。背後の朝廷からの再攻撃も視野に入れておかねばなるまい。
「この国は不思議だ。なぜ一度平定した領土で戦を繰り返すのだろう」
「それはここがお前達にとってのゲルマニアやブリタニアだからだ」
「ふむ。辺境の部族による抵抗か。ハドリアヌス帝の偉業がごとく壁を作ってもなお足りないのか」
ハドリアヌスの長城はイギリスにある防壁である。ブリタニア属州すべてを掌握しきったわけではないローマは、南部の植民地を守るために長大な防壁を建築した。まさに万里の長城と同じ役割である。
「パルティアには以前にも王朝があったが、我々によって滅ぼされた。既に風前の灯火ではあったがな。もしこの戦争で漢が滅べば同じ騎馬の民による大帝国が生まれる」
「しかしそうは行かないだろう。平地の拠点がない。それさえ取れればあとは呑み込めるかもしれないけれど」
ガイウスも顔をしかめながら酒を舐めた。ぐいと飲み干してしまいたかったが、支給されたのがほんのわずかだったので、このように飲まねばならない。
ヘラシュクは空の盃を放り投げて大地に身を預けた。
「なるようにしかならん。俺たちは奴隷だ」
***
韓遂軍が南下を続けていると、北上してくる軍がある。耿鄙である。部下の反対を押し切って狄道県へと進軍してきていた。韓遂はせせら笑った。
「涼州に送られてくる刺史は無能ばかり。こいつも例外ではなかった」
韓遂はすでに耿鄙軍のものと内通していた。それは耿鄙が任地に着いて間もないゆえの信頼の薄さによるものだった。耿鄙と程球はすぐさま処断された。
この機を逃すまいと、韓遂は軍を漢陽郡の冀県に向ける。ここは漢陽郡の要であり、三圃に隣接したこの郡を掌握するために必須の土地である。
城攻めは順調であった。味方の士気も高くガイウスたちは無理をしなくても野戦は容易に勝つことができた
しかし城壁を越えようとなると、梯子を掛けての戦闘には奴隷が配置される。矢や石、油が降ってくる中、ガイウスは丸盾を頭上に掲げてそれを凌いだ。遅れれば尻を矛で突かれるので駆け上がる。隣の梯子のヘラシュクと連携しながら敵兵を引き摺り下ろし、殴りつけ、ときには腰に下げた石を投擲して昏倒させる。
「ここか。腕の立つ兵のいる壁というのは」
城壁に辿り着き、敵兵と切り結んでいたところに快活な声が響いた。長身に栗色の髪をなびかせ、長大な槍を軽々と手にした女が城内の階段から姿を現したところであった。
「こいつらはアタシの獲物だ。お前たちは他の雑魚を蹴散らしな!」
彼女の一喝でガイウスたち三人の周りに空間が出来る。よほど腕が立つと知れ渡っているらしい。
「軍司馬、馬寿成。お前たちも名乗れ」
「ガイウス・リキニウス・アウス」
「ヘラシュク」
兜に隠れて気づかなかったらしい。異国の名前に女――馬騰はぎょっとした。
「そうか。異国の奴隷か! そいつは欲しいな!」
「手加減、求める」
「それは知らん!」
鋭い突きに反応できたのはヘラシュクだった。ガイウス目掛けて放たれたそれに剣を当て、軌道がそれた槍は盾を掠めて彼女の手元に戻る。
ガイウスは躊躇なく盾を前方に構えた。剣は高く突き出す構えで盾から覗かせる。いつでもカウンターを叩き込めるぞ、と無言で圧を発する。ファビウスは斜め後ろで飛びかかれる準備をしていた。もちろん、彼に攻撃が行けばガイウスは盾を少しずらせばいい。
「ハイッ!」
穂全体をしならせて、槍は頭上から落ちてくる。ガイウスはそれを盾を頭上に掲げることで凌ぐが、するりと
盾を滑って戻った槍が今度は刺突の構えで胴を狙ってくる。渾身の力で剣で叩き落とす片隅で、ヘラシュクが馬騰へ駆けていく。彼女が槍を戻すのが速いか、彼の剣が到達するのが速いか。しかし彼女は半ばほど槍を戻したところで、身体を旋回して槍の石づきを剣に合わせた。
「アアアァ!!」
ガイウスは盾を掲げて突進した。回転の力で凪いだ槍が来ると理解していたからだ。
「助かった」
「いいさ」
わすが数合のことだが、二人はかなり疲弊していた。このままでは間違いなく殺される。退路を見つけるしか活路はない。
「梯子へ飛ぼう。俺が梯子を倒す。お前は梯子の中ほどに飛び移れ。途中で俺もそちらへ飛ぶから受け止めろ」
「それしかなさそうだ。敵前逃亡にならなければいいが」
「この怪力だ。吹き飛ばされたと言っても疑われないだろう」
全ての会話はギリシャ語で行われている。しかし馬騰はそれも止める様子はない。むしろ策を練って挑んでくるのを楽しみにしていた。
重心を下げたガイウスの瞳が爛々と輝く様を盾の縁から見て、馬騰はついに動くことを察知した。
「待ってたぞ! 来い!」
ヘラシュクが前方に駆け出した。馬騰の槍を握る手に力が入る。しかし彼はガイウスの背中を蹴ると反動を利用して猛スピードで背後に転進した。ガイウスの張り詰めた脚はそれを耐えるためのものだった。
バックステップで後退していくガイウスに馬騰の槍が襲いかかる。しかしそのときにはヘラシュクは梯子に群がる兵を斬り伏せ、中空に躍り出ていた。
「来い!」
馬騰の槍を受けたガイウスは足の力を抜き、その勢いで後ろへすっ飛んでいく。そして梯子の中頃に着地すると、今度は梯子の先端にいたヘラシュクがそこへ飛び込む。数瞬後、二人は土煙の舞う大地の上でなんとか生きていた。
「逃げられたか。まぁ殺さないですんで良かったと思うさ。ウーン、しかしするとどうしたものか……」
馬騰の見渡す限り、なんとか城壁への侵入は阻止していたが、ギリギリの戦いを繰り広げる兵たちがいた。援軍の期待できない籠城に活路なし。これは太守傅燮の人徳ありきの戦いなのだ。
やがて兵糧はつき、両軍からの助命嘆願を拒んだ傅燮は戦死する。馬騰は彼を惜しみながらも、胸中は槍を交えた青年二人で満ちていた。
***
馬騰の武勇は韓遂の耳にも届いていた。しかるに、彼女を相応の地位に置いて兵を率いらせようと考えるのも当然のことだ。
「お前のところの奴隷を二人くれ。報酬はそれでいい」
呼び寄せた馬騰から珍妙な要望を聞いて、韓遂は何を言われたのか理解できなかった。しかしその二人を呼び出すと、ようやくその理由に気づいた。ここまで生き延びてきて身についた戦士としての貫禄、そして何より異人である。
ただの奴隷兵の中に宝があった。これを死なせていなかったことに韓遂は安堵した。しかし馬騰にくれてやるには価値がありすぎる。洛陽を知る韓遂はそう判断した。
「譲渡はできん」
「なに?」
剣呑な空気に衛兵たちが息を飲んだ。
「お前はおそらくこの者たちの真の価値に気づいてはいない。だが全く無為にするのも勇将への礼を失する。聞いたところ言葉が不自由らしい。お前のところに預けるので教えて欲しい。その間は好きにしろ」
「ふぅん。ま、アタシとしては理由次第で自分のモノにさせてもらうよ」
「構わん。きっと納得する」
向かい合う二人は殺し合いの最中のような殺気をぶつけ合っている。そのくせ韓遂は仏頂面で馬騰は笑みを浮かべている。兵は戦々恐々とし、ガイウスとヘラシュクは蚊帳の外だった。
そうして馬騰に手招かれて、二人は冀の中にある屋敷へ辿り着いた。先日殺し合った相手に気安く接せられるのは不思議だが、それはガイウスとヘラシュクも似たようなものだ。ローマ人とパルティア人なのだから。
「おう、帰ったぞ」
「母様!」
喧しい足音を響かせながら、少女が土間へ降りてきた。凛々しい目に馬騰に似た風貌の少女は、ガイウスたちを見てくりくりの目を見開いた。
「だ、誰だそいつら! ま、まさかアタシたちを慰み者にするためにやってきた男たちなんて……」
「それはないでしょ。お姉さま。どう考えてもおばさまのほうが強いじゃん」
もう一人、柱の陰からひょこりと姿を現す。
「おう。こいつらは猛起と伯瞻。アタシの娘と姪さ。んでこっちは……なんて名前だったか?」
「ガイウス、ヘラシュク」
「うーん。わかんねぇな!
あっはっは、と声を上げて笑う馬騰。ヘラシュクを除く三人は珍獣を見るような目で彼女を見ていた。
「いや〜。どういう人達かは知らないけどさ、さすがに可哀想というかなんというか。おばさま、蒲公英たちに任せてよ」
「おう。それまでは烏と粛な。二人とも異国の人間だから言葉が分からん。烏は少し分かるからそっちと話せ」
それだけ言うと、馬騰は屋敷の奥へと引っ込んでしまった。おそらく酒を浴びに行ったのだろうと判断して、馬岱は周囲の三人のことを考えた。
(お姉さまは完全に分かってない。粛さんも。そうなると……)
馬岱の視線がガイウスと合う。向こうも同じ結論を出したようで、軽く頭を下げて軒先を指さした。どうやらそこで話し合おうということだと判断して、馬岱はとりあえず固まっている従姉妹を動かすことにした。
「お姉さま。ここじゃなんだし、とりあえずお茶を淹れてきてよ。簡単に事情は聞いておくからさ」
「あ、ああ。そうか! 悪いな、蒲公英! じゃ、アタシは行ってくる!」
そそくさと逃げるようにして去る従姉妹に馬岱は白い目を向けた。苦手なことは心底ダメな人である。
さて、ガイウスもヘラシュクに事情を説明し、三人は土間に面した床に腰を下ろした。
「烏さんはどのくらい言葉が分かるの?」
「生活にいる、少し。軍の命令は分かる。難しいのは分からない」
「ふーん。さっきの言葉は全然違うのにすごいなあ」
馬岱は馬一族の中でも特に賢い。勉強は苦手なのだが、人懐っこいので昔から大人とよく喋っていた影響だろう。あとは彼女の趣味が少々頭を使うものだからかもしれない。ガイウスの話し相手としてはもってこいだった。
一方馬超はそろりそろりと茶を運びながら話を聞いていた。とりあえず全く話が通じないわけではなさそうなので、未開人との身振り手振りでやりとりにはならなさそうで安堵した。
「茶入ったぞー」
「はいはい。立ち聞きは済んだ?」
「な、なにを言うんだ!?」
「にひひ。貸しだからね」
大げさにウインクを飛ばしながら寄せていた顔を離す。急に赤く染まった馬超の顔に戸惑ったガイウスだったが、さきほどの立ち振る舞いからして感情表現が豊かな娘なのだろうと気にしないことにした。
右手から馬超、ヘラシュク、ガイウス、馬岱の順に並ぶ。全員無手ではあるが、有事の際に囲まれないよう馬岱がそれとなく誘導していた。
「えーっと。そうだ。名前だ。流石にさっきのじゃ音を拾っただけで動物の名前みたいだから、ちゃんとした名前を教えてよ」
会話の糸口に馬岱が選んだのはさきほどの名前の剣だった。ヘラシュクの粛はともかく、ガイウスはイントネーションのあるウスを拾っただけに過ぎない。おまけにスの子音は消えていた。
「ガイウス・リキニウス・アウス。ガイウスが名。リキニウスが一族の名。アウスが家族の名だ」
「へ? へ? が、がうー。りっゆうー、あうー?」
「違うだろ。げいうーすー、りくゆーすー、あうーすーじゃないのか?」
漢の時代の人名は名字を含めてさほど多くはない。ウスやニウスという音は聞き慣れない。辛うじて馬超が嵩のような響きを聞き取りあてがった。
「難しいか。ガイウスでいい」
「がい、うー、すー。凱植粛?」
「音だけなら近いけど、アタシたちには三語の名前は馴染みがないからなぁ。ま、アタシたちが呼ぶだけならいいだろ。さて、次はお前だが……」
馬超はヘラシュクを見た。瞳は落ち着いた光を讃えている。実践で刻まれた傷に隆起した肉体。漢には珍しい男の猛者だった。
「強そうなのがいいな! うん!」
「でもでも〜。 えっと、凱植粛さん。この人の名前は?」
「ヘラシュク」
「らとしゅの音が強いな。
「そもそも西の人だしね、お姉様」
二人の長い問答の末、翡刺熟という呼び名に決まった。シュクの発音に揉めたことが長引かせた要因の一つであるが、結局シュウという音の熟に収まる。翡、刺と剣呑な文字に続く文字のバランスの悪さは妥協することになった。
ちなみにガイウスはカイウースーと読める当て字になっている。ガイではないのは漢ではあまりない音だったからだ。その後は彼の理知的な様子から誠意(植)と恭しい(粛)という意味の文字を使った。
「これなら母様も変な呼び名を使わなくても呼びやすいな」
「ありがとう。音似てる。練習したい」
「へへっ。任せとけよ」
名付けという儀式によって、馬超は不思議と二人との距離が近づいた気がした。
***
馬騰の家に滞在するにあたってガイウスは馬岱とヘラシュクは馬超と過ごすことが日常にあった。
ガイウスは家の中の物や動作から言葉を学び、次第にその場は市に移る。そういうときの指導役はもっぱら馬岱が受け持った。馬超が馬岱に輪をかけて勉強が苦手だからというのも理由の一つだが、ヘラシュクと手合わせをするのが楽しいという単純な理由がある。
「漢にもパンがあるのか」
「饅頭のこと?」
「でも何か違う。窯で焼かないパン……」
西洋のパンはポンペイ遺跡から明らかになっている。スペルト小麦と発酵種を主な原材料に用いているが、味付けに蜂蜜やケシの実を使う。
一方饅頭も原材料は似ているが焼かずに蒸すのが特徴だ。そのまま食べることも多いが具を包んだり挟むことが多い。
「姉様は肉を挟んだ饅頭が好きだよ。蒲公英も好きー」
「ふむ。パイに似てる」
居候のガイウスは馬岱の好意に甘えて歩きながら饅頭を頬張った。表面から柔らかくしっとりした生地は新鮮った。
「む。あれ、シルク?」
ガイウスが目ざとく見つけたのは生地問屋の軒先に飾られた小物であった。タイやリボン、ショールなど、衣服の端切れで作られたものだろう。
「わぁ、珍しいね」
大秦ではシルクはセリカのものと信じてる。絹という意味。クシャナや月氏の策だろう」
「うわー。商魂逞しいね」
「西域は商い上手い」
一通り品々を眺めている馬岱の視線は、頻繁にタイに向かっている。しかしガイウスには手持ちも貨幣に変えられる物もない。結局二人は少し市を散策した後、早めに解散した。
***
ガイウスと馬超の関係にも例外はある。それは西の大帝国ローマに伝わる英雄譚の語り聞かせである。ガイウスにとっては言葉の練習になったし、馬超にとっては祖先に英雄を持つ者として強い憧れがあった。
「今夜はアキレウスの話。この人は前に話したヘラクレスと同じ、大秦より古い国の英雄」
この頃になるとガイウスの言葉は随分上達していた。そのため、馬超たちはローマの話を聞けるようになったのだ。
「数多の試練を乗り越えた超人だな!」
「そう。アキレウスは今から何百年も前の海を挟んだ国同士の戦で活躍した人だ。敵王の子がアキレウスの国の姫を攫ったから。でも敵の都を包囲しても十年攻略できなかった」
中華にも妻子を人質として預ける文化がある。それらが戦の引き金になることもある、というのは戦国時代にあったかもしれないと馬岱はぼんやり考えた。
「十年! 兵糧はどうしたんだ?」
「さて。都市の中に畑があった? 敵も兵糧に困った。十年はずっと戦えない」
神の子という概念は中華にはないので、仙人に力を与えられた子という説明でアキレウスの不死身を説明する。若きアキレウスの精神的幼さと親友の喪失。怒りに打ち震えた彼は敵将ヘクトルを一撃で倒し、引きずり回した。しかしベクトルの父の頼みで遺骸を返還するという徳を見せるシーンには馬超はそれでこそ武人だと大いに満足した。
しかしどれだけ無敵の身体を誇っても、アキレウスは弱点を突かれて呆気なく死んでしまう。
「すなわち、生ある者は必ず死ぬ。猛将勇将も変わらない。猛起は気をつけるべき。恨みのために命を削るような真似をしてはいけない」
ガイウスは単純明快は冒険譚の間に、こうした教訓めいた話を混ぜてくる。秦が呆気なく滅んだように、国が違えど過ちは尽きない。
「ああ!」
馬超は白い歯を浮かべて快活に笑う。しかしこの後の戦乱で彼女は一族のほとんどを失うことになる。
***
平和なときは長く続かない。これから動乱の年月が待っている中華においては特に顕著である。北東では南匈奴の反乱が起こっており、黄巾残党が各地で蜂起している。益州では刺史が殺されたと聞く。宦官弾劾を企む韓遂にとって、今が好機である。
「翡刺熟を連れて行くぞ」
夕食のとき、まるで碗に汁をすくってくれと言うくらいの軽々しさで馬騰は告げた。
「へ? いや、でも母様。こいつらはなんか珍しいから戦には連れて行かないんじゃなかったのか?」
「うむ。だがそれは凱植粛だけでいいらしい。何よりアタシが戦って感じた。こいつは戦士だ。ここにいるよりいいだろう」
とうのヘラシュクは黙々と肉を口に運んでいる。奴隷に決定権はない。ならば生き残るために強くなるだけだというのが彼の信条である。
「本来なら凱植粛と二人合わせてこそ強いのだがな。そこは文約のやつがうるさくてな」
「たしかに……凱植粛さんは賢いし綺麗だし」
馬騰は酒を豪快に煽りながら、二人の様子を横目で覗き見た。どちらも冷静だ。やはり修羅場に慣れている。
無駄に命を失わせるつもりは毛頭ない。存分に力を奮わせて、堂々と連れ帰ってくれば良いのだ。
「まずは陳倉県から攻めることになる。秋に出立だ。翡刺熟、鈍った身体を鍛えておけ」
「ああ」
馬騰の予告どおり、収穫を終えてすぐに侵攻は始まった。今回の大将は古株の王国である。進軍は首尾よく進み、まもなく陳倉は包囲された。
これに対して朝廷は皇甫嵩と董卓に二万の兵を預けて対処に向かわせる。董卓が速やかに攻撃して陳倉を解放しようとしたのに対し、皇甫嵩はそれを嗜めて王国の軍の疲弊を待った。
包囲は80日も続いた。しかし何事にも限界はある。
「潮時か」
「うむ。兵糧も心もとない。次に備えよう」
王国軍が退却を始めると聞いて、皇甫嵩は好機と見た。
「いけません。今攻めては危険です」
「いいえ、董将軍。ここで何かを得ないと朝廷に示しがつかないの。これは政治のための追撃なのよ」
董卓には理解できなかったが、軍師賈詡は納得しているようで異論を挟む様子はない。陳倉を奪還しただけでは赤字なのだ。出兵した分の利益を朝廷に差し出さねば自分たちの身が危うい。
「じゃあこっちからは華雄とその軍を貸すわ。ボクたちは陳倉の復興作業をしてるから、よろしく」
「お心遣い、感謝するわ」
これで名目上は董卓も追撃に参加したことになる。賈詡の抜け目のなさに皇甫嵩も内心苦笑をこぼした。
一方退却する王国軍であるが、涼州兵とはいえすべてが騎兵というわけではない。行軍速度に差が出るのは必然である。歩兵を逃がす周囲に騎兵を配置し、迫る敵軍に当たっては退くを繰り返す必要がある。しかし最悪の場合には人より馬のほうが価値が高いので、歩兵を捨てなければならない。当然、身分の卑しいものや新兵、志願兵が最後尾にあてがわれる。ヘラシュクもまたその中にいた。
「弓兵、用意! 斉射のち歩兵は駆けよ!」
「是! 弓兵、番え……今だ、射て!」
頭上を矢が通り過ぎていく。これが途切れる頃には駆けなければならない。さもなくば後ろの兵から矛で一突きにされるだろう。ヘラシュクの目には前方から敵軍の矢が洪水のごとく降ってくるのが見えた。頭上に盾を構えて一気に走る。矢の着地点を過ぎるまで堪えればひとまず安全だ。ここで躊躇えば間違いなく死ぬ。隣にいた奴隷兵の肩を、そして胴を次々と矢が襲いかかるのを見て、ヘラシュクは猛然と駆けた。
不思議と恐怖はなかった。冷静に皇甫嵩軍の歩兵に剣を振るいながら考えていたのは、同じく西方からやってきた青年のことであった。長い奴隷生活で薄汚れた身なりに似つかわしくない燃えるような瞳。大事を成す奴だと直感した。
思考が逸れ過ぎたためか、ヘラシュクは一人敵軍の中に深く入り込んでしまっていた。それほど優れた強い兵である証だったが、味方が勢いだけで連勝してきた弱兵であることは彼にとって不幸なことであった。
「強い男がいると聞いてきたが……確かに図体は大きいな。どれ、ワタシが試してやろう」
馬に乗って兵をかき分け現れた女は、驚くほど巨大な斧を軽々と振ってヘラシュクの前に降り立った。
「我が名は華雄。一兵卒ながら単身ここまで乗り込んだ勇猛を賛えてワタシが斬ってやる」
「……ヘラシュク」
ここまで漢の国にはおそろしく強い女性がいることを彼は知っていた。自軍の将である馬騰はパルティアの将軍など比べるべくもないほど巧みに馬を操り、敵を切捨てる。そして華雄にも同じような死の予感を感じている。
人の胴を容易に剪断できると確信するほどの巨大な斧が高く空へ掲げられる。陽光を反射する刃に目を細めるのと、それが豪速で接近してくるのは同時だった。まっすぐに迫る斧に盾も構えずに横に全力で跳ぶ。受け身を取って目線を華雄へとやれば、愉快そうに唇を歪ませて、地面にめり込んだ斧を軽々と抜くところであった。
「どうした。次が往くぞ」
斜め冗談から横薙ぎの一閃。身を屈めて盾を掲げれば、左腕ごと持っていかれそうな衝撃が襲う。しかし斧を振り切ってがら空きにになった半身は目と鼻の先にある。
「Ahhhh!」
渾身の一飛びで剣を真っ直ぐに構えて突っ込んだ。やけに露出の多い女の内蔵を一撃で穿つ。ヘラシュクにはそれしか勝ち目はないと思えている。しかし、華雄はそれまで斧の重量を支えていた力を抜き、ふわりと宙に浮いたかと思うとヘラシュクの剣の横っ腹を蹴った。
「ははは! よい気迫だ! 貴様が異国の民で漢の臣でないことは残念だが、羌族の鎮圧と聞いて落胆したワタシに少しは希望を与えてくれた。本陣にはもっと強い奴がいるのだろう? ならば少しは期待しよう」
ヘラシュクは陽炎のように彼女から漏れ出る気迫を幻視した。構えなければと思ったときには抉られた大地が視線の先にあり、目前には今まさに振り切らんとする大斧があった。
斬られた、と回転する視界の中に自らの首から下を見つけてヘラシュクは理解する。残された時間に、故郷のことを思い、ともに戦った奴隷兵たちの安否を考え、宿敵ローマの青年を思った。
己より遥か遠くから若くして奴隷の烙印を押されて遥々東の果ての漢まで共に来た青年。まだ若いのだ。運が良ければ再び故郷の土を踏むこともできるかもしれない。
アレクサンドロス大王はマケドニアからパキスタンまで東進した。かの大王より東で果てるのは栄誉ではないか。湧き上がる充足感を抱いて、ヘラシュクは漢の地に眠った。
世界史を選択した方が苦労したであろう人名。ローマ人は名前・氏族名・家名(・称号)で構成されます。
解放奴隷の場合は名前・奴隷のときの主人の名前・奴隷の名前が代々受け継がれます。なのでガイウスの家名はアラブ人名だったりします。
ところでアキレウスのくだりが合ってるのか不安です。