「……優希だからって、何でも許す訳じゃないよー? もちろん、故意に生命を奪ったりなんかしたら怒るけど……」
はらわたが煮えくり返っているらしい優希は、出力を落として横に並んできた。並走するにしては、腕と腕がしきりに触れ合う。
女子を口説きたくて仕方のない男なら、ここで腕を引くのだろう。恋心というのは些細な出来事から生まれるものであり、手を繋いだだけでもふと湧き出るかもしれない。
航生には、そんな余裕も意図も無かった。友達という分際で、本気で燃え上がる気持ちも無いのに中途半端なことをするのは、気が引けたのだ。
夫婦でのんびりランニングしているところを見ると、今日も平和だと感じる。いきなりドッキリを仕掛けられて血が上ったと主張している優希は、正にそのような雰囲気だ。
「……ランニング、しに来たんだね。どうして?」
「何せ、塾が……」
思い出すだけで洞穴にこもってしまいそうになる。重い足枷となっている勉強教材を、何処かに捨ててしまいたい。
高校に入学した瞬間から、将来を見据えての受験勉強をするべきだということは、言われなくとも知識として持っている。中学三年間より遥かに範囲が膨大で、復習を今から始めなければならないと思っている。
だからといって、青春を一ミリも味合わせてくれないのは、拷問以外の何物でもない。自由を失った先に待っているのは、暗雲が立ち込める灰色の世界だ。
つい何かに当たりたくなる気持ちはある。アリを潰してせいせいしたことも、芝生を殴ってストレスを流していたことも、過去にはあった。
……そんなのは、正しい方法じゃない。
そこら辺のアリや芝生に、一個人のむしゃくしゃを受け止める義理はない。神経が通っているかどうかは問題ではなく、理不尽である。
重圧から逃れるにしても、方法というものがあるのだ。例えばアルコール中毒になるまで酒に飲まれるのは心の健康ごと害してしまい、逆効果になってしまう。
大きな悩み事を処理しようとすると、他の行動が疎かになる。腕の振りが衰えて、黙りこくったまま時折遅れそうになった。
他人の感情を読むのに長けているのか、機敏に察知した優希から緩んだ空気が吹き飛んだ。
「……『大丈夫?』なんて言っても、隠しちゃいそうだから。辛いときは、どんどんその気持ちを話しちゃっていいんだよ?」
ランニング中とは思えない、流暢な響きだった。体を鍛えている成果は大きそうだ。
カウンセリングの手紙が学校から送られてきたことがあったが、全て古紙回収に回していたのを記憶の片隅から取り出した。自分のことは自分で何とか出来ると封殺していたのが強がりだったと、思い知らされる。
横に並んでいるのに、目の前で優希が座っている。机には何も置かれておらず、一脚の椅子が用意されているだけ。お悩み相談室に入った気分だ。
遠慮の心が入って、あまり頭を横に向けられない。そのせいで、感情もよく分からない。
それでも、深部の闇に冒されている航生の身を慮っていることはよく理解できた。
「……困ってるときは、お互い様。どちらかが頑張れば、それでいいんだよ?」
見えない小柄な後ろ姿が、より大きく見えた。
二人で支え合っている漢字の代表例として挙げられる、『人』という字だが、決して支え合ってはいない。パソコン上などはそう見えるだろうが、楷書体で書いてみるとよく性質が現れる。
『人』は、一方がもう一方を支えて成り立っているのだ。協力関係と言うよりかは、依存関係にあるのだろう。
依存という二字熟語を聞くと、どうにも不快な思いをする。寄りかかっている方は何の苦労もせずに飯を食べていて、努力をしている人が貪り取られているようでならないからだ。
ネット依存、薬物依存、アルコール依存……。どうにも『依存』という言葉が用いられているものにポジティブなイメージがないのは、人自身が支えられることを悪としているからだろう。
……依存しないなんて、出来るのか?
協力と言うと聞こえはいいが、苦手分野を補完し合うのは『依存』だ。綺麗な名詞で表現しようとしても、本質は同じなのだ。
相手に頼ることは、ある種仕方のない事。そう割り切れないと、ストレスばかりが溜まっていくのではないだろうか。
「……優希はまだ、ぶら下がるには頼りない枝かもしれないけど……。それでも、信じて欲しいな」
そうやって笑いかけてくる優希は、背伸びをしているのかどうか。彼女が持っているクッションへ、上空から飛び込んでしまって大丈夫か。
生命の重要性を追い求める健気な少女を信じることを、決断しなければならない時が来たのだ。
……バカにされることは、まさか無いだろうけど……。
人に嘲笑われた経験が蓄積している彼女は、その行為が精神に莫大なダメージを与えることをよく身に覚えているだろう。いくら説得しても頑として動かず、紙切れのように吹き飛ばされる様は、見るのも耐えがたい。
不安なのは、自分の心だ。
何もかも投げ出したくなる衝動が、心臓を内から破壊しようとしていた。血流が滞っているのか、胸が酸欠を訴えて振動している。風船が膨らんでいて、息を吸っているのに酸素が取り込めない。
厳しい環境に置かれた後に自由世界へと放り出されると、反動で堕落してしまうことだろう。同様のことが、起こりかねない。
助け合っていかなくてはならないのに、優希が見せる一部でしかない温かさに身を委ねてしまいそうで、怖い。甘い沼から抜けられなくなりそうで、優希を裏切ってしまいそうで、手を出すのを躊躇してしまう。
「……そこまでして助けるほど、俺に何か?」
「誰からも相手にされなかった優希のことを、初めて見てくれたのが航生。考え方を突っぱねないで、理解してくれたのが航生。それだけだよ」
必要としてくれている人がいると、俄然気力が出てくる。自分を認識してくれているだけで、明日への活力が盛り上がってくる。
優希の口から出てきた、なんでもない一言。それが乾いていた感情に潤いを与えてくれたのだ。
……これが聞けただけでも、今日ランニングに来た意味があったな……。
知り合って間もない女友達に、人生を百八十度ひっくり返されるとは、妄想好きの作家と言えども想定できなかっただろう。
「……優希のこと、信じてみるよ」
リスクを恐れていては、何処にも行けなくなる。隕石が降ってくる確率などたかが知れているし、どんなに気を遣っていても不運な人は当たる。
「やったね! これで、優希も航生も一心同体だよー」
四字熟語の使い方に語弊があるような気がするが、水を差すまでもない。
四月も中旬になると桜は散ってしまうのが普通なのだが、公園の地面は珍しく桃色に染まっていた。誰のエサになるでもない花びらが、見慣れない色のバージンロードを作っている。
一閃、突風が流れた。桜吹雪が、優希のなびく髪と一緒にはためいた。
「……そうだ、近いうちにお花見にでも行ってみない? 桜もまだ残ってるし」
舞い降りる桜の花びらを見て、懐かしい目で彼女がそう提案してきた。
芸術のセンスが皆無である航生は、花見の誘いを受けるたびに断って来た過去がある。木下で弁当を広げるよりも、ファミレスで食べたいものを食べている方が幸せだと感じるたちだ。
花より団子がピッタリで、情景に心を動かされて一句読むこともない。食い意地が張って、景色を楽しむどころではない。
「それ、いいな……」
しかし、航生には失くしてはならない友達が出来た。生き物を第一に想い、無用の殺生を許さない正義感が強い少女だ。名前は、優希という。
自宅に、安心できる場所が存在しない。塾帰りでも平気で課題を山積みしてくるような親には、もううんざりしている。
一番居心地の良い場所で、この高校三年間という限られた時間を過ごしたい。
……優希と一緒にいると、自然と本音が出てくる。
もっと、同じ空気を吸いたい。
「それじゃ、決まり!」
はずみの良いハツラツとした声が、静かな公園に響いた。