「……何かあった?」
「静かにー……。ほら、ここ」
彼女が見つめる延長線上には、草ではない緑で細長いものが絡み合っていた。よく見ると、右に左に動いている。
女子は虫ならなんでも怖がって近づいて行かないイメージを持っているのだが、自然をこよなく愛する優希に常識は通用しなかった。ハエたたきで潰すこともしなければ、ちょっかいも出さない。
昆虫についての知識が貧弱な航生でも、主要なものは見た目で判別できる。アニメに出てきそうな顔つきのやつがバッタで、大きなはさみを手に持っているのがカマキリだ。
自然界には、弱肉強食という単純だが残酷な制度が整っている。生存競争に敗れた者は勝者のエサとなり、その連鎖が最上位の消費者まで続いていくというものだ。今のところ、ピラミッドの頂点に立っているのは人類である。
「……航生は、どっちが強いか知ってる?」
興味津々で戦いの行方を見守っている航生を見て、その世界に深く入り込めるような会話に変化してきた。大きく見開かれたまん丸の目から、自慢してやろうと言う傲慢さは読み取れない。
記憶の彼方に、カマキリが草むら界隈の王だという記述がある。それに、見た目からして如何にもカマキリがフォークとナイフを手にした捕食者に見える。
「……カマキリ、かな?」
「ぴんぽーん! あの脚を見たら分かりやすいから、簡単だったかな?」
たぶん、優希の簡単と世間一般の簡単は、レベルがかけ離れている。一般人が昆虫関連の問題に全問正解できるわけが無い。
しゃがみこんでいる彼女は、聞こえない音楽のリズムに合わせて揺れている。緩いカーブを描いている眉毛に、唇の間からはみ出した舌。腐った世界ばかりを過ごしてきた心に、熱い血液を送り込んでくれる。
昆虫相撲の形勢は、カマキリが優勢のようだ。ジリジリと退却しているバッタだが、あとちょっと後ろに下がるとコンクリートの歩道に出てきてしまう。そうなると、別の方向からノックアウト負けする可能性が高い。
……優希って、全部大切にしたいんだよな……?
思いつきの疑問が、ふっと頭に出てきた。
道が分からなくて立ち往生している人が居れば、道案内をする。溺れそうになっている動物がいれば、引き上げてやる。助ける対象が一つだけだと、関係性は単純だ。他人の利害が絡んでこないので、思う存分力を発揮すればいいだけとなる。
今繰り広げられている闘争は、二者間の生存競争だ。判官びいきでバッタを助ければ、鎌力は貴重なエサを失ってしまうことに繋がる。この絡まった紐をほどくのは困難だ。
無知な人は、後先を一切考えずに弱気を助け、強きをくじく。生半可な知識が頭に入っていると、見殺しにする。どちらが正しいかは、分からない。
博識のエキスパートである優希は、どうするのだろうか。
「……優希、バッタは助けなくていいの?」
「えっ……?」
目を泳がせることもなく、点になって固まっていた。理外からの一撃で、プログラムがエラーを起こしてしまったようだ。
彼女の表情に、一瞬でも思案した様子が見られない。意志を捻じ曲げたとか、相手の意見の真意を汲み取ろうとするとか、そういった高度な処理が行われなかった。
どちらかを助けたいと思っているのなら、何も出来ずに体を硬直させてしまうことはないだろう。持っている意見はすぐに主張する優希のことだ、明確な立場を持っていたとするのならば、もったいぶりはしない。
首をかしげる彼女の頭上には、クエスチョンマークがぼんやりと浮かび上がっていた。漫画の表現以外で見たのは初めてだ。
優希が、唐突に航生の膝に置かれていた手をつかみ取った。
「……子供のころに、ヒーローもののアニメ、見たことあるかな?」
「よく見てた。ああいう風に将来はなってみたいって思ってた。……今となっては儚い夢だったけど」
カッコいいデザインのマントを羽織った正義の味方が、空を飛んで悪人をやっつける。難しい言葉を知らなくても、関係性が分かりやすいものばかりで、毎週放送されるのを楽しみにしていた記憶がある。
今でこそ子供も堅実志向になってきているが、基本的に幼い子は身近にみられる人々に憧れる。お花屋さんしかり、警察官然り……。それはアニメの中も例外ではなく、空飛びヒーローも将来の夢に入ってくるのだ。
「……それじゃあさ、世の中は悪いことと良いことの二つだけしかないのかな?」
「……」
手から感じる不安定な温もりが、二択問題ではないことを伝えている。
正対していたはずの優希は、もうすぐそばまで来ていた。片手で軽く手を繋いでいる。
……イエスでもないし、ノーでもない。
国家の法律によって決められた条項に違反すると、犯罪者になる。罪を犯している以上、その人は『悪人』となり、刑務所か拘置所に収監されることになるのだ。
軽い気持ちで万引きに走れば、それは『悪い事』に入る。店側は金銭被害を受けていて、明らかに他人を害する行為に含まれるからだ。
しかし、その万引き犯が明日をも知れぬ身だったとすれば、どうだろう。死にかけの子供に食料を与えるためだとしたら、印象はどう変わるだろう。中には、許してやってもいいという意見が出るのではないだろうか。
そもそも、『犯罪』という行為自体は国が決めているものであり、それは単なる文章でしかない。全員が政府に信頼を置いているから成り立っているのであって、国民が無視するようになれば形骸化してしまう。
イスラム教徒から見て肉食は犯してはならない禁忌であるが、無宗派が多い日本でそれは成り立たない。レストランで肉抜きを頼もうとしても無理があるというものであり、強制させようとすれば即ち逮捕される。
「カマキリは、バッタを食べようとしてるよね。カマキリが悪くて、バッタは悪くないの?」
ピラミッドの上方に位置する生き物にとっても、狩猟の成果は生命に直結する。食物を得られなければ飢え死には避けられず、また自己防衛も行えなくなる。
経緯を全く考えない人々は、その場面だけを切り取って判断する。そうすると、断片的な証拠を頼りにせざるを得ない。誤った決断を下してしまう可能性も高くなる。
……これまで、なんとなく弱い方を助ければいいと思ってたけど……。
思考停止は恐ろしい事だ。事実が目の前に落ちているのに気付かず、釣り糸でぶら下げられたゴシップに飛びつく。自分に都合のいいように情報を操作し、不利益を認めない。
「自然を大切にするっていうのは、ただ闇雲に手を出せばいいものじゃない。元から出来てる関係は、崩しちゃいけないんだよ?」
より一層、声が大きくなった。手を握る力が増していっている。
「……優希は、どこでそんな考え方を身に着けたんだ?」
無関心な人から見れば面倒くさいだけの提案をする優希だが、その自然に関する無尽蔵の知識は何処から来ているのだろうか。図鑑を漁っただけで、倫理観が変わるとは思えない。
「それはねー……、ひみつ! またいつか話すかもしれないけど、今はひみつ」
「ケチ」
「ケチじゃないもん!」
触れられたくないことがあるのだろうか。とにかく、無理強いはしない。
……弱肉強食ってことは……。
言い換えれば、上のものに虐げられる構造のことだ。
「……今の俺も、バッタなのかな……」
自己に原因があるとは理解していながらも、やはり社会構造を言い訳に使いたいという気持ちもある。
眉をひそめられるかと思ったが、優希は意外にもふっくらした頬っぺたを外に押し出した。
「そういうことなら、見て見なよ」
促されるがままに、先程までカマキリとバッタが争っていた土俵に目を移す。
「……!」
そこには、カマキリがひっくり返っているだけだった。
「……たまには、大金星もあるんだよ?」
……もう少し、頑張ってみようかな。