「……」
普遍的に知られている知識量を凌駕した生物博士が、答えに行き詰っていた。
進むか下がるかで、中途半端になっていた。息苦しいのは、芝生ではなく優希だ。
窓どころか出入口も封鎖されている暗室で、ロウソクの灯火が僅かに生き永らえている。ガスコンロのように燃料が供給されてはおらず、蝋を消費してなんとか明かりを保っているに過ぎない。
弱弱しいオレンジ色からは、思い切りの良さが失われている。核でブルブル痙攣している体が、スクリーンに映し出されているようだ。
優希は、正に風の一吹きで消し飛んでしまう。悪意ある圧力が加わると、簡単に屈するだろう。
「……分かってる。芝生が苦しいなんて、優希が思ってるだけだって。踏まれても大丈夫なんだろうけど……」
そう言うと、肩を垂らして指先が草に触れた。植物が喋ってくれれば一発で解決するのだが、なるわけが無い。もし生き物の考えが透視できるのなら、彼女は翼を力強く羽ばたかせているから。
レジャーシートを緑の大地へと広げる手は、力なくお辞儀をしていた。
普通なら何でもないことを、深部まで掘り下げて迷路へと入り込んでしまう。多角的な視点を持っているが故のことだと言える。
スポーツで、先の展開を読む能力があるとするのならば、誰もが欲しがる。未然に相手の狙いを消すことが出来、一見デメリットが見つからないように思える。
……少しでも不利な要素があると、もうその選択を出来なくなるからな……。
しかしながら、一方向からでは見えなかった危険性を察知することで、その順に踏み込めなくなってしまう。結果として絶好のチャンスを逃してしまうことに繋がるのだ。
「……矛盾してるんだよね。植物自体は平気なのに可愛そうだと思っちゃうのも、他の人に押し付けたくないのに半ば命令してるのも」
諦めの心を振り切って、優希は緑生い茂る天然芝の上に腰を下ろした。傷付けたくなかったのか、スローモーションであった。
大空から差し込む日光が、金色のスポットライトとなって地表へと突き刺さっている。シャッターチャンスの桜が、真っすぐにそびえ立っている。
そこに、元気のない女子高生が一人。一面に広がる芝生にまで喜怒哀楽を持たせ、どう扱うべきか苦労している『変な子』。冴えない漫画でいじめの対象になるのは、だいたい彼女のようなタイプだ。
……矛盾、か……。
主張と行動の歯車がかみ合わないと、批判されることになる。整合性が取れないと、信用されにくくなる。それが、矛盾という状態だ。
優希が行き詰っているのは、植物への価値観。彼女自身の感情と事実が乖離して、チクチクと心を責め立てる。存在しない悪魔に、メンタル攻撃をされている。
目前にどん底の人がいて、航生は手を差し伸べようとしてきたことがあっただろうか。やれることは無いかと、必死に奔走したことがあっただろうか。
……無かったな……。
勝手なものだが、自分が良ければそれ以上手出しすることは無かった。余計な物事に首を突っ込むのを過剰に恐れ、救えたかもしれない人を無視してきたのだ。
そのことを後悔はしていない。どうせ過去の事実は変えようがなく、あれやこれやとIFストーリーを考えるだけムダだ。
くすぶった顔色のまま、優希がバッグから薄ピンクの大型弁当箱を取り出した。ずっしりと中身が詰まっているようで、重みに負けて手が下敷きになった。
桜の鑑賞より食べることにしか目がいかない航生だけなのだろうか、三色団子を片手に持って談笑することが本来の楽しみ方だと思うのは。
折角の木々も、気分が冴えていないのでは色が霞んで見えてしまう。ピントが合わずにボケてしまい、くっきりとした楽しさを味わえなくなる。
「……航生は、優希のことをどう思ってる? 無農薬信者だったり、菜食主義者だと思う?」
オンラインで通信が遅延しているかのように、優希の唇は鈍かった。一か八かの賭けに全財産をかけたような不安定さだ。
……優希は、命を大切にしたいだけなんだよな……。
菜食主義者と言うのは、その名の通り肉食をセルフ縛りしている人のことだ。タンパク質を何処で補うのかは常々疑問に感じるところだが、今回の焦点はそこではない。
彼女が述べる論理に基づくと、生き抜くために致し方ない行為は存在するべきだ。それが他種族の生存に不利であっても、己が滅亡するよりはマシということである。
動物は、血が流れていることが分かりやすい。それ故、同情を誘いやすくもある。
大雑把に分類すると、ヒトも動物の仲間だ。同志の死に哀れみを感じるのは、むしろ当然という感情しか生まれない。
……優希にとったら、命の天秤は平等なんだっけ……?
土の上を歩くアリと、鼻から水浴びをしている象。道端の花壇に咲いている真っ赤なチューリップと、名も無い畑に生える雑草。これらの命の価値が変わると言うことは、起こり得るのか。
人身事故の民事裁判は、収入損失が重視される。医者と老人では、命の価値が数十倍も異なってくるわけだ。
ふんわりとしたタンポポの綿毛で包まれている裁判所では、どのような判決が下るのだろう。猫が人類の癒し代表になっているからといって、贔屓されることは絶対にない。
答え方によっては、ここまで構築してきた信頼関係が一挙に崩れる。航生を見透かしている目線が、それを予期させた。
子供が間違えてビニルボールを投げ入れてくれれば、この膠着状態を打破できる。さもなくば、航生自身の言葉で茨を切り裂いていかなくてはならなくなる。
空気を読めずに『なにしてるの?』と甘い声で助け船を出してくれやしないか、とあたりを見回すが、はしゃぐちびっ子の姿は無かった。
ちゃぶ台返しをして、整えられた環境を台無しにしてしまいたくなった。首を縦に振っても横に振っても、足首にかかっている鉛の鎖は外れそうにない。
……ここで、逃げるのか……?
着信画面を開いて、望んでいる返信がくるかどうかも分からないのに目をそらさない。現実を受け止め、自己の中に取り込む準備をしている。
彼女は、これまで心を誰にも開いてこなかったのだ。価値観が合わないと言うだけで不適合と跳ねだされる世界で、光を目指して上へと泳ぎ続けてきた。
長年蓄積されてきたトラウマは、例え全知全能の神とてかき消すことのできるものではない。いつどこでぶり返しても、何ら不思議なことでは無いのだ。
「……命のことが大切だけど、自分のことも大切にする。それが、優希だと思う」
頭ごなしに全てを泡にすることは、口が許さなかった。中間から折れてしまいそうな棒をわき目から見守ることを、繰り返したくなかった。
「そうだよね。言ってること、おかしいよね……」
「おかしくなんかない」
自虐で人格が風化していきそうになった優希を、寸でのところで食い止める。
「それは、矛盾してるかもしれないけどさ、優希は。誰かに強制されてるわけじゃないんだろ? 何をしても、自分の勝手」
心理カウンセラーの勉強を受けに来たのか、談笑しながら桜をのんびり謳歌したかったのかは、もうどうでも良くなった。
当事者の優希が悲しむようなことがあれば、それは九割九分達成されていても失敗扱いだ。
……そうさ、自分の勝手なんだから。
厳密には答えになっていないような気はするのだが、人間の脳はコロッと騙されてくれる。
数学の方程式ではないのだから、確実な答えを追おうとすればするほど迷宮から脱出できなくなる。妥協という選択肢も、たまには役に立つことがあるのだ。
「……自分勝手にしてもいい、か……。優希、自分を縛ってたかもしれない……」
「そんなに深く考えなくてもいいんだよ。純粋に、自分のしたいことをすればいいんだから」
常識の範囲を超えないところでは、我慢をする価値はマイナスだ。倍返しになって負担が増大する時限爆弾を、誰がみすみす背負って生きていきたいだろうか。
欲望に忠実な人は、全身をいっぱいに広げて床に就けているように思える。公共の福祉に反しないのならば、何をしても自由だ。
「大切なものが二つあるのなら、どっちも欲しいのは分かる。でも、それがストレスになってるんだったら、無理しなくていい」
体あってこその高度な知能だ。万能な思想があっても、寝たきりでは大して影響は生み出せない。
優希は、その場でフリーズした。とは言っても処理能力がパンクしているわけではなく、一気にこみ上げた感情と理性を整理しているのだろう。
凍り付いていた頬に、また血が通うようになった。新鮮な赤身さながらのふっくらさを取り戻して、体調は万全と言ったところだ。
静寂が、芝生を覆い隠す。寝静まった後の安らかな街を連想させる、風そよぐ野原だ。とても、都市の中とは思えない。
一分はかからなかっただろうか。優希はため込んでいたらしい空気を一気に吐き出し、浮かび上がった。ボウリングの球にも見える黒いモヤモヤが、どこからか空いていた穴へと転がり落ちていった。
「……優希、どうかしてたみたい。せっかくのお花見に変な話を持ち込んじゃって、ごめんね?」
憑き物が落ちて、元のタンポポ少女がレジャーシートの上に正座している。当たり前の風景で、非日常。こんな少女は、二度と現れない。
「わざわざお礼を言わなくてもいいんだって。ほら、『友達』なんだからさ」
優希が仮でも作りたかった『友達』は、今や正式な『友達』へと変化していた。
「そうだよね、ともだちだよね。……こうきゆきねこれぜんぶつくってきたんだよ……」
「言葉が渋滞し過ぎだよ。言葉なんて、ゆっくり言っても減るものじゃないんだから」
『ともだち』という単語をまだ言いにくそうにしている彼女っは、また微笑ましい。ともかく、悩みが吹き飛んだようで何よりだ。
……優希の笑顔が、もっと見たい。
一緒にいるだけで、花が咲く。ポカポカ陽気が立ち昇って、手足の先端まで温まる。彼女は、白黒の塗り絵に色を付けてくれる唯一無二の存在になっていた。
……どんなことをしたら、優希がもっと楽しんでくれるだろう。何かプレゼントするのが一番……。
名案が、電球を点滅させた。
自作のおにぎりを頬張ろうとしていた優希に、さりげなく声をかけてみる。
「……優希、明日の放課後、予定空いてる?」
「……空いてるけど、何かな?」
優希の目が零れ落ちそうになった。先端が鋭利な棒で突かれたのか、大袈裟に芝生へと飛び出した。
光沢のある黒髪に、野生のエメラルドグリーンが映える。内側にカーブして、地毛であるかのように振舞っている。
天空から下界を観察している太陽で、彼女の瞳は金属をこすったように煌びやかになっていた。科学で神の類いが全否定されてから歴史も深くなったものだが、数式で証明できない美的感覚は今なお健在なのだ。
「……、明日、もう一回この公園まで来て欲しいんだ」
正直なところ、構想が容器の中を暴れまわっているだけで、具体的な案は示せない。
……それでも、何かアクションを起こさないといけない気がした。
優希の手が、刹那届かなくなった。蜃気楼を見ているかのように、何度手を握ろうとしても空ぶってしまった。
幸いにも彼女は腐敗した湖沼に沈まなかったが、二度同じことが起きない保障はどこにもない。明日の天気予報が外れる世界で、人の無事を願うだけということがどれほど無力なのかは、言わずとも分かる。
この奇妙な関係で成り立っている『友達』も、不慮の事態から露と消えてしまうかもしれない。甘い夢は、全てが泡となって弾けてから気付くのである。
「……それで、中身は?」
優希の手が、腕をせり上がってくる。酒に酔っているわけでもないだろうに、いつもより勢いがある。
それに触れて水を差すのも勿体ない。ここは空気読みの能力を試される国、日本である。
「……秘密。お楽しみと言うことで」
秘密と言うよりは、まだ箱の外見しか作っていないだけなのだが。
「それ、優希が喜ぶんだろうね……?」
タンポポを推しにしているほんわか少女は、極大の期待と極小の悪戯心をボールに注入した。メジャーリーガーたちも唸る、とても打ちづらそうなスローボールだ。
「うん、期待を裏切りはしないつもり」
優希を手放したくなかったとは、口が裂けても声に出せなかった。
……ここまでやって、優希を失望させてたまるか。