『そいじゃま、皆様方。私
そういって、期待の有望株の手を当然のように引いて去っていった灰被りのトレーナーを、新人から中堅までいるトレーナーの群れが、恨めしそうに見送っていたのは言うまでもない。
渦中の本人といえば、およそ半年ぶりに会えた妹分の手を取るなり、スキップでもし出しそうなほど浮ついていて、その妹分が嗜めるほどなのであった。
しかし、彼女――あぶみは、トレーナー室につき、妹分――ビワハヤヒデを招いた途端、ジロリと振り返って、たじろぐビワハヤヒデに向き直った。
その表情は、薄暗い部屋の中も相まって、いつもの腑抜けたそれとはまるで正反対なのであった。
『契約のことなんだけどもさ、強要するわけにも行かんから聞いとくわ。本当に、良い? 私で』
『……何を言い出すかと思えば、あれは子供の口約束じゃないってぐらいわかっているだろう?』
ビワハヤヒデのフォローをかき消すように、彼女の口は回る。
『トレーナー養成科のある国立大学を二浪して入学、中央トレセン学園のトレーナー免許を取得して卒業するのに六年かかっているのが私だ。はっきり言って、私よりも才のある奴はいるし、ベテランも勢揃いだ。君の目的を考えれば、私以外でも____』
その時、ビワハヤヒデの手が伸び、
『でっ……むにゅ』
『全く……いつもの姉さんらしくない』
あぶみの両頬を包み込んで、彼女は大きくため息を吐いた。あぶみの頬に、柔らかな暖かさが広がった。
ギラリ、と、赤縁メガネの下の瞳が煌めく。
『姉さんのそれは私の、そしてブライアンへの愚弄にもなっていることに気づいていないのか? 私たちの目は節穴じゃない。
それに、トレーナーとウマ娘との信頼関係というのは勝利の方程式における重要なファクターだろう? それが既に完成している時点で他との差になるだろうことがわからない姉さんじゃないはずだ。
……大体君の学歴は、私たちに時間を割いてくれていたが故にじゃないか、全く____』
『すとっふ!わはった、もう言わないから……』
名残惜しそうに手首を掴んで、頬から手を引かせたあぶみに、ビワハヤヒデは心配そうな表情を崩さない。
『流石にここははっきりさせたかったのよ。いやあすまないすまない』
そんなビワハヤヒデを安心させるように、あぶみの表情は、たちどころに身に染みついた表情に戻ったのだった。
ビワハヤヒデの項垂れていた大きな耳が、ピコンと立ち上がった。
『ま、じゃあ、改めてよろしくね』
そのようにして、入学初日にして契約の書類が理事長室に届くという、中々に珍しい出来事が起こったのであった。
「なーんだか居心地悪いですなぁ」
「基本的にトレーナーとウマ娘の契約は“ウマ娘側の自由意志”が尊重されるが、あんな大勢の前で、さんざ他のやつ断ったあとだからなぁ、お前に矢印向くのも仕方ないだろ。……ま、いずれ鎮火するさ」
その翌日。トレセン学園の屋上にて、薄いベールのように雲がかかった青空に、女性の疲れ切った吐息が溶けていった。生徒が授業中の間、多くのトレーナーは事務作業に追われるが、終わってしまえばすることがなくなるのである。
鉄線に背をつけ、ため息をついた張本人――あぶみの傍で、彼女の先輩は、武骨な両手をポケットに突っ込んで、眼下の風景へ顔を向けていた。
「しかし、お前はそんなことでしけた面見せる奴じゃないだろう? そんなにビワハヤヒデを担当するのが不安か?」
ガリ、と、ココアシガレットを噛み砕いて、あぶみはおもたげな眉をさらに沈めた。
「誰だって嫌でしょ、ヒトの人生壊すかもしれないの。それが可愛い可愛い妹分なら尚更だ」
「でも、それが約束だったんだろ? 契約した今更、何言ってんのよ」
苦笑い混じりにそう答えた彼を、あぶみは不安げに見上げる。
それは、彼女のサブトレーナー時代にも度々見せた、普段の飄々とした態度とは一転、怯えたような、胸に嫌な鼓動の走る表情なのであった。
頭をガシガシと掻いた先輩は、ポケットからもう片方の手を抜き、
酷い癖っ毛の頭にそっと乗せ、優しく撫でた。んう、と手の下から声がなった。
「お前なら大丈夫さ。少なくとも、俺の下から一年で出てこれたのは片手で数えられるぐらいしか居ないんだから…… そんな姿、担当に見せるんじゃないぞ」
「……先輩ぐらいにしか見せませんよ」
わしゃわしゃと犬でも撫でるかのようにしてくる彼の手を、両手で掴んで払ったあぶみは、三白眼に光を戻していたのだった。
「ま、ぼちぼちやりますか…… 頭痒いわ……」
そういって、屋上の出入り口に足を向けた彼女の背中は、いつも通り丸まっているのだった。
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一話が複数に分かれてる奴、まとめて欲しい?
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