秦・恋姫†無双   作:aly

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白馬の戦い

 袁本初たちが冀州渤海郡の南皮に入城したという報せが入った。元々曹操の兗州に攻撃をしかけていたことに加えて徐州での敗戦の恨みがある。時を置かずに攻撃をしかけてくることは明白だった。

 その標的である曹操の拠点陳留。城主その人の部屋の前で、ガイウスはのろのろと拳を頭ほどまで持ち上げた。今日は徐州平定が終わった頃に曹操から指示された日である。

 コツ、コツと木の扉が響く音。少し間を置いて曹操の返事があった。

 曹操の執務室は他の誰の部屋よりも竹簡や木簡、そして何より書物が多い。その全てが完璧に棚に収められている。彼女の机の上には必要最小限の資料だけが置かれていて、当の本人は一瞬ガイウスの姿を捉えると筆を走らせ続けている。

 

「王秀。さきの献策は落第だったけれど、なかなか見どころのある……そうね、蕾のような出来だったわ」

「それは……ありがとうございます」

「でもその蕾。誰か水をやっている者がいるのではなくて?」

 

 どういう嗅覚をしているのか。曹操には全てお見通しのようだった。曹操の声には負の感情はない。咎められているわけではなく、日常の雑談と変わらない様子の問いであった。

 

「仲徳殿に助けていただきました」

「そう、風が」

 

 しばらく沈黙が続く。筆の流れる音と竹簡がぶつかる、かつんという音だけが室内を満たした。開放された窓から吹き込んだ爽やかな風が曹操の髪を揺らす。

 

「あなたを軍師として育てさせるというのも悪くはないけど、風が見込んだ才を活かすのも一興かしら」

 

 竹簡の端で墨を払うと、曹操は筆を置いてガイウスを見た。

 

「次は兵を率いなさい。風をつけてあげる。あとは誰か腕自慢の将を一人副官として用意するから、それで本初との戦で力を示しなさい」

「はい」

「これであなたの才を測るのは終わりよ。乱世の火蓋は切られたのだから、使い道がなければ容赦なく切るわ。心して努めなさい」

 

 ガイウスは曹操の執務室を去ってからの足取りをよく覚えていなかった。気がつけば中庭に立っていて、城壁を無意識に眺めていた。

 思い返していたのは洛陽から脱出する前のことだ。あのときも城壁を見上げていた。外から聞こえてきた喧騒は忘れられない。敵の怒声に籠城とはこれほど恐ろしいものかと知った。

 外に出ると大軍を見かけた。あの群れの一部となって動くことになるのだ。故郷でも兵士を志していたが、届いても百人隊長だったろう。元老院議員や皇帝の騎士がごとく軍団を率いることになるとは夢にも思っていなかった。

 

「賽は投げられた、か」

 

 ガイウスは踵を返して自室へと向かった。足取りに迷いはなかった。

  

***

 

 反董卓連合の戦から間もない今、兵糧に余裕はない。しかし袁本初が南皮を出て西進。おそらく鄴へ向かっているという報告があったので、曹操の州牧府は忙しく準備に終われている。

 曹洪はなけなしの資金で前回消耗した矢と、徐州や荊州の商人から麦を購入しなければならず、残された金を見て真っ青になっている。曹純や夏侯淵は黄河にある港の防衛力を上げに出かけていたし、一刀たちは戦の気配に不安を覚えている民衆の安撫に駆られていた。

 そしてガイウスはというと――。

 

「私は西王秀。見ての通り漢人ではないが、曹兗州牧様より一軍の将を命じられた」

 

 彼は陳留郊外にて与えられた兵千人の前での演説を始めていた。チェインメイルに急所を守るための幾つかの板金を重ねた鎧ロリカ・セグメンタタ(帝政ローマ後期の重装鎧)を身に着けている。本来は一人で着ることもできない複雑な構造を、李典の技術と簡略化によって防御力と利便性を両立させた。これに兜と外套を装備している。まさにローマの百人隊長の出で立ちだった。

 

「我々に期待されていることは可能性だ。したがって、諸君らには我が故郷大秦の技術を覚えてもらう」

 

 ローマ軍の戦いの基本は歩兵戦術である。隊列を組んだ歩兵が戦線を押し上げ、時には敵の猛攻に耐える。歩兵はいくつもの兵科に分かれ、弓や投擲兵器を持った者たちが身軽に動き、最前線の歩兵を助ける。彼らは常に入れ替わり新鮮な戦力を最前線に送り、敵の歩兵を疲弊させる。騎兵は敵騎兵の邪魔を牽制するのが主な役割だ。

 

「まずは隊列訓練を行う。基本は従来の陣形だが、これに大秦式の動きを一つ加える。先日 小城を袁本初から守った賢者、程軍師の知恵をお借りしている。間違いなく有用であることを約束しよう」

 

 ガイウスの傍らで、扇を開いて口元を隠している軍師程昱はひそかに笑みを浮かべた。

 

(以前大秦の戦術は遅れていると言いましたが、異なる進化をしていたようでした。そしてこの不思議と威風漂うお兄さんの迫力に兵は気圧されている様子。ふふふ、なんとも楽しみなのです)

 

「まずは基本の動きだ。六十人で一つの隊を組み、五列に並べ。これを最小単位とする。今は伍や什は不要。隊が最小だ。そして六隊で一曲は今まで通りだ」

 

 曲とはローマでいう大隊のことだ。これが基本的な軍隊の単位となっている。これに倣ってガイウスは同時に三つの司令を出せる集団を編成した。

 

「よし、それぞれの隊には旗を持った兵を用意させろ。私の下した命令を旗の動きで曲から隊、ときには隊から隊へ伝える。隊に伝われば声を出し速やかに行動に移せ。では今から三種類の旗の動きと指示を伝える。身体に覚えさせろ」

 

 牙門旗より一回り小さく、無地の旗が八の字に振られる。曲の先頭の旗振りが同じ動きをし、さらに隊の旗振りに伝播する。各隊によってばらつきは出たものの、全員が抜剣して静止した。

 

「よし。次だ!」

 

 程昱はこの伝令方法を聞いたとき、いくつかの利点と欠点を思いついた。間者による偽の情報を惑わされないで良いことと一気に広範囲に情報を伝達できることが利点。欠点は解読されたときに動きが丸わかりであることと、旗振りが死亡したときの対応。そもそも戦場で旗を気にすることができるかということだった。

 旗の動きと指示は一定の期間で変え、旗振りは交換要員を用意することで対応できるだろう。旗の代わりに銅鑼や楽器を使うことで欠点を補いつつ役割を増やすことができるだろう。ローマにはどんな楽器があるのかということも程昱の興味の対象だ。

 しかし戦場での効果はこれから実証しなければならない。

 

「風さん。いかがでしょう」

「初日にしてはいいと思いますよ。この訓練は頭を使いますからね。しばらくしたらもう一つの訓練と交互に行いましょう」

「はい」

「それにしても……まさか風が一番乗りになるとは。凱烏さんも酔狂ですねぇ」

 

 曹操から皆の前で改めて命を下された日、ガイウスは程昱の私室を訪れた。そして膝をついて拱手した後、使うことのなかった真名を初めて彼女に告げたのだった。

 

「私のすべてをあなたの智謀で活かしてください。その証に、その地で設けた真名と親から与えられた名を捧げます。私は凱烏。西より来たリキニウス氏族、アウス家の六男。ガイウスです」

 

***

 

 袁本初らの軍が鄴を発ったという報せがあったのは、おおよそ軍備が整った翌日の夕刻のことだった。すでに軍は南下をしており、黎陽に到着していることだろう。

 

「明日には渡河をしてくるわね。秋蘭、栄華、凛。あなたたちはすぐに白馬港に詰めて防備を固めなさい」

「御意」

「明朝に第二陣を出すわ。私と季衣、流々、一刀たち警邏隊で行く」

 

 それを聞いて武官のほとんどがギョッとした。主力級の夏侯惇や張遼がいないのだ。

 

「か、華琳。ちょっと戦力が足りなくないか?」

「もちろん。そう配置しているのだから当然よ。渡河は行軍で最も注意すべきことの一つ。相手もそれくらい知っているわ」

 

 今回最も曹操が劣っているのは兵力と補給である。いかに渡河を遅らせようとしても物量を使って複数箇所で渡河されては対応できない。

 

「白馬港でしばらく戦った後、数に押されたように見せて退くのよ。こちらに上陸した本初らを第二陣で受け止めるけど、すぐに押されるでしょう。じわじわと退く流れになる。二度も後退する姿を見せれば本初なら追ってくる。そして敵軍と港に距離ができたところで――春蘭、霞、柳琳、華侖が伸びた戦列を殲滅する。以上が桂花の策よ」

 

 ガイウスは知らないが、荀彧は士官の際にも曹操を囮にしている。奇襲が成功したとき、袁本初はどこにいるのか。調子に乗って前線に来れば自ら斬る。曹操はこの策を楽しんでいた。

 

***

 

 ガイウスの大隊は開戦の段階では曹操たち本隊や張遼たち奇襲部隊とは異なり、予備兵力として陳留と白馬港の間にある平丘県で待機することとなった。やや戦場からは遠いが、陳留に残る荀彧からの命令で東西どちらにも応援に行ける位置にある。

 

「……」

 

 城壁の上にいるガイウスの目には、北門を抜けて北東へ進んだ他軍団の後塵すら見えなくなろうとしている。

 

「凱烏さんも鳥が好き?」

「は?」

 

 いつの間にかガイウスの隣に小柄な少女が身の丈に合わない巨大な斧を壁に立てかけ、呆と空を眺めていた。彼女はガイウスにつけられた副将、黄巾の頃から曹操に仕えている徐晃である。個人の武に不安のあるガイウス大隊に与えられた最強の札だ。

 

「鳥は……大秦人にとって特別な生き物です。遥か昔、神話の頃。神々は鳥に扮して我々を助けてくれました。だから今でも鳥の預言は重要です」

「あー。龍王さまみたいなこと?」

「それは貴霜の蛇の神? 淮南子に書かれている雲をつくる龍ですか?」

「……昔は別だったけど、今は同じものだよ。だからどっちも正解。凱烏さんは物知り」

 

 徐晃は陳留でも指折りの読書家で、それを生来の記憶力でほとんど覚えている。その知識の中から拾い出したのが近年習合した神々が龍王であった。

 

「もしかして、空を飛ぶ方法も知ってる?」

「すまない。かつて鳥の形をした箱を飛ばした人かいたと言われていますが、彼には偽者がいるから真偽は不明なのです」

「鳥……やっぱり香風が飛ぶには羽が必要?」

「それはどうでしょう。雲には羽はないが空にある。月に至っては円形です。鳥にしても羽ばたいているときとそうでないときがある。もっとよく観察して学ぶ必要があるのではないでしょうか」

 

 ギリシャにいた人類史上初めて飛行物を製作したという人物は、熱を利用したとされている。しかしその偉業に言及されたのは彼の死から遥か先の四世紀のことであり、真偽は定かではない。

 徐晃はいつも見上げていた空のさらに上を見上げた。憧れる鳥もいない高地、千差万別の形を成している雲。生き物ではないそれは、たしかに空を浮いている。

 

「雲はどうして浮いているんだろう。考えたこともなかった」

「大秦やギリシャにはそういう分からないものを研究する人たちがいますよ。高い山に登れば雲を眼下に立つことができると聞きます。ためしに香風殿も雲を詰めて持ち帰り、謎を解明してみてはどうですか?」

「面白そう。凱烏さんも一緒に研究してくれる?」

「是非とも」

 

***

 

 白馬津。ここは黄河の中でも川幅が狭い地点であり、絶好の渡河地点である。

 その南岸から一里ほどの距離を置いて、木柵が長大に築かれていた。さらに後方には防衛のための陣営が築かれ、中央の天幕には曹洪と郭嘉が地図を挟んで睨み合いを続けている。幾人もの将兵が天幕を訪れては敵の動向が知らされ、二人は地図上の駒を増やしていた。

 

「対岸三里。見える牙門旗は文、淳于、郭。川岸には大量の舟」

「残りは袁本初とともにここを陥としてから渡河するつもりでしょう。攻撃的な武将に先陣を任せて悠々としているのは彼女らしいと思います」

「一気に包囲されなかったのは運がよかったと考えるしかありませんわね」

 

 先鋒として与えられた兵は五千。対する袁紹軍は一万五千はいるだろう。兵法に則った正しい戦力だ。少なくとも付近の偵察では対岸に他の兵はいない。

 

「秋蘭はまだ櫓にいるんですの?」

「ええ。我軍随一の目を持つ方ですから、この状況では仕方がありません」

 

 陣営の前方に設けられた櫓は敵の矢は届かず、こちらの矢が渡河中の兵に届く絶妙な位置に配置されている。その上で曹軍で最上の弓手である夏侯淵は、その鷹の目を以って敵の動きを注視していた。

 忙しなく指示を飛ばしている郭図が袁紹軍先鋒の参謀であることは明白だ。大将である文醜は兵たちの先頭で地面に腰掛け、こちらに殺気立った視線を寄越している。淳于瓊の姿は見えない。

 しかし隊列は整っており、間もなく渡河が始まるとみていいだろう。

 

「君、郭軍師に敵の準備が整う気配あり。こちらも配置につかせるようにと伝えてくれ」

「はっ」

 

 伝令を出してからものの数分で、防柵に矛兵が配置される。その後段には弓兵が、そして各櫓にも弓兵が登っている。陣営の東西の門には騎兵が待機しており、弓兵による足止めの後に横撃する備えができている。

 

「よし、突撃だ! アタイらの真の実力を見せつけてやろうぜ!」

 

 対岸にも聞こえる文醜の怒号に、彼女の騎兵が猛烈な速度で黄河へと迫る。

 

「出鼻をくじくぞ! 弓兵総員構え!」

 

 文醜が間もなく河に入る。その瞬間を狙って夏侯淵は斉射の命令を下した。次いで防柵の後ろに控える弓兵が矢を番える。打ち漏らした敵を仕留めるためだ。

 しかしそれが放たれることはなかった。

 

「なにっ!」

 

 文醜率いる騎馬は、河に入った直後に進路を左右に分けて浅瀬を駆け抜けて渡河をしなかった。そしてその騎兵に隠れていた淳于瓊の歩兵が舟に乗り込み猛然と河を進む。彼らは巨大な盾を頭上に掲げ、曹軍の矢をほとんど無力化していた。

 一方左右に散開した文醜の騎馬隊は彼らの後ろにつき、盾で守って馬を泳がせて安全に渡河を進めようとしている。

 

「今河に入っては舟上での乱戦になり、郭公則の弓兵の良い的になってしまいます。こちらの岸に舟を並べて歩兵を置きましょう。敵舟がこちらに着くまでに敵の盾を頭上から下ろせば矢が通ります」

「分かりましてよ。槍兵を五百行かせましょう」

 

 曹洪が天幕を出る。陣営の防衛を担っていた兵と防柵にいる兵から槍兵隊を再編成すると、河を半分は渡っていた淳于瓊の軍に向かわせた。

 

「この河を渡らせれば陣はそう持ちませんわ! 総員盾を掲げた臆病者どもを蹴散らしなさい!」

 

 この曹洪隊の働きで、淳于瓊の軍はも目前の敵と頭上の矢の二方向を気にしなければならなくなる。そうなれば一人、また一人と槍や矢の餌食となって倒れていく。

 

「んにゃろう! あの槍兵をぶっ潰すぞ!」

 

 文醜は舟の上で騎乗していた幾人かの兵を跳躍させ、無理やり対岸へ到着した。数頭の馬は曹操軍の舟を吹き飛ばし、歩兵が水に落ちる。そうして生まれた隙を縫って騎馬隊が上陸した。しかしそれは郭嘉の予想の範疇であり、既に陣営から騎兵を出して備えていた。渡河で疲弊した袁紹軍を河に押し戻す。

 

「くそっ! 一旦退却だ! 兵を補充してもっぺん行くぞ!」

 

 盾兵を殿に騎兵が去っていく。その様子を見て、郭嘉はため息をついた。河に浮かぶ遺体には両軍の兵がいる。預かった五千の兵は消耗するばかりなのに対し、あちらはまだ補充ができる余裕がある。国力の差はこの局地戦ではひっくり返せそうにない。曹操の作戦通りいずれ退くしかないが、そのタイミングはいつか。郭嘉は退いていく袁紹の軍の背中を静かに見つめていた。

 一方櫓の上から撤退を見ていた夏侯淵は妙な違和感を覚えていた。

 

(なぜ顔良がいない? 彼女がいれば今の損害を防げただろう。それに奴らの後方、前に出てきて分かったが見る限り誰もいない。昼時だというのに炊事の煙も見えん。袁本初はまだ鄴にいるのか? ……これは凛に相談すべきだろう)

 

 急ぎ天幕に現れた夏侯淵の報告を聞いて、郭嘉は即座に答えを導き出した。

 

「これは陽動ですね」

 

 冀州から渡河するルートは多数ある。栄えている鄴から最も近い白馬が主流なのに違いはないが、上流にも下流にも渡河しやすい場所がある。たとえば平原から南下するルートがあるが、これは袁紹が鄴に入ったという情報から選択肢から除外された。

 では白馬を陽動として使い、大軍を渡河させられる場所はどこか。

 

「袁本初……いえ、田元皓は延津を用いて渡河してきます。まさかあの袁本初が田軍師の策をそのまま採用するとは思いもしませんでした。私たちの失態です」

「これから挽回すればいいことだ。我々はここを退いてもよいのか? 華琳様と合流して延津に向かうべきか?」

「いえ、延津は既に手遅れでしょう。戦線を後退させて戦う他はありません。予定を早めて今から退却を。早馬で華琳様へご報告し、合流した後に策の練り直しになるかと思います。渡河してきた文醜軍には霞殿に足止めしてもらいましょう」

 

***

 

 冀州袁家の軍事作戦は、基本的に袁本初の一存で決められる。彼女が策を弄することを嫌うために軍師の田豊の献策はあまり採用されてこなかったのだが、徐州での敗退が彼女の忠告を無視したことに起因したことで袁本初は気まぐれに田豊の策を採用してしまった。電撃的な陳留への直接侵攻というのも採用を後押しする。

 

「ふふふ。今度こそは私の策で戦果をあげてみせるんだから!」

 

 行軍する兵の中、高らかに笑い声をあげる彼女を見て、兵たちはそっと距離を置いた。

 

***

 

 一方曹操率いる第二陣は陳留郡を抜け、冀州との境にある東郡へ到達しようとしていた。間もなく到着する旨を記述した文を夏侯淵へ送り出した伝令が息も絶え絶えに舞い戻ってきたのはそのときであった。

 先頭を行軍していた楽進は、彼の異様な表情を見て怪訝に思った。馬の疲弊もひどく、彼自身も汗や砂にまみれている。

 

「曹州牧へ火急の伝令! 失礼仕ります!」

 

 あっという間に楽進を抜き去り後方へ駆けていく伝令に、彼女はただ事ではない何かが起こったと悟る。

 

「総員停止! 私は急ぎ華琳様の下へ行くのでいつでも動けるようにしておけ!」

 

 楽進は氣を脚に溜めて最高速度で走る。しかしやはり馬の方が速い。楽進が到着したときには先の伝令から郭嘉の文を受け取った曹操は、眉をひそめていた。

 

「沙和。あなたのところから斥候を出して頂戴。西の燕県から延津、念のため酸棗方面まで索敵範囲を広げなさい」

「は、はい!」

 

 気迫のこもる曹操の命令に、于禁の声が上擦る。幼少から知る相手のことだから、必ず真っ直ぐに決戦を挑んでくると思っていた。その思い込みに曹操は自身へ激しく怒りを抱いている。

 

「華琳、えっと……何があったんだ?」

 萎縮する将兵らに押し出されて、一刀が尋ねる。

 一瞬、曹操の怒気が一刀に向かう。しかし曹操が目を閉じて一呼吸すると、それは霧散していた。

 

「麗羽が別の港から渡河したかもしれないわ。凛と秋蘭の見立てならほぼ間違いないでしょう」

「それって不味いんじゃ!?」

「ええ、そうね。西から南下されれば私達は素通り。奇襲部隊も無意味と化す。まずは他の部隊に伝令を出して、私たちは進路を南西に変えるわ」

 

 かくして一斉に伝令が各地に走る。そしてこの報せを一番に受け取ったのが、ガイウスだった。

 

***

 

「風さん。私たちはどう動くべきでしょう」

 

 伝令を受け取ったガイウスは、まず程昱の知恵に頼った。酒祭軍師の荀彧にはまだ報せが届いていない。郭嘉は前線の対応に追われている。もっとも落ち着いて全体を俯瞰して見られるのが程昱だ。

 目を瞑って眠っているかのように見える彼女の脳内で、いくつものプランが生まれては消えていく。ガイウスは固唾を飲んでそれを待った。

 

「凱烏さんと風は北東へ行きましょう。香風ちゃんには一旦陳留へ戻って荷物を運んできてほしいのですよ」

「……荷物?」

「秘密兵器ですよ」

 

 程昱によると、おそらく白馬は放棄することになるので、曹洪と夏侯淵の部隊は曹操の部隊と合流して袁本初本隊の対応をすることになる。そこで白馬港からの南下を防ぐ部隊が必要になる。ガイウスたちがその役割を担おうというのが程昱の考えだ。曹操は籠城することになるだろうから、外から援護するのには奇襲部隊が必要だからだ。もちろん、ガイウスたちだけでは戦力が足りないので一部を割いてもらう。

 

「では私たちは長垣県へ向かうということですか」

「あそこには城がいくつかありますから都合がいいのですよ」

 

 長垣はちょうど白馬から陳留への通過地点にある。西には燕県があり、こちらも陳留へのルートにあるので、敵はそのどちらかを通るだろう。長垣と燕の間には丘があり、そこに支城がある。ここで防備を整えればどちらにも対応できる。

 

「ん。じゃあシャンは桂花さまのところに行ってくる」

「シャンちゃん。兵を五十人連れて行ってくださいねー」

 

 城壁から飛び降りる徐晃。彼女は配下の兵を素早く見繕うと南門から馬に乗って颯爽と消えていった。

 さて、今度はガイウスの番である。ほとんどが歩兵で構成されているので鈍重な彼らを連れて、迅速に長垣の支城、蒲城へ向かわなければならない。

 

「しかし孟徳様の許可を得ずに陣を移動させていいのでしょうか?」

「良い将は忠実に主君の命を守りますが、優れた将は主君の望みを汲んで思考し、動くものなのです」

「そうか。また一つ学びました」

 

 そしてガイウスらが蒲城まで移動すること二日。この間に夏侯淵らは数刻で戦場を離脱して半日で曹操に合流する。一方鄴からの補充を待っていた文醜らが白馬を渡河したのは先の戦闘の翌日のことであった。それから陣を築き、南下の姿勢を見せたとき、既にガイウスは長垣の支城の一つである蒲城に入っていた。

 

「なんとか間に合いましたねー」

「はい。しかし文醜将軍たちが本隊に合流しないかが気がかりです。こんなにも東にいてもよいのでしょうか?」

「大丈夫ですよ。頭を出すたびに叩いて亀さんになってもらいましょう」

 

 程昱の理屈は分かるが、敵は一万五千の大軍だ。 二千の兵で白馬に築いた陣に釘付けにできるものなのか。ガイウスは不思議に思えてならなかった。

 そして両軍が休息を取った翌日、偵察から文醜が騎兵と歩兵の混成部隊を率いて南西の燕に向かっているという情報がもたらされた。

 

「歩兵を増やした、というのは城攻めのためですね?」

「そうですねぇ。ではでは、ここで凱羽さんに問題です。今白馬にある戦力はどうなっているでしょう?」

「む……」

 

 元々盾を主とした歩兵、弓兵、騎兵で構成されていた文醜の軍団。補充の段階で兵科の割合が変わっている可能性はあれど、騎兵は一定数必要なはずだ。そしておそらくそれは 守兵ではなく攻勢の文醜が連れて行っている。となると歩兵中心の守兵が残っているだろう。

 

「文醜が連れて行った兵は一万。残る五千なら勝機はありそうですね。問題は白馬を奪還したところで文醜が引返すかですが……」

「そちらは問題ないのですよ。ですので、凱烏さんには少しでも早く白馬を奪うことが肝要なのです」

「分かりました。すぐに出立しましょう」

 

 伝令用の兵だけを残して、ガイウスは二つの大隊を即座に出撃させた。平地を移動する文醜軍に対して、ガイウス軍は丘を駆け下りることができる。文醜が燕に着く前に、ガイウスは敵陣を目視することとなった。

 

「左大隊横陣、盾構え。槍用意」

「左大隊横陣、盾構え。槍用意!」

 

 ガイウスの指示を復唱し、旗振りが青の旗を規則的に動かす。すると行軍していた前方の兵の中で旗が舞い、ガイウスの指示通り、横陣を敷いて肩に担いでいた槍を構えた。

 

「右大隊横陣、弓用意」

 

 同様に後方の兵が左右に広がり弓に矢を番える。この頃になると敵もこちらに気がついたようで、陣営の中から矛や伐が顔を覗かせている。

 

「総員駆け足! 右大隊は合図を以って矢を放て!」

 

 ガイウスの突撃は完全に隊列の維持されたものであった。盾と槍が横一列に並んで迫ってくる様は、敵にとっては迫力があり、腰も引ける。しかし弓兵の斉射を行うとその隊列もいくつか崩れていく。

 見掛け倒しか、と彼らが安堵したしたときだ。居並ぶ盾の後方から矢が降り注いでくる。あっ、と思った頃には味方のいくらかが負傷している。その目を離した隙のことだ。彼らがガイウスの軍に視線を戻すと、そこには美しく並んだ盾の列がある。しかもかなり速く接近してきているではないか。

 

「貴様ら、さっさと武器を構えろ! 木柵に取り付いてきたやつらを突き殺せ!」

 

 淳于瓊の怒声が響き渡る。改めて集中をして備えようとして、敵の陣後方で旗が揺れるのが見えた。

 

「無地の旗? 牙門旗ではないのか?」

 

 淳于瓊も訝しんだとき、盾の隙間から一斉に短槍が五十以上も放物線を描いて防御柵の中に投げ入れられた。さらに後方からはなおも矢が降り注いでくる。

 

「これはいかん! 皆頭上を守れ! お前は文将軍にこのことをお伝えしろ!」

 

 ところがこの間に、ガイウスは二つの大隊を入れ替えていた。すなわち短槍をまだ所持している右大隊を前に出し、防柵の隙間から再び短槍を投げ入れる。部隊は再び交代し、左大隊が槍を突き、右大隊が矢を射る。

 

 

「凱烏さん。そろそろいいですよ」

「分かりました。総員撤退する!」

 

 かくして白馬の陣は決して軽くはない被害を出しながらも難を逃れた。淳于瓊は思った。なぜ敵はあっさり退いたのかと。すると間もなく文醜が軍を伴って引き返してきたのだ。

 

「あちゃー。派手にやられてんなー。こりゃ先に敵の伏兵を叩かないと先へ進めそうにないなぁ」

「そのようですな」

 

 郭図も白馬の打撃を見て方針変換も致し方なしと考える。

 しかしなぜ彼女たちがこれほど早く引き返してこられたのか。時は両軍が交錯する前に戻る。

 

「大変です! 淳于将軍からの伝令です!」

「んー? なんだ、輜重隊でも遅れてんのか?」

 

 文醜が開いた竹簡。そこには曹操幕下の軍により攻撃を受け、後方と遮断される恐れがあると殴り書きがある。

 しかし文醜は楽天家の人だ。それなら燕を陥としてから増援を送ればいいだろうと考えて兵を燕に向けて進めた。ところがしばらくしてさらに伝令が現れた。傷を負い、薄汚れた金の鎧が目立つ。

 

「敵の攻撃で守兵は間もなく半数は負傷か戦死です。どうか淳于将軍をお救いください!」

 

 将軍の身まで危ないとあっては引き返さざるをえない。文醜は速やかに兵を転進させたが、そこに敵の姿はなかった。

 

「ちくしょー。逃げ足の速いやつだなあ。こりゃこいつらを先に叩いたほうがいいな」

***

 

「風さん。お見事です」

「いえいえー。凱羽さんの大秦的戦術も興味深いものでしたよ」

 

 伝令は、程昱が用意した偽兵であった。夏侯淵らとの戦闘で倒れた袁紹兵の鎧を河の下流で入手していたのである。文醜は自信の直感に従う将軍なので、よほどのことがない限り自らの判断を優先する。しかし一度もたらされた情報は必ず脳内に残る。そこにより深刻な状態の伝令があれば文醜自身の判断も揺れるだろう。それが程昱の文醜を引き返させる策であった。もしも二人目の伝令が失敗に終わっても、三人目の偽兵も用意していた。負傷した自軍の兵に敵兵から奪った装備に着替えさせて黎陽に向けて進軍されているとでも伝えるつもりだったのだ。

 

「さて、隣の支城には柳琳ちゃんと華侖ちゃんが入ったようですね。ここからは彼女たちに白馬の足止めをお任せしましょう」

「ふむ。では私たちは?」

「それは香風ちゃんのお土産が到着してからのお楽しみですよ。ふふふー」

 

 官渡の戦いの前哨戦、白馬の戦いはガイウス将軍によって勝利を収めた。関羽(カンウ)の代わりに凱烏(ガイウ)が活躍したというのも奇妙な偶然だった。




随分前の記憶を頼りにしている部分があるので、呼称など間違っていたらご指摘お願いします。
ここまで蒼天の覇王の内容で書き進めていましたが、そろそろ劉旗の大望が必要になるかもしれません。馬休さん馬鉄さん、未登場にしてすみません!
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