優希はまだクラスに、とりわけ女子陣には敬遠されているようで、行くところ全てで意図的に避けられているように見える。
女子のネットワークが複雑なのは想像で何となく思い浮かぶが、思想だけで敷居を作ってしまうのはどうなのだろう。他人に迷惑をかけるわけではない考え方ならば、誰もが持っている。それを制限してしまうのはおかしい。
隅で固まって行われている女子会のヒソヒソ話からは、しきりに『あの子がね』『皮被っちゃって』と、とある女子生徒を指していると思われる単語が漏れてきている。空気に徹しようとしても、すぐ隣でぺちゃくちゃ喋っているのでは嫌でも耳に入ってくると言うものだ。
教壇付近で黒板消しを手にしているのは、日番となった優希である。大雑把にしてチョークの粉がぼんやり残っていることが多い黒板だが、今日は珍しく丁寧にされていた。
もう一方の黒板消しは、誰も触れた様子がなかった。二人一組のはずなのだが、相方がサボっている。
日番と書かれた文字の下には、バッテンで大きく消されている『○○』という苗字。このクラスから消えて無くなれという、強い悪意を持ったメッセージ性を感じる。
……何か、してやれることは……。
直接的な手段で訴えかけるのならば、制止することが出来る。そんなことを許すつもりは無く、引く気も無い。真っすぐな心が力で捻じ曲げられることは、会ってはならないのア。
間接的な攻撃は、防ぎようがない。登校した時には、全て終わっている。もしくは、休み時間で目を離したスキに行われている。
これの厄介な点は、身体的な暴力行為ではないことだ。言葉の暴力は分かりづらいと言うが、本当にその通りである。心が傷ついていようとも、直視しない者には気づかれない。会話してみて初めて、ダメージを受けていることが分かるのだ。
『友達、だからね?』
そう優希に言われて手を握られた時の満開タンポポを、壊したくない。雑草でもないのに、根っこから抜かれて欲しくない。
「……桜葉さん、って言うんだよな、あの子?」
「……何の話だよ」
独り占め欲が先行して、思わずため息をついてしまった。そんな権限など、与えられていないと言うのに。
塾ごときでヤケクソになる航生には、友達を作ろうと言う意欲が湧いてこなかった。世紀末ばかり思い描いている妄想勢に、近づこうとする男子も少なかった。
その中でできた数少ないため口で絡めるのが、独りぼっちを狙って突撃してきた高崎(たかさき)だ。こいつはこいつで大分変わっており、ずっと妄想の世界を具現化している。この前など、『全人類が元素に分解されたら』という、頭のネジが何本外れたらその発想に行きつくか分からないことを口にしていた。
それにしても、優希に巻き付いてくるとは予想外だ。ナンパして落とそうと提案してきた時点で、脳天をかち割ることにした。
「見たぞ、園部が桜葉さんのこと名前で呼んだところ」
言われていることが、よく分からなかった。
これまでに優希と一緒だったのは、学校の裏庭と下校中、それと公園だけだ。周りに野次馬が潜んでいた気配は無かった……はずなのだが。
噂話で突っかかって来たのなら撃退できるが、自身の耳で聞かれてしまったとなれば、誤魔化しは効きそうにない。しらばっくれるだけ、逆効果だろう。
「……どこで」
「お、否定はしないんだな。ほら、昨日花壇でしゃがみこんでただろ?」
正直言って、通りに人が入ってこなかったことしか覚えていない。遠くから聞き耳を立てていたのであれば、十分あり得る話だ。
「女子に当たる勇気もない園部が、まさか女の子落とすとはな……。同盟解消だな」
「待て待て! どこに話持って行ってるんだよ!」
「……これ、小説のネタに使えるな……」
「勝手に話を改変するんじゃない!」
この自称小説家は、何でも文章の材料にする。自作小説を面白くするためならば、事実改変もいとわないのだ。
「……それで、桜葉さんのことを見ながら何か悩んでる様子に見えたけど?」
鋭い指摘が航生に突き刺さった。他人が分かる程、思いつめていたというこどだ。
友達になってくれと優希に頼まれたのは、紛れもない事実だ。信用が置けそうだと思ってくれたからこそお願いをしてきたのであり、航生もそれに応えたいと心が燃えたのだ。
「……クラスの女子陣が、どうも優希を毛嫌いしてるんだよな……」
偏見や忖度なしに、もっとクリアになったレンズを通して人を見られないのか。人を貶めるような行為をする奴は、いずれ我が身に返ってくるというのに。
「女子は、そういうところ自分勝手だからよ。気にすんな」
茶化してはいなさそうにニンマリとして、肩を思いっきり叩いてきた。
自分の意見を真っ向から発射できるのは、子供の頃から養成されてきた能力だ。性格が固定されてしまった高校生になって修正しようとするのは至難の業で、根暗な人が一日で代表に立候補などできやしない。
持たざる者は、持つ者に妬みを抱くというものが通説だ。いくら努力を怠らなくとも、天才には負けることがある。どうしても埋まらない溝を嘆き、人は上位ランカーを『才能でのし上がっただけ』と一方的に非難する。
後ろを向いていては、上手く前には走れない。徒競走でそんなことをすれば、世界チャンピオンでも負ける。
目の前にぶら下がっているパンという可能性に食いつけるのは、ただ真っすぐすすんできた者だけだ。近道を模索して脇道に逸れてしまったり、絶望して頭がうなだれてしまった敗者にチャンスなど与えられるはずがないのだ。
優希にしろ、高崎にしろ、ひよって妥協しない。話し合いで折れることはあれど、議論もせずに譲歩するということは辞書に記載されていないに違いない。
人への妬み心は、向上心を阻害する。正当な他者にレッテルを貼り付けてしまえば、それ以上の発展はしなくなる。一瞬の快楽に溺れて、将来の芽を自ら摘み取ってしまっているのだ。
隣であれだけざわめいていた女子会が、静かになった。皆高崎に白い目を向けている。場所が場所なら、女性差別でメディアに取り上げられてもおかしくない。多少、言い過ぎなところではあっただろう。
しかし、何の罪もない優希を悪人に仕立て上げようとする会話の流れには賛同できかねる。
単純明快な男子のピラミッド構造と比べて、女子の関係性はブラックボックスに隠されている。乙女心を読み取れという試験は、九分九厘無理な相談だ。
しょうもない恋愛話は勝手に盛り上がってくれて構わないのだが、特定の人物を名指しで虐げようとするとなると話は変わってくる。
第一に、彼女たちが主張している『皮を被っている』とは、どの根拠を以っているのだろう。
公園の芝生ですら立ち入らず、一輪のタンポポだけで授業が出来てしまうほど知識が豊富。自然界の掟を守り、不用意な介入をしない。まさに、本来あるべき自然は人間の姿だ。
優希がクラスの女子と馴染めないのは、女子会常連が暗躍しているからではないのか。そういう陰謀論を信用してしまうほど、言いがかりの程度がひどい。
正義の味方を散々貶していた航生がいえることでは無いが、彼女のためならいくらだってヒーローになれる。
地獄まっしぐらになっていた線路の分岐器を動かしてくれたのは、他でもない優希だ。錆びついていて動かしにくかっただろうに、何とか絶望への道を回避させてくれだのだ。
心が純粋な人は、損得無しに応援したくなる。今や、タンポポを見るだけでうっとりしている自然少女の笑顔が浮かんでくるようになった。
「……ここにいたら、園部まで変な目で見られるぞ?」
「もう見られてるよ」
優希を庇おうとした時点で、このクラスの女子を半分敵に回したようなものだ。今更心証を上げようとしてもムダだろう。
少し目を離していたスキに、黒板掃除も終わっていたようだ。文字の切れ端が一つ残らず消え去っていて、さぞかし次の授業を担当する教師は気持ちがいいに違いない。
日番印の下には、書き直された跡があった。角ばった大きな文字は、チョークが不慣れだと言っていた優希の手書き文字とするのが普通だ。
僅かに、胸の血管が収縮した。やるせない気持ちで、胸が満たされていく。何とも歯がゆくて、落ち着かない。
……優希は、どう思ったんだろうな……。
自身の苗字にバツを付けられて、いい気にはならない。正規で消去されていたとしても公衆の面前に晒されるのは嫌だというのに、悪意が感じ取れるというのだから不快にならないわけが無い。
こういう時にフォローしに行けるのが、友達なのではないか。気に留めるなとお節介でも言えるのが、分かち合った仲の行動というものではないのか。
何はともあれ役目を果たした優希は、クリーナーのスイッチを押し上げた。まだ朝早く、チョークの粉で汚れ切っているとまでは言えないが、これも次に使う人を考慮しての事だろう。
いつもなら、読書勢に嫌われるほどの爆音が教室中に鳴り響く。放課後以外でクリーナーを使う人がいないのは、この爆音が会話や思考を遮ってくるからだろう。
教室内は、やけに静けさがあった。耳に入ってくるのは、女子会からのクスクス笑いだけ。故障と思って何度もスイッチを上下させているが、クリーナーは働く気を見せない。
見慣れないコードが、床面に落ちていた。無断でスマホの充電をしていた奴らを見たことは有るが、そのケーブルとは似ても似つかない。掃除機の末端についているような、ガッシリとしたプラグが備え付けられている。
それが何の電源コードなのかは、明白だった。
一日に一回の頻度でしか使われないとはいえ、節電するほどの電力量を消費することは考えにくい。プラグが外れているのを見たことも今日が初めてで、長さにも余裕がある。
普段から優希の悪口ばかり口にしている女子陣を見てきた航生には、すべてが彼女を妬む集団が起こした行動にしか思えなかった。
陰湿ないじめは、れっきとした犯罪だ。それは万引きと同じで、学生でも関係なく処罰される。
しかしながら、加害者が不透明であると中々立証しずらいという面はある。現場を目撃したとしても、『節電のため』などともっともらしい理由を付けられては手が出せない。
優希もようやく電源が抜けていることに気付いたようで、いそいそとプラグを差し込みに行った。
……何も思わない、って考えるのは楽観的だよな。優希も、人間なんだし。
態度に不満が含まれていないので、彼女としては何もダメージを負っていないかもしれない。あるいは寛容な心をもって、いかなる行為でも赦しているのかもしれない。
完璧そうに見える人間でも、欠点は存在する。頭の回転が速くても運動が得意でないのはお決まりのパターンであるが、きちんと弱点を持っている。
短所が平然と見え隠れするのなら、たいした問題は起こらない。長所と短所が組み合わさって個性であり、場合によっては相乗効果でもっと魅力的に見られることもある。
気を付けたいのが、短所を意図的に人から隠そうとすることだ。周りの人から期待されている姿を追い求めている人が陥りやすく、根が真面目なのが災いして他人に相談もできない。
重くて吐き出せない鉛は、ヘドロが底から溜まっていくように積み上がっていく。それが許容量を超越してしまった時、鬱や自殺などの残念な結果に繋がってしまうのだ。
世間から見られている理想の人物像と言うのは、偏見と過大評価の塊だ。そんなものに人生を道連れにされてはたまったものではない。
無理のある我慢も同様で、ストレス過剰になってしまう可能性が高い。心の不調と身体の不調は連鎖していき、いずれ倒れてしまう。
優希には、そうなってほしくない。欲を言えばもっとのびのび暮らせるクラスに移籍させてあげたいくらいだが、それを高校に交渉しても効果は無いだろう。
……無理してなければいいけど……。
透明な色は、一度黒に染まってしまえばもう元には戻らない。輝きを取り返すことは、二度と出来なくなる。
「……ほらみてよ。桜葉さん、何も気づいてない」
「ほんとだー! 天然アピールすることもないのにねー」
胸糞悪い会話が、すぐ隣で行われている。ここで止めたとしても、再発してしまうだろう。航生は、現状無力だ。
黒板消しを元の位置に戻した優希は、一歩窓側に歩き出そうとして、その場に止まった。窓の向こう側に、視線が固定されている。
そんな彼女の行動が気になったらしく、つるんでいる女子たちも目線を辿って行った。
……あ、あの目は……。
縁の下で力強く咲いているタンポポを見ているかのような、好奇な目。生き物に対する興味が、爆発していた。自然と頭が窓の方へと伸びている。
黒い点が、徐々に大きくなってきた。軽いゴミは風に流されてしまうだろうから、きっと虫である。まるで、羽ばたいているかのような……。
「……あれ、虫じゃない!?」