この頃の史料は少なく、人名もあまり詳しく調べられなかったのでパルティア関連の書籍に出てくる男性名をお借りしました。
韓遂らが敗れたという報は早馬に乗って涼州全土を駆け巡った。彼らはなおも戦を続けようとしたが、次に祭り上げた閻忠はすぐに病没して大将が不在となる。
韓遂は元々表立って名を上げるのを嫌う男であることはこれまでにも明らかだ。しかし負ければ首を斬られるのが明らかな地位に進んで就くものはいない。馬騰は穏便に戦を集結させることを考えるようになった。
「猛起様へ文が届いております」
金城の館へ馬騰からの報せが届いたのは、陳倉での敗戦より半月は経ってからのことだった。その後も朝廷軍とにらみ合う形となっていたが、戦線は涼州まで後退したので朝廷軍も無理には攻めてこなかった。
事実上のトップである韓遂と馬騰は敗戦の理由を互いに求め、次の方針を決めるにいがみ合うようになっていることが文には書かれていた。
そして肝心なのは、今後三輔へ侵略しないのであれば恩赦を与える旨が伝えられたという。ここで必要になるのは大将首と賠償金であるが、涼州刺史の度重なる横暴を誅したことに免じて韓遂と馬騰はじめ涼州豪族を現地官僚に遇するという措置である。明らかな懐柔策であるが、反乱に乗じたほとんどの豪族はこれで満足した。そうなると兵は集められない。韓遂らも諦めるしかなかった。
賠償金については、朝廷の目論見は長らく封鎖されてきた西域からの商品が密かに流れてきているという情報があり、明らかにそれが目的である。
当然そこには奴隷も含まれる。
「凱植粛も洛陽に送られるのか……」
馬超の声は暗い。宦官には男色家もいると聞くし、芸をさせては飽きたら殺すという者もいるという。どこかの商家の接待に使われるのも似たようなものだ。母、馬騰のように彼の知識に目をつける人間がどれほどいるのか、馬超には皆目検討もつかなかった。
「も、もしかしたら今よりいい暮らしができるかもしれないんだしさ! 悲観するのはまだ早いよ!」
「そうかな?」
「うんうん。商家のお姫様に見初められちゃったり?」
努めて明るく振る舞う馬岱も今は痛々しい。この数ヶ月で三人は親密になりすぎていた。ガイウスにとって二人との関係は稀有なものだ。奴隷は互いを信用しない。より良い条件で買われるために策をめぐらす者や、逃亡のための捨て石にしようと近づく者もいた。襲撃の際に誰かを盾にするのは当然のことだった。例外はヘラシュクだけだった。
馬超にとっては遥か西の英雄譚を知る語り部であったし、馬岱に至っては四六時中ともにいた。
「私は大秦からここまで生きた。だから洛陽でも何とかする。君たちが会いに来れば私は嬉しい」
「そうか。そうだよな!」
「私塾に通って太傅に行けば会えるよね」
この時代、洛陽に行くには官僚になるための学問を修める太傅に行くのが一般的だった。そのためには地元の私塾で推薦状を得る必要があるが、今の馬騰なら容易いだろう。
「問題はアタシが勉強は嫌いだってことだ!」
「そりゃ蒲公英だって嫌だよ。でも文約様だって中央から来た官吏みたいに話すから威厳があるんじゃん」
「そうか? 普段はふつうに話すだろ?」
「それは使い分けてるの。いつも親しみのある同郷の人が、兵の前では偉い人と同じ言葉で話せば風格が出るでしょ?」
そういう馬岱はあぐらをかきながら指を立てて講釈を垂れ、馬超は片膝を立てながらウムウムともっともだと腕組みをして聞く。作法を修めるのに多大な苦労を要するのは間違いなかった。
***
しばらくして馬騰が屋敷に帰宅すると、ガイウスを連れて「では言ってくる」とだけ告げて足早に街を離れた。これには馬超たちも呆気に取られて例の私塾の話をする間もなかった。
「行っちまったな」
「おばさまの馬鹿! もう……もう!!」
二人の姿はあっという間に小さくなり、馬岱が地団駄を踏んでいる最中に視界の彼方へ消えていった。
「そんなに急ぐのか?」
既に街を出てしばらく経つ。
「いや……あんまり長居しても互いにいいことはないだろうと思った」
「そうか」
そうかもしれない、とガイウスは思った。この措置を告げる文が来てから二人はそわそわし始めた。馬岱の悪戯は頻繁になったが少し優しくなったし、馬超はやたらと鍛錬を共にしたがる。あれは彼女なりの優しさで、せめて力を少しでもつけろということだったのだろう。
二人は漢陽まで一気に駆けた。馬騰か韓遂いずれの用意かは分からないが、換え馬が途中にあったのでスムーズな旅だった。
よほど急いでいると見える。朝廷の気が変わらないうちに賠償を済ませておきたいのだろう。武威から荷馬車が来たのは、ガイウスたちが漢陽に着いて二日後のことだった。
それまでの間、ガイウスはといえば何度か服を着せ替えられ、幾つかの作法を教え込まれた。相手の将軍に面会したとき用、宦官用、朝廷の重鎮用、帝用だ。とはいえ帝に謁見したことのあるものなどいないので、ひたすら平伏し、顔を見ず、自ら話すなというだけではあった。
「ほう。おかしなようで存外似合っているじゃないか」
出立の日、韓遂がひょいと顔を出してガイウスの格好を見て褒めそやした。これから彼は先頭について董卓将軍に賠償の品々を引き渡しに行く手はずになっている。その前に荷物の確認にやってきたというわけだ。
「もう一人を失ったのは惜しかったが、兵は残った。今後の涼州をまとめていくために兵は必要だからな」
「文約」
「おう、気がきかなかったか。だが俺もお前の行く末は分からんのだ。祈れ」
突き放すようだが、これが奴隷の定めである。戦奴とは異なる価値を見出され、いっとき穏やかな日々を過ごせた。ガイウスはそれを幸運だとは思えども、これからの日々を悲観してはいない。
(私はローマ人だ。地中海を制して安寧をもたらした祖先の血を、神々を信じている。ならばこの試練いかにしても乗り切ろう)
パルティアでもクシャーナでも、涼州でも死線は潜った。それでもガイウスは生きている。
「では俺は先へ行く。寿成も来い。見張りの差配は英に任せてある」
「そうか。では凱植粛よ、達者でな。おそらく気安く声をかけられるのはこれが最後になるだろうからな!」
はっ、と馬の腹を蹴って颯爽と馬騰は去った。それは馬超らの前からガイウスを連れ去ったときのようである。別れは簡潔に。それが彼女の流儀であるようだった。
礼を言う間も与えないことをガイウスは責めない。また会う日があれば、そのときに伝えよう。出会いと別れは表裏一体なのだから。
***
しばらく馬車の上で揺られている。韓遂の仕掛けなのか、ガイウスの乗る馬車は衝立のある種類で外からは中を覗き見ることができない。小窓はあるが布地で隔たれている。乗降のための背面には、小箱が積まれているという徹底した隠蔽が施されている。
この馬車を見た者はこう思うだろう。中身は一等高価な品物に違いない。貴霜の香辛料や絨毯は他の馬車にあるから、金銀の美術品や宝石が積んでいるのだろうか。
受け取りに来る董卓の使者は荷物を馬車から降ろす際に心が高鳴ることだろう。そこで現れるのが人である。それも人目で分かる近隣の夷狄や貴霜人ではない顔立ちである。さらに高価な衣服に装飾品も身に着けている。教え込まされた挨拶で大秦人であると名乗れば役人は仰天するに違いない。
韓遂が企てた奴隷一人の価値を釣り上げる策である。もちろん馬騰やガイウスもその意図には気がついている。しかし、その策が及ぼす未来までは誰にも考えが及んでいなかったと言えよう。
金城から東に進むと漢陽郡がある。刺史が駐在する郡都冀県は度々韓遂らによって奪われ、三輔侵攻の拠点となった場所だが、これを通過して州境にある隴県が今回董卓への賠償金品受け渡しの場所であった。
ちなみにこの隴県は秦発祥の地でもある。
司隸の境には董卓の軍が野営している上、最も近い汧県には予備兵が駐屯して交代をしばしば行って万全の状態でいる。対する韓遂らは荷物を守る最小限の兵のみを連れることを許されていて、ここまで同行していた兵は冀県に置いてきている。
「この竹簡に記されているものが此度献上する品々である。商人から買い取った金銭を記してあるが、都ではさらに価値が高まること、聡明なる董将軍や都におわす張将軍にはご理解頂けると愚行致します」
拱手して述べる前に立つのは、相変わらず賈詡であった。韓遂の部下から賈詡の部下に渡った目録を見て、賈詡は瞬時に計算を始める。
長きに渡って閉ざされてきた西域からの珍品は、売り先を間違えなければかなりの値がつく。香や宝石などは帝に献上することになるだろう。しかし、残る品々は功績ある(あるいは宦官らの細工した)者から分配される。それでも張温や周慎、賈詡らの軍の損害を賄う分には足りるだろう。
「間違いがないかここで荷を検めるわ。朝廷が不足なしと判断すればよし。不足があれば今後の税から回収することになるわ。今から農作に精を出しなさい。さもなくば馬が要求されるわよ」
「それは困りますな。賈文和殿はお優しい。次の秋には多いに麦を実らせましょうぞ」
「ふん。これでも武威の出だから、郷土への義理よ」
そっぽを向く賈詡の顔がほんのりと朱に染まる。誤魔化すように早口で兵たちに指示を出すと、足早にその場を去ってしまった。
ここまでくると韓遂に出来ることはない。董卓軍が不正を行わないかは部下たちに目を光らせている。彼は腰の瓢箪を取り出すと、両軍の間で堂々と酒を飲み始めた。
(月はどこに行ったのかしら……)
賈詡が早々に立ち去ったのにはもう一つ理由があった。主である董卓が「ちょっと様子を見てくるね」と言い残して華雄を引き連れて荷物の列に向かって行ってしまったからだ。
戦の顛末を見届けるのは将軍の役目だと言っていたというのに、結局好奇心に負けてしまっている。大人しく見えてお転婆な友人に賈詡のこめかみが痛んだ。
董卓は涼州隴西郡の出身だ。涼州でも南に位置しており、武都郡を挟めば益州がある。西域から長安までのルートから外れていて、漢中を経由して成都や荊州へ向かうわずかな商人を見かけるくらいだったのだ。
「へぅ……」
たち香る異国の空気に胸が高鳴る。陶器から漏れ出る香辛料は頭がくらりとするほど刺激的なものもあれば、うっとりするような甘いものもある。それらが混ざり合っているのだから始末に負えないので、華雄なぞは鼻をつまんでいる。しかし董卓にはそれが西域の香りだった。
象牙は巨大で、猪のものとは比べ物にならない。乳白色のそれには異国の細工が施されたものもある。中でも数多の馬が駆ける様を彫った一品は董卓をして欲しいと思わせる物であった。
華やかな品物の馬車に混じって、枷をはめられた人間がいた。奴隷である。賈詡からの報告では、彼らは戦の際に先頭に立って彼女の兵に立ちふさがったという。その生き残りなのだろう。傷を負っているものも少なくはない。失われた兵の補充にあてがわれるのだろう。董卓は戦いから逃れられない彼らの未来を思うとその場から逃げるように離れた。
そうしていると、彼女の前に一際豪奢な馬車が現れた。貴人が乗るものである。誰か虜囚になった人でもあったかと、不安になって後ろに駆け寄った。
馬車の後列には木箱が積み上げられている。その先は見えない。
「あの、誰かいますか? 私は董仲穎です」
返事はない。
「あなたの無事を知りたいのです。どうかお顔だけでも拝見させてください」
「どうかお願いします。悪いようにならぬようお守りします。どうか一目貴方のお姿をこの目に映させてください」
彼女たちは知る善しもないが、奇しくも董卓は三度馬車の中の人物に礼を尽くした。三顧の礼と言ってもいいかもしれない。その相手は董卓であったので、本来の筋書きではなかったが、迷った末に彼はゆらりと木箱の隙間から顔を覗かせたのだった。
「董将軍、あなたは何か勘違いしている。私は捕虜ではない。奴隷だ。韓文約にとって価値のある奴隷だから、こうしておかしな状況にある」
董卓は驚いて「へうっ」と可愛らしく鳴いた。なぜなら暗闇からぬっと現れたのは、薄いブルーの混ざった灰色の大きな瞳が、豪奢な銀の額飾りの下に負けじと輝いていいたからだ。のっそりと全容が明らかになるくらいに出てきたときに、董卓はさらに驚いた。
洛陽でしか見ることのできない上等な漢服に、宝石の散りばめられた装飾品。それらを身に着けた男の肌は栗よりやや淡い色合いで、顔の凹凸が激しい。見たことのない異人だった。
「む。こいつは安息人ではありませんか?」
「安息……遥か西にあり、あの美しい敷物の産地ですね」
「はい。似たような風貌の者を見たことがあります」
華雄の言葉にガイウスの眉が知らずぴくりと動く。
一方董卓はこの奴隷のことを考えていた。豪奢な馬車に衣服など、間違いなく特別な品だ。帝に献上されるのに間違いない。しかし今の素っ気ない会話からは涼州訛が見受けられる。きっとすぐに飽きられるに違いない。
転落の人生が待っている。人間の尊厳を踏みにじられることもあるだろう。それはひとえに過度な演出による期待値の高まりが招く不運である、と董卓は見抜いた。他の奴隷と同等の扱いであれば、帝はひと目見て満足し、誰か将軍格に与えるだろう。
この不運に董卓は沸々と何か熱い感情が込み上げてくるのを自覚した。怒り、否。憐憫、否。仁義、これだ。この人を守ることこそ正義。叱責を受けようと遥か遠くから連れてこられた人物をみすみす不幸にするのは己の信念に反している。
「華雄さん。急いでこの人が着れる鎧を用意して。それから詠ちゃんにこの文を渡してきて」
董卓は懐から竹札に小刀で手早く文字を刻む。一方で華雄は狼狽した。
「しかし私はあなたの護衛です。近くを離れるわけには……!」
「お願いします。あなたにしか頼めないんです……」
華雄に電撃が奔った。麗しい主の請願に硬直し、天秤がけたたましい音を出して傾いたのを幻想した。そもそも董卓のお願いに逆らえる人物は董卓軍にいない。華雄は転びそうになりながら賈詡の下へ走った。
「どういうつもりだ?」
ガイウスは薄々察していた。この少女は秘密裏に荷駄から自分を連れ去ろうとしている。
「私の分の荷が減れば涼州が困る。涼州には恩人がいる」
「……優しい人なんですね。大丈夫です。代わりに私の家の財産を積みます」
「それは……どうしてだ? 私には本当にそんな価値はない」
所詮作られた価値なのだ、とガイウスは自嘲する。
「そうかもしれません。でも、あなたは漢の腐敗を知りません。このまま連れて行かれては、一生辛いだけで終わってしまう。きっとこれまで大変だったんだと思います。だから、少しくらい安寧の機会を得ることは許されていいんです。私が、そうしたいんです」
いつの間にか、董卓の手がガイウスの手を包み込んでいた。可憐な姿とは想像もつかない固い手だった。きっと彼女も戦ってきたのだ。
視線を上げれば、潤んだ瞳をまっすぐにこちらに向けている。なるほど、とガイウスは先程の護衛の気持ちが分かった気がした。
「馬車に入れ。外よりは安全だ」
「えっ?」
「私はあなたの護衛なんだろう?」
数刻後、まるで違った中身の馬車を見て韓遂は大笑いした。
涼州から洛陽へ。
ガイウスはより物語の中核に近づいていきます。
ちなみにプロットの段階では価値のあるガイウスを涼州に留めるために馬超の嫁にしようとする展開がありました。が、韓遂が敗戦後に売り飛ばすとんでもない悪党になるので没になりました。