「……あれ、虫じゃない!?」
「……ほんとだ!?」
野生の虫にたじろがない優希がこの世界でスタンダードと言う説は、たった今否定された。定説通り、基本的に嫌っている人が多そうである。
換気のためにと半開きにしてあった窓から、何やら大きな黒い虫が飛び込んできた。ふわふわ下降していき、教卓に着地した。もちろん、優希は逃げ出していない。
彼女よりも距離が離れている女子陣は、逃げ出すのが癪だと、腰が抜けながらも踏ん張っている。勝手に逸れる目を引き戻し、大きな黒い虫に集中しようとしていた。
長い触覚に、すばしっこい動き。机の上を縦横無尽に駆け巡る様子は、どこかでみたような光景に似ていた。
冷蔵庫の下から出てくる、集団生活をして暮らす厄介な害虫。スプレーや新聞紙で撃退する、人間の大敵。
「……あれ、ゴキブリじゃない……?」
女子陣の一人が言葉に出すと、その恐怖は伝染していった。例え嘘だったとしても、真のように広がっていく。
固められていた机を強引にどけて、教室外へと走り去っていく。悲鳴こそ出さないが、ゴキブリ嫌いなことくらいは分かる。
セミやカブトムシならまだ耐えられたはずの女子たちも、恐怖心を植え付けられたゴキブリ相手では敵わなかった。残っているのは、恐怖より優希への憎しみが勝った者だけだ。根性を褒め称えればいいのか、そこまでして固執するなと呆れればいいのか。
怖気ることなく、優希はそっとゴキブリらしきものに手を伸ばした。真っ黒な背中に魅入られたかのように、隅で起こったドタバタ騒ぎをシャットアウトしている。
もうちょっとで手の中に収まる、というところになって、いきなりゴキブリは手のひらを潜り抜けた。巨人に捕まってしまっては何をされるか分からないので、当然と言えば同然だ。
皆が注目する目の前で、未確認虫は優希のてっぺんへと降り立った。黒髪とその体色が重なって、擬態する形になった。航生から見えやすいのは、水平に見ているからである。
自分の身になって想像したのが仇となって、しきりに髪の毛を振り払いながら残っていた女子も教室から逃げ出していった。まるで優希が人ではないような軽蔑顔で、吸う空気が一段と重くなった。
あまり虫を気にしない運動系男子も、流石に気遣って寄って行こうとしたが、そのような心配は無用だったらしい。
「……ゴキブリはゴキブリでも、家にいるようなのじゃないんだけどな……」
言うなり、優希は頭頂部に乗っかっていたゴキブリをつまみ上げた。
……開口一番、ゴキブリの種類なんだ……。
これは、航生でなくともそう思ったに違いない。
昆虫が人から嫌われやすいのは、その見た目の気持ち悪さからだ。弾力のある幼虫の体や中で蠢く脚の動きは、吐き気を催しても仕方のない部分がある。
手で直接触れなければ、そこまでヘイトが向くことも無い。虫取り網でセミを捕獲することは、虫嫌いでもなんとかできる。道具というワンクッションを挟むことで、虫と関わっている感覚を薄れさせているからである。
「……あの子、ちょっとおかしくないか……?」
「……でも、自然を大切にするって言ってたような……?」
ゴキブリを手にして熱気のこもった演説をする優希に、困惑が向けられている。クラス開きでの『自然を大切に』発言もあって、やや肯定しているような口素振りが多そうだ。
頭文字をとってGとも言われる害虫が排除対象に含まれているのは、実害が発生するからだ。台所の隙間に潜み、夜間に食物を食い荒らす。細菌や汚れを体に付着させ、病気をはこんで来る。これが、害虫以外の何であろうか。
一方的に虐げられている生き物は保護しようとするが、双方向に矢印が伸びているものは大人しく見守る。そういったスタイルをとって来た優希は、ゴキブリのことをどう見ているのだろう。即座に叩き潰さないのを見ていると助けたい気持ちが溢れているように思えるが、害虫としての働きを無視しているのだろうか。
バッタやカマキリが自然循環の流れに入っているというのは周知の事実だが、人間も輪に加わっている。娯楽目的で絶滅させられた生物ならまだしも、人に害を与えるゴキブリが助ける対象に入ってもいいのだろうか。
授業時間でもないのに、挙手してしまった。理系に進むつもりが毛ほども無い人間が、生態系について疑問を持っている。
ノリに乗って、優希に指名された。教壇の前でチョークを手にしている彼女は、すっかり生物専攻の教授だ。
「……ゆ……、桜葉さん、ゴキブリは病気を持ってくるけど、それでも助けなくちゃいけない?」
危うく、名前呼びをするところであった。今は、火に注ぐ油のような材料を追加注文したくはない。
……人間は保護の対象外だと伝えられたら、幻滅することになるかもしれない。
優希がその独特の思想で友達が出来なかったのは、れっきとした過去の事実だ。誰にも理解されない思考を持っているというだけで学校生活が楽しくないものになる気持ちは、想像しがたいものがある。
救われなかった道筋に、光を。白馬にまたがって悠々と現れる勇者ではなく、通りすがりの同級生として、優希をクラスに馴染ませてあげたいと思った。自らの願望が少なからず入っているのが懸念事項ではあるが、それはどうしても取り除けない。
しかし、航生にも思想というものがある。人間をやたらめったら否定する自然回帰は生理的に受け付けない。例え人間が不利益を被るのが最善だとしても、感情は全く天秤に関与していない。
恋人から、人間は生まれてはならない生き物だったと説得されたとしよう。はいそうですかと二つ返事で納得するわけにはいかない。それを認めるということは、自分も彼女もこの世に出てこなかった方がいいということになる。
生まれてきた以上は、その枠組みの中で力いっぱいもがくしかないのだ。人数調整など人権無視の殺人であり、正当化されるべきものではない。長期的に見れば滅亡してしまうとしても、そのためにたくさんの個体を切り捨てることが正しいとは思えない。
どんな種も絶滅させてはいけないと主張しているのにも関わらず、人間は滅んでも良いと言う。実際にそんな人がいるのかどうかは分からないが、一文で矛盾していることは分かるだろう。
脇腹を指で保持していた優希は、窓枠でそっとゴキブリを空に放った。高速で羽ばたきながら、山々の見える向こう側へと飛び立っていく。
「……勘違いしてないかな? ゴキブリだって、全部が全部家の中に住んでるんじゃないんだよ?」
これは、航生への返答と言うよりかはクラス内への講義だ。
桜葉教授は、黒板を中央から二分割した。それぞれに『家にいるゴキブリ』『山にいるゴキブリ』と分かれている。
……山にもいるんだ……。
見たことないと反論しようとしたが、航生よりも優希の方が知識量で遥かに上回っているのは察する通りだ。そもそも、山登りに行ったことが一回しかない。
成人にしてはごじんまりとした先生が、みんなの疑問に逐一丁寧に答えていく。
「……家の中にいるゴキブリっていうのは、体が茶色いのが多いかな。カサカサって音を立てるのも、それ」
これは、よくあるゴキブリのイメージだ。殺虫剤を吹きかけても逃げ回り、どうにか動きを止めたころには容量がだいぶん減っていることがある。
興味が無さそうだった男子までもが、優希の授業につかれていた。真剣に考察する者、ふざけてばかりいる者と多種多様だが、この場は支配されていた。
航生がゴキブリの話を延々と語っていても、優希以外には見向きもされなかっただろう。その差は、何なのか。
断定するまでには至らないが、有力な候補は思いついている。それは、純粋さだ。
人の性格は、普段の行動に現れる。模範的な生徒会長を演じていても、肩がぶつかっただけで悪態を付くようでは人が離れていく。教師からの評価と生徒からの評価が反比例しているのは、性格によるものだ。
初日から、優希はアクセル全開だった。グラウンドに点々と生えている雑草を極力避けながらグラウンドを一周し、ふざけて机の端を破損させた男子へ瞬時にお叱りを飛ばしていた。一目、変人に見える。
その後も、行動パターンは全く変わらない。間違ってふらっと窓から虫が入ってきたときは、率先して元の世界に戻す。猫を被っていると痛烈な野次を飛ばされていたこともあったが、信念を曲げはしなかった。
利害関係が絡まずにフラットな目で見ることの出来る男子からは、特異だがやっていることは何となく分かる子だったのだ。もちろん、中にはレッテルを貼って無視していた男子もいるだろうが。
同性に嫌われることはあるだろう。ただ、とてもではないが男子からも敬遠されるようなキャラではない。小学校、中学校といじめのような排除を受けていたらしいが、一体全体何があったのだろう。暗い過去を引っ張り出したくはないので、真相は知りたくない。
「……叩き殺したことあるけど、桜葉さん的には説教?」
ついに、接点のない生徒から質問が飛び出した。
無用な殺生について、優希ほど厳しい顔色を示す人はいないのではないだろうか。電子レンジで猫をチンしたと冗談でも告げた日には、絶交されてしまうだろう。
そんな自身の理論を一番実践している彼女は、何一つ顔色を変えなかった
「家の中に住むタイプのゴキブリは、はさっき航生の言ってた通りで、病気を運んできちゃうんだよね……。……仕方ないと言えば、仕方ないかな」
積極的に推奨はしないものの、害を与えてくるものならば文句は言えないとする立場だ。危惧していた、人間を不必要に蔑む宗派ではなかったようでなによりだ。
「……でも、ゴキブリは攻撃しようと思って病気を持ってくるわけじゃないから……。どうしたらいいのか、優希も分からない」
数学に曖昧さは許されないが、倫理観は割と緩い事がある。基準をギチギチに固めていれば仕分けが楽になるだろうが、数少ない例外に当たった時にどうしようもなくなってしまう。曖昧なゾーンを作っておいた方が、もしもの逃げ道にもなるのだ。
意図なく害がある生き物には、この優希をもってしても決断を下しづらいようである。
「桜葉さんは、家のゴキブリをどうしてるの?」